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リセ:ット  作者: 矢部夏 泡太


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2/12

9:00 第一章【通り魔】

美咲は目を開けた。


天井が見えた。


見慣れた天井だった。


古い蛍光灯。


小さな染み。


カーテンの隙間から差し込む朝の光。


隣で勇気が身体を起こしていた。


二人はしばらく、何も言えなかった。


勇気の顔は真っ青だった。


「……俺ら」


彼の声は掠れていた。


「轢かれたよな?」


美咲は喉を鳴らした。


「うん」


手が震えている。


「轢かれた。大学行く途中で」


勇気は部屋を見回した。


机。


ベッド。


脱ぎっぱなしのパーカー。


さっきまで見ていたスマートフォン。


何もかもが、朝のままだった。


「で、今のこれは何?」


「分かんない」


美咲は自分の腕を掴んだ。


痛みはない。


血も出ていない。


さっきまで身体を潰していた痛みは、跡形もなく消えていた。


「夢、かな」


「走馬灯ってやつか?」


勇気は無理に笑おうとした。


けれど、その笑いはすぐに消えた。


沈黙が落ちる。


壁の時計を見る。


針は、八時を指していた。


「……とりあえず、学校行くか」


勇気が言った。


「うん」


美咲も頷いた。


そうするしかなかった。


二人はまた、大学へ行く準備をした。


歯を磨き、顔を洗い、鞄を持つ。


何もかも、さっきと同じだった。


同じすぎて、気持ちが悪かった。


9:00


また、あの道だった。


美咲の手はハンドルを強く握っていた。


勇気も隣で黙っている。


「ねぇ」


美咲が声をかけようとした、その時だった。


右側からクラクション。


白い大型トラック。


同じ車体。


同じ速度。


同じ角度。


「避けろ!」


勇気が叫んだ。


けれど、身体は動かなかった。


恐怖で固まったのではない。


まるで、最初からそうなると決まっていたかのように。


トラックが二人を飲み込んだ。


世界が砕けた。


そしてまた、暗くなった。


8:00


目を開ける。


天井。


蛍光灯。


カーテンの隙間の朝日。


八時。


勇気がベッドから転がり落ちるように起き上がった。


「なんだよ、これ」


声が震えていた。


「なんなんだよ、これ!」


美咲は何も答えられなかった。


身体は無傷だった。


けれど、痛みだけは覚えている。


肉が裂ける感覚。


肺が潰れる苦しさ。


骨が折れる音。


死ぬということは、こんなにも痛いのか。


こんなにも怖いのか。


美咲は震える手で自分の胸を押さえた。


心臓が激しく鳴っている。


生きている。


そのことに、安心している自分がいた。


「もう……」


美咲の口から、かすれた声が漏れた。


「もう、こんな目に遭うなら、自殺なんて考えなきゃよかった」


言ったあと、自分で驚いた。


死にたかったはずなのに。


いつか消えてしまいたいと、ずっと思っていたはずなのに。


今はただ、生きていることにしがみついていた。


勇気は両手で顔を覆った。


「そうだよな」


彼の声も震えていた。


「死にたくねぇよ。今が死んでるのかも分かんねぇけど……確実に、死んだらこの部屋の八時に戻ってきてる」


「変だよ」


「変すぎる」


勇気は黙り込んだ。


しばらくして、思いついたように顔を上げる。


「これってさ、タイムリープってやつ?」


「は?」


「漫画とか映画であるだろ。何かトリガーがあって、同じ時間に戻るやつ」


「映画の見すぎじゃない?」


美咲は首を振った。


「夢だよ。こんなの、夢に決まってる」


そう言いながら、自分でも信じていなかった。


勇気もそれ以上は言わなかった。


けれど、二人はまた準備を始めた。


三度目の朝。


三度目の大学。


三度目の道。


9:00


大型トラックが見えた。


同じナンバー。


同じ白い車体。


同じクラクション。


美咲はまた、いつものように進んでいた。


