↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
101/124

思惑

平成十七年。


春が過ぎ、初夏の気配が漂い始めていた。


イズミマチ本社。


社長室の窓から、第一工場が見える。


征広は一人、窓際に立っていた。


五十九歳。


来年、六十になる。


社長になり、七年の月日が過ぎた。


だが、征広にとって、この七年間だけが自分の仕事だったわけではない。


もっと前から始まっていた。


バブル崩壊。


受注の急減。


死に体となった会社。


専務だった征広は、そこから会社を立て直した。


減速機事業を見直し、新しい市場を探した。


海外にも目を向けた。


何度も壁にぶつかりながら、一つずつ仕事を拾っていった。


そして平成十年。


征広は社長になった。


そこから七年。


今度は、立て直した会社を軌道に乗せることが征広の仕事だった。


東証二部上場。


減速機。


ギヤシャフト。


海外市場。


新規顧客。


会社は少しずつ力を取り戻していった。


振り返れば、決して平坦な道ではなかった。


それでも――。


会社は、ここまで来た。


泉町精工はイズミマチとなり、今では「生き残ること」だけを考える会社ではない。


これから、さらに成長していく段階に入っている。


征広は、そう感じていた。


机の上には、役員人事に関する資料が置かれている。


その一枚を、征広は何度も読み返していた。


次期社長候補。


そこには、一人の名前が記されている。


――北沢弘。


征広の考えは、ほぼ固まっていた。


北沢なら、任せられる。


営業だけではない。


会社全体を見る目がある。


現場のことも知っている。


海外市場も開拓してきた。


そして何より、イズミマチがこれからどこへ向かうべきかを理解している。


征広は資料を机に置いた。


六十歳。


一つの区切りとしては、ちょうどいい。


社長を退き、会長になる。


会社から離れるわけではない。


経営の最前線から一歩下がり、次の世代へ経営を渡す。


その時期が来たのではないか。


だが。


一つ、問題がある。


現会長。


伊東信成。


征広には、信成の考えていることが分かっていた。


おそらく信成は言うだろう。


――征広、もう少しやってくれ。


あと五年。


いや、十年でもいい。


そして、その先には。


自分の長男。


伊東信裕。


信成が考えていることは、征広にも見えていた。


信裕は優秀な男だ。


それを否定するつもりはない。


だが。


会社の次期社長を決める理由が、


「会長の息子だから」


であってはいけない。


イズミマチは、もう誰か一人の会社ではない。


征広は、そう考えていた。


「……難しいな。」


小さく呟く。


そのとき。


社長室の電話が鳴った。


征広は受話器を取った。


「はい、伊東です。」


短いやり取りを終え、受話器を置く。


ふと時計を見る。


午後五時を過ぎていた。


もう一度、窓の外を見る。


第一工場。


その向こうには、歯車事業部の建物がある。



征広は少し考えた。


そして、社長室を出た。


歯車事業部。


仕事を終えた社員たちが、少しずつ帰り始めている。


その中に、一人だけまだ作業をしている男がいた。


寺田幸生。


作業服姿で、機械の周辺を片付けている。


役職はない。


平社員。


それでも、社内で寺田を軽く見る者はいなかった。


長い社歴。


現場で過ごした年月。


送迎バスの運転手だった頃から、会社の人間をずっと見てきた男だった。


征広は、そんな寺田を見つけた。


「寺田さん。」


寺田が振り返る。


「あれ、社長。」


「まだ仕事ですか?」


「ええ。ちょっと片付けとるとこです。」


「そうですか。」


征広は少し間を置いた。


「寺田さん。少し、相談してもよろしいですか?」


寺田は目を丸くした。


「俺にですか?」


「ええ。」


「……何です?」


「ここでは何ですから、少し座りませんか。」


「はい。」


二人は近くの休憩室へ移動した。


自動販売機の前。


征広が缶コーヒーを二本買った。


一本を寺田へ渡す。


「ありがとうございます。」


寺田は缶を開けた。


征広も一口飲む。


しばらく沈黙が続いた。


寺田が痺れを切らす。


「社長。」


「はい。」


「何かあったんですか?」


征広は少し笑った。


「どうしてです?」


「社長が俺に相談なんて、普通やないでしょう。」


「……そうですね。」


征広は缶を机の上に置いた。


「私は来年、六十になります。」


「はい。」


「そこで、一つ考えていることがあります。」


