対峙
平成十七年、初夏。
イズミマチ本社。
会長室。
窓の外には、初夏の陽射しを受けた第一工場が見えていた。
会長・伊東信成。
その向かいに、社長・伊東征広。
二人だけで向かい合っていた。
机の上には、次期社長人事に関する資料が置かれている。
征広が静かに口を開いた。
「会長。」
「私は、来年六十になります。」
「その時を一区切りに、社長を退こうと思っています。」
信成は征広を見た。
「まだ早い。」
「そうでしょうか。」
「お前は社長になって、まだ七年だ。」
「専務の時から会社を立て直してきた。」
「バブルが弾けた時、会社は死に体だった。」
「そこから、お前が立て直した。」
「社長になってからも、会社を軌道に乗せた。」
「今やっと、成長するところまで来たんじゃないのか。」
「はい。」
征広は頷いた。
「だからこそです。」
「今だから、次へ渡したい。」
信成は黙った。
征広は続ける。
「私は専務時代から、ずっと会社を見てきました。」
「社長になって七年。」
「自分の役目は、十分果たしたと思っています。」
信成が言った。
「まだやれるだろう。」
「やれます。」
征広は即答した。
「ですが、やれることと、やるべきことは違うと思っています。」
信成の顔が険しくなる。
「誰に任せる。」
「北沢です。」
「北沢?」
「はい。」
「まだ早い。」
「私はそう思いません。」
「北沢は会社全体を見ています。」
「営業だけではありません。」
「海外も、現場も、開発も分かっている。」
「これからのイズミマチを任せるなら、北沢が適任です。」
信成は椅子に深く座った。
「征広。」
「はい。」
「俺は、お前にもう五年、十年やってもらいたい。」
征広は黙った。
「その間に、信裕を育てる。」
「……。」
「信裕なら、いずれ会社を任せられる。」
征広は信成の目を見た。
「信裕が優秀なのは、私も分かっています。」
「ですが。」
「次の社長を決める時に、血筋を理由にするべきではないと思っています。」
信成の眉が動いた。
「会社にとって、誰が一番いいのか。」
「それだけで決めるべきだと思います。」
「そういう言い方をするな。」
「申し訳ありません。」
征広は頭を下げた。
「ただ、私は会社の将来だけを考えて申し上げています。」
「私も同じだ。」
「分かっています。」
「だから話が平行線なんだ。」
しばらく沈黙が続いた。
信成が窓の外を見る。
征広も何も言わない。
やがて信成が口を開いた。
「……信裕を呼ぶ。」
「はい。」
信成は電話に手を伸ばした。
「俺たち二人で話しても、決まらん。」
受話器を取る。
「信裕を呼んでくれ。」
しばらくして。
扉が開いた。
「失礼します。」
伊東信裕が入ってきた。
「会長。」
「社長。」
征広に一礼する。
「信裕、座れ。」
「はい。」
信裕が席につく。
信成は征広を見る。
「征広から話せ。」
「はい。」
征広は静かに説明した。
来年六十歳を迎えること。
社長を退き、会長として会社を支えるつもりであること。
そして、次期社長として北沢を推薦していること。
信裕は黙って聞いていた。
話が終わる。
信成が息子を見る。
「どう思う。」
信裕はすぐには答えなかった。
しばらく考える。
そして。
「……僕は、北沢専務が適任だと思います。」
信成の表情が止まった。
「何?」
「北沢専務です。」
「なぜだ。」
「僕の上司だから、という理由ではありません。」
「専務は、営業だけではなく会社全体を見ています。」
「海外市場を開拓してきた実績もあります。」
「社内の人間からも信頼されています。」
「今のイズミマチを任せるなら、北沢専務が一番だと思います。」
信成は黙っていた。
「信裕。」
「はい。」
「お前は、俺の考えを分かっているのか。」
「分かっています。」
「なら、なぜ逆らう。」
信裕は父を見た。
「……すみません。」
「生まれて初めてです。」
「会長、いや、父さんの言うことに、背きます。」
信成は椅子に背を預けた。
信裕は続けた。
「僕は父さんが嫌だから言っているんじゃありません。」
「会社のために、北沢専務がいいと思っています。」
「それが、僕の考えです。」
征広は黙って二人を見ていた。
信成はしばらく息子を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうか。」
そして立ち上がった。
「分かった。」
信裕が顔を上げる。
「取締役会で決めよう。」
「父さん。」
「俺一人で決める話じゃない。」
信成は静かに言った。
「取締役会で決める。」
一拍置く。
「必要なら、株主総会にもかける。」
征広は黙って頷いた。
信裕も頭を下げた。
「分かりました。」
信成は息子を見た。
「信裕。」
「はい。」
「お前が俺に逆らったのは、初めてだな。」
「……はい。」
信成は苦笑した。
「大きくなったもんだ。」
それだけ言うと、窓の外へ目を向けた。
数日後。