「待って!」


勇気が叫んだ。


「美咲!」


手を伸ばす。


けれど、遅かった。


美咲の身体が跳ねた。


自転車が宙を舞う。


彼女の身体は道路に叩きつけられ、動かなくなった。


「美咲!」


勇気は自転車を投げ捨て、彼女に駆け寄った。


頭の中が真っ白だった。


助けられなかった。


死ぬと分かっていたのに。


分かっていたはずなのに。


「美咲、起きろよ」


返事はなかった。


トラックは横転していた。


車体の下からガソリンが流れ出している。


焦げた匂いがした。


遠くで誰かが叫んでいる。


勇気は美咲の手を握ったまま動けなかった。


次の瞬間、爆発音が世界を裂いた。


炎が視界を覆う。


熱。


光。


衝撃。


そして、暗闇。


8:00


勇気は息を吸い込むように目を覚ました。


喉は焼けるように熱かった。


隣には美咲がいた。


生きている。


「美咲!」


勇気は彼女の肩を掴んだ。


「生きてる? 大丈夫か?」


美咲はぼんやりと彼を見つめた。


「勇気……私、また死んだのね」


「うん。またトラックで」


勇気は唇を噛んだ。


「でも今回は、俺たち違うタイミングで死んだ。美咲は轢かれて、俺はそのあと爆発で死んだ」


美咲はゆっくり瞬きをした。


「じゃあ、私が死んでから勇気が戻ってくるまで、私はどうしてたの?」


「それを聞きたいのは俺の方だよ」


「分からない」


美咲は首を横に振った。


「意識が戻ったのは今。勇気と同じタイミングだと思う」


勇気は考え込んだ。


「ってことは、どっちかが死んで、どっちかが生きてたら……死んだ側は戻らないってことか」


「死んだままってこと?」


「たぶん」


その言葉は、部屋の中に重く落ちた。


「俺があのあとすぐ死んだから戻ってこられた。でも、あのまま俺が生き続けてたら、美咲は……」


「やめて」


美咲は耳を塞いだ。


「映画じゃないんだし」


「でも、もうここまで来たら信じるしかないだろ」


勇気は美咲を見た。


「二人で生き残るには、一緒に生き続けるか、一緒に死ぬしかない」


「一緒に死ぬって」


「違う。死なないんだよ」


勇気は言った。


「死なない。これしかない」


美咲は小さく呟いた。


「もう死にたくない」


その言葉に、勇気は息を止めた。


あれだけ死にたいと言っていた美咲が。


消えたいと、終わらせたいと、何度も言っていた美咲が。


今、はっきりと死にたくないと言った。


勇気は頷いた。


「じゃあ、今日は大学に行かない」


「え?」


「あの道に行くから死ぬんだ。家にいれば事故は避けられる」


「そう、だね」


二人は部屋に留まった。


時計の針が進む。


八時五十分。


八時五十五分。


九時。


何も起こらなかった。


勇気は大きく息を吐いた。


「回避した」


美咲も胸を撫で下ろした。


「よかった」


その瞬間だった。


玄関の鍵が、外側から乱暴に回された。


二人は同時に振り向いた。


ドアが開く。


知らない男が立っていた。


手には包丁。


目が合った。


男は笑っていなかった。


怒ってもいなかった。


ただ、二人を殺すためだけにそこにいるような顔だった。


「逃げ――」


勇気が叫ぶより早く、男は部屋に踏み込んできた。


包丁が美咲の腹に沈む。


美咲の口から、声にならない息が漏れた。


勇気が男に飛びかかる。


刃が肩に刺さる。


胸に刺さる。


首に刺さる。


床に血が広がっていく。


美咲の手が、勇気の手を探す。


勇気はその手を掴んだ。


二人は血の海の中で、互いの指を握った。


そしてまた、世界が暗くなった。



8:00


美咲は声にならない悲鳴をあげて目を覚ました。


肺に空気が流れ込む。


首に手を当てる。胸に手を当てる。腹に手を当てる。


穴は開いていない。


血も出ていない。


けれど、包丁が身体の中に入ってきた感触だけは、はっきり残っていた。


「また……」


勇気がベッドの端で俯いていた。


「また死んだ」


部屋は静かだった。


朝の光。


壁の時計。


八時。


何度見ても同じ時間だった。


美咲は震える膝を抱えた。