寺田は黙って聞いた。


「六十歳を一区切りにして、社長を退こうかと思っています。」


寺田の眉が動いた。


「えっ。」


「会長になろうかと。」


「……社長、辞めるんですか?」


「まだ正式に決めたわけではありません。」


「そうですか。」


寺田は缶コーヒーを握ったまま考えた。


「でも……社長が、そう考えとるんですか。」


「ええ。」


「疲れたんですか?」


征広が笑った。


「そう見えますか?」


「いや。」


寺田は首を振った。


「そんな顔には見えんです。」


少し間を置く。


「ただ……」


「はい。」


「会社を次の人に渡してええんか、迷っとる顔には見えます。」


征広は黙った。


その通りだった。


「……よく見ていますね。」


「長いこと会社におりますから。」


寺田は照れくさそうに笑った。


征広も笑った。


「実は、次の社長については考えています。」


「誰です?」


「北沢さんです。」


「ああ。」


寺田はすぐに頷いた。


「北沢さんですか。」


「どう思います?」


「ええんやないですか。」


あまりにも即答だった。


征広が笑う。


「早いですね。」


「いや、北沢さんならええと思いますよ。」


「そうですか。」


「北沢さんはな、営業だけやないですよ。」


征広が寺田を見る。


「海外を開拓したのも北沢さんでしょう。」


「ええ。」


「大連も、台湾も、北沢さんが先に道を作った。」


「現場のこともよう見とる。」


「ええ。」


「そういう人は、上に立っても現場を忘れんと思うんですわ。」


征広は静かに頷いた。


「……私も、そう思っています。」


寺田は缶コーヒーを一口飲んだ。


「ただ……」


「はい。」


「会長は反対するでしょうな。」


征広の表情が少し曇った。


「やはり、そう思いますか。」


「そりゃそうでしょう。」


「会長は、私にまだ続けてもらいたいでしょうから。」


「でしょうな。」


寺田はあっさり頷いた。


「あと五年、十年やってくれって言うんやないですか。」


「……おそらく。」


「その次は、信裕さんでしょう?」


征広は答えなかった。


寺田は、その沈黙だけで十分だと分かった。


「信裕さんが悪いって話やないですよ。」


「ええ。」


「優秀な人やいうのも分かっとります。」


「私もそう思っています。」


「でも。」


寺田は征広を真っ直ぐ見た。


「会社の社長を誰にするかいうんは、会長の息子やから決める話でもないでしょう。」


征広は黙っていた。


「社長が北沢さんが一番ええと思っとるんなら。」


寺田は言葉を切った。


「ちゃんと会長に話したらええんですよ。」


征広が苦笑する。


「寺田さんは簡単に言いますね。」


「いや。」


寺田も苦笑した。


「簡単やないのは分かっとりますよ。」


「だから俺に相談したんでしょう?」


征広は思わず笑った。


「……そうですね。」


寺田は缶を机に置いた。


「社長。」


「はい。」


「俺は平社員ですから、経営のことなんか分かりませんよ。」


「そんなことはありません。」


「いやいや。」


寺田は手を振った。


「俺、中卒ですからな。」


「難しいこと聞かれても、よう分からんですわ。」


征広は微笑んだ。


「でもな。」


寺田の表情が少し真剣になる。


「会社がどういう時に元気で、どういう時に苦しくなるかは、長いこと見てきました。」


征広は静かに聞いている。


「平成七年の頃。」


寺田が言った。


「会社が一番しんどかった時に、パートのおばちゃんらが辞めていったでしょう。」


「ええ。」


「あん時、俺、征広さんに言いましたよな。」


征広は頷いた。


「覚えています。」


「俺、あの時も分からんかったんですわ。」


「何が正しいんか。」


「会社を守るためには、人を減らさなあかん。」


「頭では分かっとった。」


「でも、現場で毎日顔合わせとる人が辞めていく。」


「そりゃ、悔しかったですわ。」


征広は静かに言った。


「寺田さんは、あの時、会社を責めていたわけではありませんでしたね。」


「……そうですか?」


「会社を残したかったんでしょう。」


寺田は少し黙った。


「まあ……。」


「潰れてほしいとは思っとらんかったですから。」


征広は笑った。


「私は、あの時の寺田さんの言葉を今でも覚えています。」


「何て言いました?」


「『現場が何も言わん会社は終わりです』と。」


寺田は照れくさそうに頭を掻いた。


「そんなこと言いましたかね。」


「言いましたよ。」


「忘れとりましたわ。」


征広は少し笑った。


「私は、今でもあの言葉は正しいと思っています。」


そして、征広は寺田を見つめた。


