9:00 第一章【通り魔】
美咲は目を開けた。
天井が見えた。
見慣れた天井だった。
古い蛍光灯。
小さな染み。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
隣で勇気が身体を起こしていた。
二人はしばらく、何も言えなかった。
勇気の顔は真っ青だった。
「……俺ら」
彼の声は掠れていた。
「轢かれたよな?」
美咲は喉を鳴らした。
「うん」
手が震えている。
「轢かれた。大学行く途中で」
勇気は部屋を見回した。
机。
ベッド。
脱ぎっぱなしのパーカー。
さっきまで見ていたスマートフォン。
何もかもが、朝のままだった。
「で、今のこれは何?」
「分かんない」
美咲は自分の腕を掴んだ。
痛みはない。
血も出ていない。
さっきまで身体を潰していた痛みは、跡形もなく消えていた。
「夢、かな」
「走馬灯ってやつか?」
勇気は無理に笑おうとした。
けれど、その笑いはすぐに消えた。
沈黙が落ちる。
壁の時計を見る。
針は、八時を指していた。
「……とりあえず、学校行くか」
勇気が言った。
「うん」
美咲も頷いた。
そうするしかなかった。
二人はまた、大学へ行く準備をした。
歯を磨き、顔を洗い、鞄を持つ。
何もかも、さっきと同じだった。
同じすぎて、気持ちが悪かった。
9:00
また、あの道だった。
美咲の手はハンドルを強く握っていた。
勇気も隣で黙っている。
「ねぇ」
美咲が声をかけようとした、その時だった。
右側からクラクション。
白い大型トラック。
同じ車体。
同じ速度。
同じ角度。
「避けろ!」
勇気が叫んだ。
けれど、身体は動かなかった。
恐怖で固まったのではない。
まるで、最初からそうなると決まっていたかのように。
トラックが二人を飲み込んだ。
世界が砕けた。
そしてまた、暗くなった。
8:00
目を開ける。
天井。
蛍光灯。
カーテンの隙間の朝日。
八時。
勇気がベッドから転がり落ちるように起き上がった。
「なんだよ、これ」
声が震えていた。
「なんなんだよ、これ!」
美咲は何も答えられなかった。
身体は無傷だった。
けれど、痛みだけは覚えている。
肉が裂ける感覚。
肺が潰れる苦しさ。
骨が折れる音。
死ぬということは、こんなにも痛いのか。
こんなにも怖いのか。
美咲は震える手で自分の胸を押さえた。
心臓が激しく鳴っている。
生きている。
そのことに、安心している自分がいた。
「もう……」
美咲の口から、かすれた声が漏れた。
「もう、こんな目に遭うなら、自殺なんて考えなきゃよかった」
言ったあと、自分で驚いた。
死にたかったはずなのに。
いつか消えてしまいたいと、ずっと思っていたはずなのに。
今はただ、生きていることにしがみついていた。
勇気は両手で顔を覆った。
「そうだよな」
彼の声も震えていた。
「死にたくねぇよ。今が死んでるのかも分かんねぇけど……確実に、死んだらこの部屋の八時に戻ってきてる」
「変だよ」
「変すぎる」
勇気は黙り込んだ。
しばらくして、思いついたように顔を上げる。
「これってさ、タイムリープってやつ?」
「は?」
「漫画とか映画であるだろ。何かトリガーがあって、同じ時間に戻るやつ」
「映画の見すぎじゃない?」
美咲は首を振った。
「夢だよ。こんなの、夢に決まってる」
そう言いながら、自分でも信じていなかった。
勇気もそれ以上は言わなかった。
けれど、二人はまた準備を始めた。
三度目の朝。
三度目の大学。
三度目の道。
9:00
大型トラックが見えた。
同じナンバー。
同じ白い車体。
同じクラクション。
美咲はまた、いつものように進んでいた。
「待って!」
勇気が叫んだ。
「美咲!」
手を伸ばす。
けれど、遅かった。
美咲の身体が跳ねた。
自転車が宙を舞う。
彼女の身体は道路に叩きつけられ、動かなくなった。
「美咲!」
勇気は自転車を投げ捨て、彼女に駆け寄った。
頭の中が真っ白だった。
助けられなかった。
死ぬと分かっていたのに。
分かっていたはずなのに。
