思惑
平成十七年。
春が過ぎ、初夏の気配が漂い始めていた。
イズミマチ本社。
社長室の窓から、第一工場が見える。
征広は一人、窓際に立っていた。
五十九歳。
来年、六十になる。
社長になり、七年の月日が過ぎた。
だが、征広にとって、この七年間だけが自分の仕事だったわけではない。
もっと前から始まっていた。
バブル崩壊。
受注の急減。
死に体となった会社。
専務だった征広は、そこから会社を立て直した。
減速機事業を見直し、新しい市場を探した。
海外にも目を向けた。
何度も壁にぶつかりながら、一つずつ仕事を拾っていった。
そして平成十年。
征広は社長になった。
そこから七年。
今度は、立て直した会社を軌道に乗せることが征広の仕事だった。
東証二部上場。
減速機。
ギヤシャフト。
海外市場。
新規顧客。
会社は少しずつ力を取り戻していった。
振り返れば、決して平坦な道ではなかった。
それでも――。
会社は、ここまで来た。
泉町精工はイズミマチとなり、今では「生き残ること」だけを考える会社ではない。
これから、さらに成長していく段階に入っている。
征広は、そう感じていた。
机の上には、役員人事に関する資料が置かれている。
その一枚を、征広は何度も読み返していた。
次期社長候補。
そこには、一人の名前が記されている。
――北沢弘。
征広の考えは、ほぼ固まっていた。
北沢なら、任せられる。
営業だけではない。
会社全体を見る目がある。
現場のことも知っている。
海外市場も開拓してきた。
そして何より、イズミマチがこれからどこへ向かうべきかを理解している。
征広は資料を机に置いた。
六十歳。
一つの区切りとしては、ちょうどいい。
社長を退き、会長になる。
会社から離れるわけではない。
経営の最前線から一歩下がり、次の世代へ経営を渡す。
その時期が来たのではないか。
だが。
一つ、問題がある。
現会長。
伊東信成。
征広には、信成の考えていることが分かっていた。
おそらく信成は言うだろう。
――征広、もう少しやってくれ。
あと五年。
いや、十年でもいい。
そして、その先には。
自分の長男。
伊東信裕。
信成が考えていることは、征広にも見えていた。
信裕は優秀な男だ。
それを否定するつもりはない。
だが。
会社の次期社長を決める理由が、
「会長の息子だから」
であってはいけない。
イズミマチは、もう誰か一人の会社ではない。
征広は、そう考えていた。
「……難しいな。」
小さく呟く。
そのとき。
社長室の電話が鳴った。
征広は受話器を取った。
「はい、伊東です。」
短いやり取りを終え、受話器を置く。
ふと時計を見る。
午後五時を過ぎていた。
もう一度、窓の外を見る。
第一工場。
その向こうには、歯車事業部の建物がある。
征広は少し考えた。
そして、社長室を出た。
歯車事業部。
仕事を終えた社員たちが、少しずつ帰り始めている。
その中に、一人だけまだ作業をしている男がいた。
寺田幸生。
作業服姿で、機械の周辺を片付けている。
役職はない。
平社員。
それでも、社内で寺田を軽く見る者はいなかった。
長い社歴。
現場で過ごした年月。
送迎バスの運転手だった頃から、会社の人間をずっと見てきた男だった。
征広は、そんな寺田を見つけた。
「寺田さん。」
寺田が振り返る。
「あれ、社長。」
「まだ仕事ですか?」
「ええ。ちょっと片付けとるとこです。」
「そうですか。」
征広は少し間を置いた。
「寺田さん。少し、相談してもよろしいですか?」
寺田は目を丸くした。
「俺にですか?」
「ええ。」
「……何です?」
「ここでは何ですから、少し座りませんか。」
「はい。」
二人は近くの休憩室へ移動した。
自動販売機の前。
征広が缶コーヒーを二本買った。
一本を寺田へ渡す。
「ありがとうございます。」
寺田は缶を開けた。
征広も一口飲む。
しばらく沈黙が続いた。
寺田が痺れを切らす。
「社長。」
「はい。」
「何かあったんですか?」
征広は少し笑った。
「どうしてです?」
「社長が俺に相談なんて、普通やないでしょう。」
「……そうですね。」
征広は缶を机の上に置いた。
「私は来年、六十になります。」
「はい。」
「そこで、一つ考えていることがあります。」