イズミマチ本社、役員会議室。
取締役会が開かれた。
出席者は、
代表取締役会長・伊東信成。
代表取締役社長・伊東征広。
専務取締役・北沢弘。
常務取締役・習志野毅。
取締役開発本部長・三尾勝義。
取締役営業本部長・伊東信裕。
取締役総務部長・福井明人。
取締役執行役員・多々良重雄。
取締役相談役・伊東隆則。
そして社外取締役、会計士の松田満也。
信成が議事を始めた。
「議題は、次期代表取締役社長について。」
「征広は来年、六十歳を迎える。」
「社長を退き、会長に就任したいとの意向だ。」
「次期社長として、北沢を推薦している。」
一呼吸置く。
「私は反対だ。」
会議室が静まる。
「征広には、まだ続けてもらいたい。」
「五年でも、十年でもいい。」
「その後は信裕という選択肢もある。」
その時。
隆則が口を開いた。
「信成。」
「何ですか、相談役。」
「俺も、もう相談役を辞めるわ。」
信成が顔を上げる。
「……何で急に。」
「急やない。」
隆則は軽く笑った。
「最近、体調もあまり良くないしな。」
少し間を置く。
「肝臓や。」
信成の表情が変わった。
「相談役…。」
「まあ、今すぐどうこういう話やない。」
隆則は手を振った。
「けど、もう七十三や。」
「十分やろ。」
隆則は征広を見る。
「征広が六十で辞める言うなら、俺はええと思うぞ。」
「北沢でええ。」
征広が頭を下げる。
「ありがとうございます。」
隆則は信成を見る。
「信成。」
「そろそろ若い奴に任せたったらどうや。」
信成は答えなかった。
隆則も、それ以上は言わなかった。
しばらくして、征広が口を開く。
「私も、北沢を推薦します。」
「専務取締役として、これまで会社を支えてきた実績があります。」
「今後のイズミマチを任せるなら、北沢が最適だと考えています。」
信成は北沢を見る。
「北沢。」
「はい。」
「お前はどう思う。」
北沢は少し間を置いた。
「私は、社長のご判断を支持します。」
「自分が社長になりたいということか。」
「そういうことではありません。」
「ですが、会社のために必要だと判断されるのであれば、その責任から逃げるつもりはありません。」
信成は頷いた。
「分かった。」
「北沢は候補者だ。」
「この後の採決では、退席してくれ。」
「はい。」
北沢は立ち上がり、会議室を出た。
扉が閉まる。
信成が全員を見る。
「それでは、採決する。」
「次期代表取締役社長に、北沢弘を指名することについて。」
「賛成の方は。」
最初に手を挙げたのは、習志野だった。
「賛成です。」
三尾も続いた。
「私も賛成です。」
信裕。
「賛成します。」
福井。
「私も賛成です。」
多々良。
「賛成です。」
隆則。
「俺も賛成や。」
最後に、社外取締役の松田が口を開いた。
「会社の継続性、今後の成長性を考えれば、北沢専務が適任だと判断します。」
「賛成です。」
そして征広も手を挙げた。
「賛成です。」
全員が賛成した。
ただ一人。
信成を除いて。
信成は、上がった手を一つずつ見ていた。
習志野。
三尾。
信裕。
福井。
多々良。
隆則。
松田。
そして征広。
信成はしばらく黙っていた。
「……俺以外、全員か。」
誰も答えない。
信成の奥歯が、静かに何かを押し殺すように動いた。
信成は椅子に深く背を預けた。
そして目を閉じる。
しばらくして、目を開いた。
「……分かった。」
「北沢でいこう。」
征広が深く頭を下げる。
「ありがとうございます。」
信成は征広を見る。
「礼を言うのは、まだ早い。」
「はい。」
「本当に来年、辞めるんだな。」
「はい。」
「六十で。」
「はい。」
信成は苦笑した。
「頑固になったな、お前も。」
征広も少し笑った。
「会長に似たのかもしれません。」
「馬鹿言え。」
会議室に、わずかな笑いが起きた。
信成が言った。
「北沢を呼べ。」
扉が開く。
北沢が戻ってきた。
信成は北沢を見る。
「北沢。」
「はい。」
「決まった。」
「……はい。」
「来年から、お前が社長だ。」
北沢は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
信成は一拍置いた。
「ただし。」
北沢が顔を上げる。
「征広を超えろ。」
北沢は征広を見る。
征広は静かに微笑んでいた。
北沢は信成に向かって、深く頭を下げた。
「はい。」
その言葉を聞いて、信成も小さく頷いた。
イズミマチの次の社長が決まった。
そして。
伊東家が長く握ってきた経営のバトンが、初めて一族の外へ渡ろうとしていた。
一方。
隆則は、静かに席を立った。
七十三歳。
元会長。
その顔には、どこか肩の荷を下ろしたような表情が浮かんでいた。
信成は兄の背中を見つめた。
征広も、北沢も、そして役員たちも。
誰も何も言わなかった。
イズミマチは今、大きな転換点に立っていた。
一つの時代が終わり、
次の時代が始まろうとしていた。