「美咲、起きろよ」
返事はなかった。
トラックは横転していた。
車体の下からガソリンが流れ出している。
焦げた匂いがした。
遠くで誰かが叫んでいる。
勇気は美咲の手を握ったまま動けなかった。
次の瞬間、爆発音が世界を裂いた。
炎が視界を覆う。
熱。
光。
衝撃。
そして、暗闇。
8:00
勇気は息を吸い込むように目を覚ました。
喉は焼けるように熱かった。
隣には美咲がいた。
生きている。
「美咲!」
勇気は彼女の肩を掴んだ。
「生きてる? 大丈夫か?」
美咲はぼんやりと彼を見つめた。
「勇気……私、また死んだのね」
「うん。またトラックで」
勇気は唇を噛んだ。
「でも今回は、俺たち違うタイミングで死んだ。美咲は轢かれて、俺はそのあと爆発で死んだ」
美咲はゆっくり瞬きをした。
「じゃあ、私が死んでから勇気が戻ってくるまで、私はどうしてたの?」
「それを聞きたいのは俺の方だよ」
「分からない」
美咲は首を横に振った。
「意識が戻ったのは今。勇気と同じタイミングだと思う」
勇気は考え込んだ。
「ってことは、どっちかが死んで、どっちかが生きてたら……死んだ側は戻らないってことか」
「死んだままってこと?」
「たぶん」
その言葉は、部屋の中に重く落ちた。
「俺があのあとすぐ死んだから戻ってこられた。でも、あのまま俺が生き続けてたら、美咲は……」
「やめて」
美咲は耳を塞いだ。
「映画じゃないんだし」
「でも、もうここまで来たら信じるしかないだろ」
勇気は美咲を見た。
「二人で生き残るには、一緒に生き続けるか、一緒に死ぬしかない」
「一緒に死ぬって」
「違う。死なないんだよ」
勇気は言った。
「死なない。これしかない」
美咲は小さく呟いた。
「もう死にたくない」
その言葉に、勇気は息を止めた。
あれだけ死にたいと言っていた美咲が。
消えたいと、終わらせたいと、何度も言っていた美咲が。
今、はっきりと死にたくないと言った。
勇気は頷いた。
「じゃあ、今日は大学に行かない」
「え?」
「あの道に行くから死ぬんだ。家にいれば事故は避けられる」
「そう、だね」
二人は部屋に留まった。
時計の針が進む。
八時五十分。
八時五十五分。
九時。
何も起こらなかった。
勇気は大きく息を吐いた。
「回避した」
美咲も胸を撫で下ろした。
「よかった」
その瞬間だった。
玄関の鍵が、外側から乱暴に回された。
二人は同時に振り向いた。
ドアが開く。
知らない男が立っていた。
手には包丁。
目が合った。
男は笑っていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、二人を殺すためだけにそこにいるような顔だった。
「逃げ――」
勇気が叫ぶより早く、男は部屋に踏み込んできた。
包丁が美咲の腹に沈む。
美咲の口から、声にならない息が漏れた。
勇気が男に飛びかかる。
刃が肩に刺さる。
胸に刺さる。
首に刺さる。
床に血が広がっていく。
美咲の手が、勇気の手を探す。
勇気はその手を掴んだ。
二人は血の海の中で、互いの指を握った。
そしてまた、世界が暗くなった。
8:00
美咲は声にならない悲鳴をあげて目を覚ました。
肺に空気が流れ込む。
首に手を当てる。胸に手を当てる。腹に手を当てる。
穴は開いていない。
血も出ていない。
けれど、包丁が身体の中に入ってきた感触だけは、はっきり残っていた。
「また……」
勇気がベッドの端で俯いていた。
「また死んだ」
部屋は静かだった。
朝の光。
壁の時計。
八時。
何度見ても同じ時間だった。
美咲は震える膝を抱えた。
「どういうこと?」
声が小さく揺れる。
「事故は避けたよね。家にいたよね。なのに、なんで」
「分かんねぇよ」
勇気は髪を乱暴に掻き上げた。
「トラックを避けても爆発。家にいても通り魔。なんなんだよ、これ」
「私たち、絶対に死ぬじゃん」
その言葉を口にした瞬間、部屋の温度が一段下がったように感じた。
絶対に死ぬ。
当たり前のことだった。
人はいつか死ぬ。
けれど、今の二人にとってそれは、いつかではなかった。