寺田は黙って聞いた。
「六十歳を一区切りにして、社長を退こうかと思っています。」
寺田の眉が動いた。
「えっ。」
「会長になろうかと。」
「……社長、辞めるんですか?」
「まだ正式に決めたわけではありません。」
「そうですか。」
寺田は缶コーヒーを握ったまま考えた。
「でも……社長が、そう考えとるんですか。」
「ええ。」
「疲れたんですか?」
征広が笑った。
「そう見えますか?」
「いや。」
寺田は首を振った。
「そんな顔には見えんです。」
少し間を置く。
「ただ……」
「はい。」
「会社を次の人に渡してええんか、迷っとる顔には見えます。」
征広は黙った。
その通りだった。
「……よく見ていますね。」
「長いこと会社におりますから。」
寺田は照れくさそうに笑った。
征広も笑った。
「実は、次の社長については考えています。」
「誰です?」
「北沢さんです。」
「ああ。」
寺田はすぐに頷いた。
「北沢さんですか。」
「どう思います?」
「ええんやないですか。」
あまりにも即答だった。
征広が笑う。
「早いですね。」
「いや、北沢さんならええと思いますよ。」
「そうですか。」
「北沢さんはな、営業だけやないですよ。」
征広が寺田を見る。
「海外を開拓したのも北沢さんでしょう。」
「ええ。」
「大連も、台湾も、北沢さんが先に道を作った。」
「現場のこともよう見とる。」
「ええ。」
「そういう人は、上に立っても現場を忘れんと思うんですわ。」
征広は静かに頷いた。
「……私も、そう思っています。」
寺田は缶コーヒーを一口飲んだ。
「ただ……」
「はい。」
「会長は反対するでしょうな。」
征広の表情が少し曇った。
「やはり、そう思いますか。」
「そりゃそうでしょう。」
「会長は、私にまだ続けてもらいたいでしょうから。」
「でしょうな。」
寺田はあっさり頷いた。
「あと五年、十年やってくれって言うんやないですか。」
「……おそらく。」
「その次は、信裕さんでしょう?」
征広は答えなかった。
寺田は、その沈黙だけで十分だと分かった。
「信裕さんが悪いって話やないですよ。」
「ええ。」
「優秀な人やいうのも分かっとります。」
「私もそう思っています。」
「でも。」
寺田は征広を真っ直ぐ見た。
「会社の社長を誰にするかいうんは、会長の息子やから決める話でもないでしょう。」
征広は黙っていた。
「社長が北沢さんが一番ええと思っとるんなら。」
寺田は言葉を切った。
「ちゃんと会長に話したらええんですよ。」
征広が苦笑する。
「寺田さんは簡単に言いますね。」
「いや。」
寺田も苦笑した。
「簡単やないのは分かっとりますよ。」
「だから俺に相談したんでしょう?」
征広は思わず笑った。
「……そうですね。」
寺田は缶を机に置いた。
「社長。」
「はい。」
「俺は平社員ですから、経営のことなんか分かりませんよ。」
「そんなことはありません。」
「いやいや。」
寺田は手を振った。
「俺、中卒ですからな。」
「難しいこと聞かれても、よう分からんですわ。」
征広は微笑んだ。
「でもな。」
寺田の表情が少し真剣になる。
「会社がどういう時に元気で、どういう時に苦しくなるかは、長いこと見てきました。」
征広は静かに聞いている。
「平成七年の頃。」
寺田が言った。
「会社が一番しんどかった時に、パートのおばちゃんらが辞めていったでしょう。」
「ええ。」
「あん時、俺、征広さんに言いましたよな。」
征広は頷いた。
「覚えています。」
「俺、あの時も分からんかったんですわ。」
「何が正しいんか。」
「会社を守るためには、人を減らさなあかん。」
「頭では分かっとった。」
「でも、現場で毎日顔合わせとる人が辞めていく。」
「そりゃ、悔しかったですわ。」
征広は静かに言った。
「寺田さんは、あの時、会社を責めていたわけではありませんでしたね。」
「……そうですか?」
「会社を残したかったんでしょう。」
寺田は少し黙った。
「まあ……。」
「潰れてほしいとは思っとらんかったですから。」
征広は笑った。
「私は、あの時の寺田さんの言葉を今でも覚えています。」
「何て言いました?」
「『現場が何も言わん会社は終わりです』と。」
寺田は照れくさそうに頭を掻いた。
