12:00 第二章 【母】前編
9:00
通り魔は死んだ。
男の身体は奥の部屋に移動した。
できるだけ見たくない。
目の届かない範囲に動かして
目を背けたかった。
血の匂いだけが部屋に広がる。
勇気は包丁を洗面台で洗っていた。
何度洗っても。
血の感触だけが手に残っている。
美咲は男の亡骸を見つめていた。
さっきまで生きていた人間。
誰かの息子だったかもしれない。
誰かの父親だったかもしれない。
そう思うと吐き気がした。
「大丈夫か」
勇気が声をかける。
美咲は小さく頷いた。
大丈夫じゃなかった。
でも言わなかった。
今は二人とも壊れそうだったから。
時計を見る。
九時三十分。
まだ三時間ある。
前回は警察。
今回は通報しない。
何が来るのか分からない。
二人は部屋で待った。
テレビもつけない。
会話もない。
ただ時計の音だけが響く。
カチ。
カチ。
カチ。
その音だけが異常に大きく聞こえた。
⸻
11:58
インターホンが鳴った。
ピンポーン。
二人は同時に顔を上げた。
来た。
死だ。
今度は何だ。
勇気は息を殺しながら玄関へ近づいた。
ドアスコープを覗く。
そして固まった。
「どうしたの?」
美咲が聞く。
勇気は答えない。
顔から血の気が引いている。
「勇気?」
「かあちゃんだ」
その一言で。
美咲も凍りついた。
⸻
玄関の向こう。
スーパーの袋を提げた女性が立っていた。
勇気の母だった。
「勇気ー?」
呑気な声。
「また大学サボってんの?」
ドアを叩く。
コンコン。
「開けなさいよ」
二人は顔を見合わせた。
何も言えない。
頭が真っ白だった。
通り魔なら殺せる。
刑事ならまだ悩める。
でも母親は違う。
勇気を二十年以上育てた人間だ。
「無理だ」
勇気が呟いた。
「無理だよ」
その声は震えていた。
「かあちゃんは無理だ」
美咲も何も言えない。
言葉が見つからない。
その時。
鼻を刺す臭いがした。
ガスだ。
勇気は顔を上げる。
台所。
さっき通り魔を押さえ込んだ時。
ガスコンロに身体がぶつかっていた。
ガスホースが外れている。
部屋には少しずつガスが充満していた。
玄関の外では母が言う。
「もう開けるわよー」
鍵が回る。
カチャ。
勇気は動けなかった。
何をすればいいのか分からない。
母を入れる?
追い返す?
逃げる?
どれも正解に思えない。
その時。
美咲が言った。
「お湯沸かそうか」
「え?」
「私、ちょっと落ち着きたい」
勇気は混乱していた。
意味が分からなかった。
でも次の瞬間。
美咲はコンロのスイッチを回した。
勇気は声を絞りだし
『やめ・・・』
カチッ。
火花。
そして。
世界が白くなった。
爆発。
轟音。
衝撃。
窓ガラスが吹き飛ぶ。
壁が砕ける。
熱風が身体を焼く。
勇気は母の悲鳴を聞いた気がした。
「勇気!!」
その声だけが耳に残る。
世界が炎に包まれる。
勇気は最後に思った。
ごめん。
かあちゃん。
ごめん。
⸻
8:00
勇気は叫びながら起きた。
「かあちゃん!!」
部屋の中に声が響く。
静寂。
朝の光。
時計。
8:00。
現実が戻ってくる。
いや。
現実ではない。
地獄だった。
勇気はその場で吐いた。
何も出ない。
胃液だけが床に落ちる。
「勇気」
美咲が近寄る。
勇気は首を振る。
「近寄るな」
声が震えていた。
「俺」
涙が落ちる。
「俺、かあちゃん殺した」
「違う」
「違わねぇよ!」
勇気は叫んだ。
「助けられた!」
拳を床に叩きつける。
「助けられたんだよ!」
血が滲む。
「俺が動かなかったからだ!」
美咲は何も言えなかった。
正論がない。
慰めもない。
母は死んだ。
それだけは事実だった。
しばらくして。
勇気はぽつりと呟く。
「もう嫌だ」
その声は小さかった。
「もう嫌だ」
何度も繰り返す。
「こんなの」
「生きるためじゃねぇよ」
「地獄じゃねぇか」
美咲は勇気の隣に座った。
そして言った。
「でも」
勇気は顔を上げる。
「もしここで諦めたら」
「お母さん何回死ぬと思う?」
勇気の表情が固まる。
「失敗するたびに」
「また通り魔が来る」
「また爆発する」
「またお母さん死ぬ」
静かな声だった。
でも残酷だった。
「だから」
美咲は涙を流しながら言う。
「私たち、進まなきゃいけない」
勇気は目を閉じた。
拳を握る。
爪が掌に食い込む。
血が出る。
痛い。
でも。
母が死ぬ痛みに比べたら。
何でもなかった。
時計を見る。
8:32
次の周回が始まる。
勇気は立ち上がった。
顔はぐしゃぐしゃだった。
「もう一回だけ考える」
「かあちゃんを助ける方法」
その言葉に。
美咲は小さく頷いた。
二人はまだ知らない。
この試練が。
もっと残酷な形で終わることを。