「どういうこと?」


声が小さく揺れる。


「事故は避けたよね。家にいたよね。なのに、なんで」


「分かんねぇよ」


勇気は髪を乱暴に掻き上げた。


「トラックを避けても爆発。家にいても通り魔。なんなんだよ、これ」


「私たち、絶対に死ぬじゃん」


その言葉を口にした瞬間、部屋の温度が一段下がったように感じた。


絶対に死ぬ。


当たり前のことだった。


人はいつか死ぬ。


けれど、今の二人にとってそれは、いつかではなかった。


九時。


あと一時間。


その時、美咲はふと思い出した。


「動画」


「え?」


「あの、朝見てたダークサイトの動画」


勇気が顔を上げる。


「首吊りのおっさんの?」


「うん。途中で見るのやめたけど……まだ続きがあった」


勇気はすぐにスマートフォンを掴んだ。


指先が震えている。


履歴を開く。


暗いサイト。


不気味なサムネイル。


『死からの逃れ方』


二人は画面を見つめた。


再生ボタンを押す。


また、あの部屋が映る。


古い畳。


汚れた壁。


天井から垂れたロープ。


中年の男が、椅子の上に立っている。


勇気は唾を飲み込んだ。


「こいつ……」


男は何も言わない。


ただ、ゆっくりとロープに首を通す。


椅子が倒れる。


身体が落ちる。


ロープが軋む。


男の足が空中で小さく跳ねた。


美咲は画面から目を逸らせなかった。


やがて、男の身体は動かなくなった。


ただの自殺動画。


そう思った瞬間だった。


画面の端に、人影が映った。


一人ではない。


二人。


美咲の息が止まる。


「……え?」


画面の中にいたのは、自分たちだった。


勇気と美咲。


けれど、今の二人とは違っていた。


服は汚れ、顔には血がこびりつき、目だけが異様にぎらついている。


画面の中の勇気が、カメラに顔を近づけた。


『これ見てるでしょ?』


美咲の声が続く。


『私』


勇気が叫ぶ。


『俺! 見てんだろ!? 今ビビってんだろ!? 死に続けて!』


部屋の空気が止まった。


勇気はスマートフォンを落としそうになった。


「……俺らだ」


画面の中の勇気は、息を切らしながら続ける。


『まず、今のお前らは何をしていいのか分かってない。なんで死んだら戻ってくるのかも分かってない。俺たちも全部は分かってない』


画面の中の美咲は、泣き腫らしたような目をしていた。


『でも、ひとつだけ分かった。正しいルートで生きていかないと、死からは逃れられない』


『俺らは今、十八時だ』


勇気は画面を食い入るように見つめた。


『この死んだおっさんが言ってた。十二時間、死から逃れろって』


『今言える情報は、三時間に一回のペースで死が来るってこと』


美咲の喉が鳴った。


三時間。


九時。


十二時。


十五時。


十八時。


そして――。


画面の中の勇気が、低い声で言った。


『死を回避する方法は、誰かを殺すことだ』


美咲は思わず首を振った。


「嫌……」


しかし動画は続く。


『九時になったら家に通り魔が来る。そいつを殺せ。そしたら一個目の死は回避できる』


『その要領で、人を殺め続けるんだ』


画面の中の美咲が、唇を震わせながら言う。


『いい? 絶対に諦めないで』


『俺たちはあと一つの死を乗り越えたら、おそらく解放される』


『ここで動画を撮れてるってことは、君たちも必ずここまで来れる』


『正直、かなり辛いけど』


勇気は画面の中の自分の目を見ていた。


その目は、今の自分よりずっと疲れていた。


何人もの死を見てきた目だった。


『諦めんなよ』


動画の中の勇気が言う。


『健闘を祈る』


プツン。


動画は切れた。


スマートフォンの画面に、二人の青ざめた顔が反射していた。


沈黙。


時計の針の音だけが聞こえる。


八時三十七分。


「……マジかよ」


勇気が呟いた。


「これ、マジなんだ」


美咲はゆっくり首を横に振った。


「無理だよ」


「やるしかない」


「人を殺すなんて」


「殺さなきゃ、俺たちが死ぬ」


勇気の声は乾いていた。


自分に言い聞かせているようでもあった。