九時。
あと一時間。
その時、美咲はふと思い出した。
「動画」
「え?」
「あの、朝見てたダークサイトの動画」
勇気が顔を上げる。
「首吊りのおっさんの?」
「うん。途中で見るのやめたけど……まだ続きがあった」
勇気はすぐにスマートフォンを掴んだ。
指先が震えている。
履歴を開く。
暗いサイト。
不気味なサムネイル。
『死からの逃れ方』
二人は画面を見つめた。
再生ボタンを押す。
また、あの部屋が映る。
古い畳。
汚れた壁。
天井から垂れたロープ。
中年の男が、椅子の上に立っている。
勇気は唾を飲み込んだ。
「こいつ……」
男は何も言わない。
ただ、ゆっくりとロープに首を通す。
椅子が倒れる。
身体が落ちる。
ロープが軋む。
男の足が空中で小さく跳ねた。
美咲は画面から目を逸らせなかった。
やがて、男の身体は動かなくなった。
ただの自殺動画。
そう思った瞬間だった。
画面の端に、人影が映った。
一人ではない。
二人。
美咲の息が止まる。
「……え?」
画面の中にいたのは、自分たちだった。
勇気と美咲。
けれど、今の二人とは違っていた。
服は汚れ、顔には血がこびりつき、目だけが異様にぎらついている。
画面の中の勇気が、カメラに顔を近づけた。
『これ見てるでしょ?』
美咲の声が続く。
『私』
勇気が叫ぶ。
『俺! 見てんだろ!? 今ビビってんだろ!? 死に続けて!』
部屋の空気が止まった。
勇気はスマートフォンを落としそうになった。
「……俺らだ」
画面の中の勇気は、息を切らしながら続ける。
『まず、今のお前らは何をしていいのか分かってない。なんで死んだら戻ってくるのかも分かってない。俺たちも全部は分かってない』
画面の中の美咲は、泣き腫らしたような目をしていた。
『でも、ひとつだけ分かった。正しいルートで生きていかないと、死からは逃れられない』
『俺らは今、十八時だ』
勇気は画面を食い入るように見つめた。
『この死んだおっさんが言ってた。十二時間、死から逃れろって』
『今言える情報は、三時間に一回のペースで死が来るってこと』
美咲の喉が鳴った。
三時間。
九時。
十二時。
十五時。
十八時。
そして――。
画面の中の勇気が、低い声で言った。
『死を回避する方法は、誰かを殺すことだ』
美咲は思わず首を振った。
「嫌……」
しかし動画は続く。
『九時になったら家に通り魔が来る。そいつを殺せ。そしたら一個目の死は回避できる』
『その要領で、人を殺め続けるんだ』
画面の中の美咲が、唇を震わせながら言う。
『いい? 絶対に諦めないで』
『俺たちはあと一つの死を乗り越えたら、おそらく解放される』
『ここで動画を撮れてるってことは、君たちも必ずここまで来れる』
『正直、かなり辛いけど』
勇気は画面の中の自分の目を見ていた。
その目は、今の自分よりずっと疲れていた。
何人もの死を見てきた目だった。
『諦めんなよ』
動画の中の勇気が言う。
『健闘を祈る』
プツン。
動画は切れた。
スマートフォンの画面に、二人の青ざめた顔が反射していた。
沈黙。
時計の針の音だけが聞こえる。
八時三十七分。
「……マジかよ」
勇気が呟いた。
「これ、マジなんだ」
美咲はゆっくり首を横に振った。
「無理だよ」
「やるしかない」
「人を殺すなんて」
「殺さなきゃ、俺たちが死ぬ」
勇気の声は乾いていた。
自分に言い聞かせているようでもあった。
彼は台所へ向かい、包丁立てから一本の包丁を抜いた。
刃が朝の光を反射する。
美咲はその光を見て、胸の奥が冷たくなった。
「勇気」
「大丈夫」
勇気は包丁を握り直した。
「俺がやる」
「大丈夫じゃないよ」
「じゃあどうすんだよ」
勇気が振り向いた。
目が赤い。
「また刺されるのを待つのか? また腹裂かれて、血吐いて死ぬのか?」
美咲は何も言えなかった。
勇気は玄関の方を見た。
「九時に来るんだろ」
時計の針は、八時五十八分を指していた。
二人は玄関の前で待った。
一分が長かった。
美咲は何度も呼吸を整えようとした。