「そんなこと言いましたかね。」
「言いましたよ。」
「忘れとりましたわ。」
征広は少し笑った。
「私は、今でもあの言葉は正しいと思っています。」
そして、征広は寺田を見つめた。
「だから、今日、寺田さんに相談したんです。」
「……俺に?」
「ええ。」
「俺、平社員ですよ。」
「知っています。」
寺田が苦笑する。
征広も笑った。
「失礼しました。」
二人は笑った。
しばらくして、征広の表情が再び真剣になる。
「私は、会社を次の世代に渡したいんです。」
「はい。」
「自分がいつまでも社長の椅子に座っていることが、会社にとって本当に良いことなのか。」
「北沢さんなら、任せられると思っています。」
寺田は頷いた。
「俺もそう思います。」
「ただ、会長さんがどう考えるか。」
征広は少し目を伏せた。
「そこだけが、難しい。」
寺田は腕を組んだ。
「会長と話すしかないでしょう。」
「そうですね。」
「社長が決めたんなら、ちゃんと話したらええですよ。」
「はい。」
「反対されたら?」
征広は少し考えた。
「それでも、私は自分の考えを伝えます。」
寺田はニヤッと笑った。
「なら、大丈夫でしょう。」
「何がです?」
「社長、昔からそういう人ですから。」
「そうですか?」
「ええ。」
「社長が専務さんだった時、俺が直談判した時も、ちゃんと話を聞いてくれました。」
征広は微笑んだ。
「懐かしいですね。」
「あの時、俺、習志野にめちゃくちゃ怒鳴りましたからな。」
征広が笑いを堪える。
「……あれは、かなり言い過ぎでしたね。」
「でしょうな。」
「俺も後で反省しましたわ。」
「でも、最後には謝りましたね。」
「そりゃ謝りますよ。」
寺田は笑った。
「そこは筋を通さんと。」
征広は頷いた。
「寺田さんらしいですね。」
寺田は少し照れたように笑った。
「まあ、俺はそんな人間ですから。」
そして缶コーヒーを飲み干した。
「社長。」
「はい。」
「北沢さんでええと思いますよ。」
「……ありがとうございます。」
「ただし。」
寺田は指を一本立てた。
「会長と喧嘩したらあかんですよ。」
征広は吹き出した。
「分かっています。」
「信成さんも、会社のこと考えて言うんでしょうから。」
「ええ。」
「なら、ちゃんと話せば分かってくれるんやないですか。」
征広はしばらく考えた。
そして静かに頷いた。
「そうですね。」
「私も、そう信じたいと思います。」
寺田が立ち上がる。
「ほんなら、俺は戻りますわ。」
「寺田さん。」
「はい。」
「今日はありがとうございました。」
寺田は少し照れた顔をした。
「いやいや。」
「俺、何もしてませんよ。」
「いいえ。」
征広は笑った。
「話を聞いてもらえただけで、随分楽になりました。」
寺田は帽子を被る。
「そうですか。」
扉へ向かいかけて、振り返る。
「社長。」
「はい。」
「会長になったって、会社にはおるんでしょう?」
「もちろんです。」
「なら、ええんやないですか。」
「社長の仕事が変わるだけでしょう。」
征広は微笑んだ。
「……そうですね。」
寺田は軽く頭を下げた。
「じゃあ、お疲れさんです。」
「寺田さんも、お疲れさまでした。」
扉が閉まる。
一人になった征広は、しばらく黙っていた。
そして机へ戻る。
目の前には、次期社長候補の名前。
――北沢弘。
征広は、その名前を見つめた。
やがて、静かにファイルを閉じる。
「……話すしかないな。」
相手は、会長・伊東信成。
自分を社長にしてくれた男でもある。
そして今もなお、自分に会社を託し続けたいと思っている男。
その思いも、征広には痛いほど分かっていた。
だが。
会社は、誰か一人のものではない。
イズミマチという会社を、次の世代へ渡す。
その時が、近づいている。
一方その頃。
会長室では、信成が一人、資料を眺めていた。
机の上には、信裕の名前が入った人事資料。
信成は、その資料を閉じる。
「……征広には、もう少しやってもらわんとな。」
静かな部屋に、信成の声だけが響いた。
まだ、誰も知らない。
同じ会社の中で。
二人の経営者が、それぞれ別の未来を思い描いていることを。
イズミマチの次の十年。
その行方を巡る思惑が、静かに動き始めていた。