彼は台所へ向かい、包丁立てから一本の包丁を抜いた。


刃が朝の光を反射する。


美咲はその光を見て、胸の奥が冷たくなった。


「勇気」


「大丈夫」


勇気は包丁を握り直した。


「俺がやる」


「大丈夫じゃないよ」


「じゃあどうすんだよ」


勇気が振り向いた。


目が赤い。


「また刺されるのを待つのか? また腹裂かれて、血吐いて死ぬのか?」


美咲は何も言えなかった。


勇気は玄関の方を見た。


「九時に来るんだろ」


時計の針は、八時五十八分を指していた。


二人は玄関の前で待った。


一分が長かった。


美咲は何度も呼吸を整えようとした。


けれど肺がうまく膨らまない。


勇気は包丁を握ったまま、ドアを見つめていた。


八時五十九分。


鍵穴が、かすかに鳴った。


カチャ。


勇気の肩が跳ねる。


カチャ、カチャ。


外側から、誰かが鍵を回している。


なぜ鍵を持っているのか。


そんな疑問は、恐怖に押し潰された。


九時。


ドアが開いた。


男が立っていた。


前回と同じ顔。


前回と同じ包丁。


男は二人を見るなり、ゆっくり口角を上げた。


「おはよう」


その声に、美咲の身体が凍った。


次の瞬間、勇気が前へ出た。


「うあああああっ!」


叫びながら、包丁を突き出す。


刃は男の胸に深く入った。


肉を破る感触。


骨に当たる鈍い抵抗。


勇気の腕に、そのすべてが伝わった。


男の目が大きく見開かれる。


包丁を持っていた手が力を失い、床に落ちた。


カラン。


乾いた音が部屋に響く。


勇気は包丁を抜けなかった。


男の身体が勇気にもたれかかる。


血が溢れた。


熱い。


手が濡れる。


生臭く、ドロっとした感触。


赤を通り越して、赤黒い血。


男は何かを言おうと口を動かした。


けれど声は出なかった。


そのまま膝から崩れ落ちる。


勇気は包丁から手を離し、後ずさった。


「……死んだ」


床に広がる赤。


その中心で動かない男。


さっきまで生きてたのが嘘のようだ。


美咲は口元を押さえた。


吐き気が込み上げてくる。


勇気は自分の手を見ていた。


血に濡れた手。


「殺すって」


声が震える。


「こんな感触なのか」


死に興味があった。


画面越しに死を見て、退屈だと笑っていた。


ただのおっさんの首吊りかよ、と吐き捨てた。


その自分の手が、今、人を殺した。


勇気の中で、何かが音を立てて壊れた。


同時に、初めて死に対して嫌悪が湧いた。


「警察」


美咲が言った。


「警察に電話しなきゃ」


勇気は反応しなかった。


「勇気!」


美咲はスマートフォンを掴み、震える指で一一〇を押した。


リセットのことなど言えるはずがなかった。


通り魔が入ってきた。


襲われそうになった。


防衛のために刺した。


そう言うしかなかった。


12:00


取調室は、思っていたより狭かった。


灰色の壁。


古い机。


蛍光灯の白い光。


刑事ドラマでよく見る光景そのままだ。


勇気は椅子に座らされ、何度も同じ説明を繰り返していた。


「だから、知らない男が部屋に入ってきて……」


向かいに座る刑事は、四十代くらいの男だった。


鋭い目つきをしているが、口調は乱暴ではなかった。


「鍵は?」


「分かりません」


「本当に知らない男か?」


「知らないです」


刑事はノートに何かを書き込む。


部屋の隅には、若い刑事が一人、記録係として座っていた。


時計を見る。


十一時五十七分。


勇気の心臓が跳ねた。


次は十二時。


何かが来る。


何が来る。


誰が死ぬ。


ドアが開いた。


年配の警察官が、盆を持って入ってくる。


「飯、置いときますね」


盆の上には、カツ丼があった。


湯気が立っている。


甘辛い出汁の匂いが、狭い部屋に広がった。


刑事が少しだけ表情を緩める。


「まあ、食え。朝から何も食ってないんだろ」


勇気はカツ丼を見つめた。


嫌な予感がした。


けれど、空腹もあった。


何より、これが死だとは思わなかった。


まさか。


そんな都合よく。


十二時。


時計の針が重なる。


勇気は箸を取った。