「だから、今日、寺田さんに相談したんです。」


「……俺に?」


「ええ。」


「俺、平社員ですよ。」


「知っています。」


寺田が苦笑する。


征広も笑った。


「失礼しました。」


二人は笑った。


しばらくして、征広の表情が再び真剣になる。


「私は、会社を次の世代に渡したいんです。」


「はい。」


「自分がいつまでも社長の椅子に座っていることが、会社にとって本当に良いことなのか。」


「北沢さんなら、任せられると思っています。」


寺田は頷いた。


「俺もそう思います。」


「ただ、会長さんがどう考えるか。」


征広は少し目を伏せた。


「そこだけが、難しい。」


寺田は腕を組んだ。


「会長と話すしかないでしょう。」


「そうですね。」


「社長が決めたんなら、ちゃんと話したらええですよ。」


「はい。」


「反対されたら?」


征広は少し考えた。


「それでも、私は自分の考えを伝えます。」


寺田はニヤッと笑った。


「なら、大丈夫でしょう。」


「何がです?」


「社長、昔からそういう人ですから。」


「そうですか?」


「ええ。」


「社長が専務さんだった時、俺が直談判した時も、ちゃんと話を聞いてくれました。」


征広は微笑んだ。


「懐かしいですね。」


「あの時、俺、習志野にめちゃくちゃ怒鳴りましたからな。」


征広が笑いを堪える。


「……あれは、かなり言い過ぎでしたね。」


「でしょうな。」


「俺も後で反省しましたわ。」


「でも、最後には謝りましたね。」


「そりゃ謝りますよ。」


寺田は笑った。


「そこは筋を通さんと。」


征広は頷いた。


「寺田さんらしいですね。」


寺田は少し照れたように笑った。


「まあ、俺はそんな人間ですから。」


そして缶コーヒーを飲み干した。


「社長。」


「はい。」


「北沢さんでええと思いますよ。」


「……ありがとうございます。」


「ただし。」


寺田は指を一本立てた。


「会長と喧嘩したらあかんですよ。」


征広は吹き出した。


「分かっています。」


「信成さんも、会社のこと考えて言うんでしょうから。」


「ええ。」


「なら、ちゃんと話せば分かってくれるんやないですか。」


征広はしばらく考えた。


そして静かに頷いた。


「そうですね。」


「私も、そう信じたいと思います。」


寺田が立ち上がる。


「ほんなら、俺は戻りますわ。」


「寺田さん。」


「はい。」


「今日はありがとうございました。」


寺田は少し照れた顔をした。


「いやいや。」


「俺、何もしてませんよ。」


「いいえ。」


征広は笑った。


「話を聞いてもらえただけで、随分楽になりました。」


寺田は帽子を被る。


「そうですか。」


扉へ向かいかけて、振り返る。


「社長。」


「はい。」


「会長になったって、会社にはおるんでしょう?」


「もちろんです。」


「なら、ええんやないですか。」


「社長の仕事が変わるだけでしょう。」


征広は微笑んだ。


「……そうですね。」


寺田は軽く頭を下げた。


「じゃあ、お疲れさんです。」


「寺田さんも、お疲れさまでした。」


扉が閉まる。


一人になった征広は、しばらく黙っていた。


そして机へ戻る。


目の前には、次期社長候補の名前。


――北沢弘。


征広は、その名前を見つめた。


やがて、静かにファイルを閉じる。


「……話すしかないな。」


相手は、会長・伊東信成。


自分を社長にしてくれた男でもある。


そして今もなお、自分に会社を託し続けたいと思っている男。


その思いも、征広には痛いほど分かっていた。


だが。


会社は、誰か一人のものではない。


イズミマチという会社を、次の世代へ渡す。


その時が、近づいている。


一方その頃。


会長室では、信成が一人、資料を眺めていた。


机の上には、信裕の名前が入った人事資料。


信成は、その資料を閉じる。


「……征広には、もう少しやってもらわんとな。」


静かな部屋に、信成の声だけが響いた。


まだ、誰も知らない。


同じ会社の中で。


二人の経営者が、それぞれ別の未来を思い描いていることを。


イズミマチの次の十年。


その行方を巡る思惑が、静かに動き始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「三代目が潰す」なんて言葉もあります。 上場企業で社長を「親から子に、子から孫に」というは感情としては理解できますけど、経営としてはやってはならないと思います。もちろん「経営者としても、人格も優れてい…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。