一口。


衣に染み込んだ出汁。


米の熱。


次の瞬間、喉が焼けるように熱くなった。


「がっ」


箸が床に落ちた。


胃の奥から何かが逆流する。


血だった。


口から赤い液体が溢れる。


刑事が立ち上がる。


「おい、どうした!」


勇気は机に爪を立てた。


息ができない。


視界が滲む。


ドアの向こう、別室にいるはずの美咲の悲鳴が聞こえた気がした。


ああ。


美咲も食べたのか。


勇気は倒れながら、最後に時計を見た。


十二時。


世界が暗くなった。


8:00


目を覚ました瞬間、勇気は吐いた。


胃の中には何もない。


それでも喉の奥に、血の味が残っている気がした。


美咲も隣で震えていた。


「カツ丼……」


彼女が呟く。


「私も食べた」


勇気は口元を拭った。


「ダメだったな」


二人はしばらく黙っていた。


もう、ただ怖がっているだけでは進めない。


何を間違えたのか。


どうすれば次に進めるのか。



考えなければ、また同じ場所で死ぬ。


「十二時に死が来る」


勇気は言った。


「取調室にいたのは、俺と刑事と、記録係の刑事だけ」


「私の部屋も似たような感じだった」


美咲が言う。


「女の刑事さんと、もう一人いた」


「方法は二つ」


勇気は自分の声が冷たくなっていくのを感じた。


「刑事にカツ丼を食わせる。もしくは、通り魔を殺しても警察に通報しない」


美咲は顔を歪めた。


「そんな罪のない人を殺せないよ」


「じゃあ逃げるか?」


「……」


「通り魔を殺して逃げるってことは、俺たちは殺人犯になるんだよ。仮に十二時を越えても、普通の生活には戻れない」


美咲は唇を噛んだ。


「でも、刑事さんは殺せない」


勇気は目を閉じた。


誰かを殺すことに、正解なんてない。


それでも選ばなければ、時間は進まない。


「じゃあ、通報しない」


勇気は言った。


「逃げよう」


その選択が正しいのかは分からなかった。


けれど、少なくとも罪のない刑事に毒を食わせるよりは、ましだと思いたかった。


8:00


通り魔を殺した。


警察には通報しない。


それが二人の選んだ答えだった。


九時。


男が部屋へ入ってくる。


勇気は迷わなかった。


包丁を握り、男の胸を刺した。


男は崩れ落ちる。


もう慣れたわけではない。


ただ、躊躇している時間がなかった。


「行こう」


勇気が言った。


美咲は頷く。


二人は財布だけを持って部屋を飛び出した。


階段を駆け下りる。


息が切れる。


心臓が痛いほど鳴っている。


それでも止まれない。


警察が来る前に。


十二時になる前に。


この場所から離れなければ。


マンションを出た。


太陽が眩しい。


久しぶりに見る外の景色だった。


二人は顔を見合わせる。


少しだけ希望が見えた。


通報しなければ、取調室へ行かない。


取調室へ行かなければ、毒入りのカツ丼は出ない。


助かった。


そう思った。


その瞬間だった。


クラクション。


振り向く。


トラック。


白い大型トラック。


最初の日と同じ。


運転手の顔さえ見えなかった。


衝撃。


世界が横に流れる。


空が見える。


アスファルトが見える。


美咲の身体が飛んでいく。


勇気は地面に叩きつけられた。


身体の感覚が消える。


口から血が溢れる。


「なんで」


声にならなかった。


視界の端で、美咲が動かなくなる。


勇気は手を伸ばした。


届かない。


世界が暗くなった。



8:00


目を覚ました瞬間、勇気は壁を殴った。


ドンッ。


石膏が砕ける。


「なんなんだよ!!」


拳から血が流れる。


「なんなんだよ、この世界は!!」


美咲はベッドの上で震えていた。


涙が止まらない。


「違ったね」


「違ったじゃねぇよ」


勇気は叫んだ。


「全部違うんだよ!」


机を蹴る。


椅子が倒れる。


「逃げても死ぬ!」


「警察行っても死ぬ!」


「家にいても死ぬ!」


「じゃあどうすりゃいいんだよ!!」


美咲は俯いた。


答えはない。


誰も教えてくれない。


その沈黙が余計に勇気を苛立たせた。


「刑事を殺すしかねぇだろ」


勇気が言う。


「結局そういうことなんだよ」


「でも」


「でもじゃねぇ!」


勇気は美咲を睨んだ。


「生きるためだろ!?」


「刑事一人死ねば俺たちは生きられるんだ!」


美咲は顔を上げた。


目に涙が溜まっている。


「そんなの間違ってるよ」


「何が間違ってるんだよ!」


「だってその人何もしてないじゃん!」


「じゃあ俺たちが死ねってのか!?」


勇気の声は震えていた。


怒っているわけじゃない。


怖いのだ。


死ぬのが。


もう一度あの苦しみを味わうのが。


「お前さ」


勇気は吐き捨てるように言った。


「自殺願望あるんだろ?」


美咲の肩が揺れる。


「今さら善人ぶってんじゃねぇよ」


言った瞬間だった。


勇気自身も、自分が何を言ったのか分かった。


けれど止まらなかった。


「通り魔だって俺が殺した」


「全部俺だ」


「お前は何もしてねぇじゃん」


美咲は俯いた。


長い沈黙。


そして。


ぽつりと呟いた。


「そう思ってたんだ」


勇気は目を逸らした。


言い過ぎた。


分かっていた。


でも謝れなかった。



9:00


通り魔が来る。


勇気が殺す。


男は床に倒れる。


血が広がる。


勇気は息を切らしていた。


そして背中を向けた瞬間。


冷たい感触。


首筋。


何かが入ってくる。


熱い。


いや、冷たい。


勇気はゆっくり振り返った。


そこにいたのは美咲だった。


包丁を握っている。


両手が震えている。


「美咲」


声が出ない。


喉から血が溢れる。


「ごめん」


美咲が泣いていた。


「ごめん」


勇気は倒れた。


視界が赤く染まる。


なんで。


なんで。


頭の中で繰り返す。


目の前が暗くなる。


最後に見えたのは。


泣きながら包丁を握る美咲の顔だった。



8:00


勇気は飛び起きた。


息が荒い。


首に手を当てる。


傷はない。


けれど感触は残っている。


刃が入る感触。


血が流れる感触。


死ぬ感触。


そして。


美咲への恐怖。


隣を見る。


美咲がいる。


勇気は思わず身体を引いた。


美咲はそれを見て目を伏せた。


「ごめん」


小さな声。


「やりすぎた」


勇気は何も言わない。


言葉が出てこなかった。


自分を殺した人間が目の前にいる。


それが恋人だった。


理解が追いつかない。


「本当に」


美咲が言う。


「ごめん」


「なんでだよ」


勇気の声は掠れていた。


「なんで俺を殺した」


美咲は勇気を見た。


真っ直ぐ。


逃げずに。


「分かってほしかったから」


「は?」


「殺されるのって嫌でしょ?」


勇気は答えられない。


「通り魔も」


「刑事も」


「どんどん命が軽くなってた」


美咲は涙を流した。


「だから」


「自分が殺されたら分かるかなって」


部屋が静かになる。


「私もそのあと飛び降りた」


美咲は言った。


「飛び降りた時に思ったの」


窓の外を見る。


「死ぬのって簡単なんだなって」


勇気は黙って聞いていた。


「でもね」


美咲は笑った。


悲しそうに。


「本当に死ぬ瞬間、怖かった」


「死にたいって思ってたのに」


「死にたくなかった」


勇気の目が揺れる。


「何回も死んで」


「やっと分かった」


「私、本当は死にたくなかったんだ」


勇気は顔を覆った。


涙が溢れる。


「俺もだよ」


小さな声。


「俺も死にたくねぇ」


それが初めてだった。


勇気が素直にそう言ったのは。


「ごめん」


勇気は呟く。


「俺、おかしくなってた」


「生きるためなら何してもいいって」


「思い始めてた」


美咲は頷いた。


「うん」


勇気は深く息を吐いた。


「二人で生きよう」


今度は。


本当に。


その言葉を口にした。


そして二人は知らない。


次の試練が。


母であることを。


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