けれど肺がうまく膨らまない。
勇気は包丁を握ったまま、ドアを見つめていた。
八時五十九分。
鍵穴が、かすかに鳴った。
カチャ。
勇気の肩が跳ねる。
カチャ、カチャ。
外側から、誰かが鍵を回している。
なぜ鍵を持っているのか。
そんな疑問は、恐怖に押し潰された。
九時。
ドアが開いた。
男が立っていた。
前回と同じ顔。
前回と同じ包丁。
男は二人を見るなり、ゆっくり口角を上げた。
「おはよう」
その声に、美咲の身体が凍った。
次の瞬間、勇気が前へ出た。
「うあああああっ!」
叫びながら、包丁を突き出す。
刃は男の胸に深く入った。
肉を破る感触。
骨に当たる鈍い抵抗。
勇気の腕に、そのすべてが伝わった。
男の目が大きく見開かれる。
包丁を持っていた手が力を失い、床に落ちた。
カラン。
乾いた音が部屋に響く。
勇気は包丁を抜けなかった。
男の身体が勇気にもたれかかる。
血が溢れた。
熱い。
手が濡れる。
生臭く、ドロっとした感触。
赤を通り越して、赤黒い血。
男は何かを言おうと口を動かした。
けれど声は出なかった。
そのまま膝から崩れ落ちる。
勇気は包丁から手を離し、後ずさった。
「……死んだ」
床に広がる赤。
その中心で動かない男。
さっきまで生きてたのが嘘のようだ。
美咲は口元を押さえた。
吐き気が込み上げてくる。
勇気は自分の手を見ていた。
血に濡れた手。
「殺すって」
声が震える。
「こんな感触なのか」
死に興味があった。
画面越しに死を見て、退屈だと笑っていた。
ただのおっさんの首吊りかよ、と吐き捨てた。
その自分の手が、今、人を殺した。
勇気の中で、何かが音を立てて壊れた。
同時に、初めて死に対して嫌悪が湧いた。
「警察」
美咲が言った。
「警察に電話しなきゃ」
勇気は反応しなかった。
「勇気!」
美咲はスマートフォンを掴み、震える指で一一〇を押した。
リセットのことなど言えるはずがなかった。
通り魔が入ってきた。
襲われそうになった。
防衛のために刺した。
そう言うしかなかった。
12:00
取調室は、思っていたより狭かった。
灰色の壁。
古い机。
蛍光灯の白い光。
刑事ドラマでよく見る光景そのままだ。
勇気は椅子に座らされ、何度も同じ説明を繰り返していた。
「だから、知らない男が部屋に入ってきて……」
向かいに座る刑事は、四十代くらいの男だった。
鋭い目つきをしているが、口調は乱暴ではなかった。
「鍵は?」
「分かりません」
「本当に知らない男か?」
「知らないです」
刑事はノートに何かを書き込む。
部屋の隅には、若い刑事が一人、記録係として座っていた。
時計を見る。
十一時五十七分。
勇気の心臓が跳ねた。
次は十二時。
何かが来る。
何が来る。
誰が死ぬ。
ドアが開いた。
年配の警察官が、盆を持って入ってくる。
「飯、置いときますね」
盆の上には、カツ丼があった。
湯気が立っている。
甘辛い出汁の匂いが、狭い部屋に広がった。
刑事が少しだけ表情を緩める。
「まあ、食え。朝から何も食ってないんだろ」
勇気はカツ丼を見つめた。
嫌な予感がした。
けれど、空腹もあった。
何より、これが死だとは思わなかった。
まさか。
そんな都合よく。
十二時。
時計の針が重なる。
勇気は箸を取った。
一口。
衣に染み込んだ出汁。
米の熱。
次の瞬間、喉が焼けるように熱くなった。
「がっ」
箸が床に落ちた。
胃の奥から何かが逆流する。
血だった。
口から赤い液体が溢れる。
刑事が立ち上がる。
「おい、どうした!」
勇気は机に爪を立てた。
息ができない。
視界が滲む。
ドアの向こう、別室にいるはずの美咲の悲鳴が聞こえた気がした。
ああ。
美咲も食べたのか。
勇気は倒れながら、最後に時計を見た。
十二時。
世界が暗くなった。
8:00
目を覚ました瞬間、勇気は吐いた。
胃の中には何もない。
それでも喉の奥に、血の味が残っている気がした。
美咲も隣で震えていた。
「カツ丼……」
彼女が呟く。
「私も食べた」
勇気は口元を拭った。
「ダメだったな」
二人はしばらく黙っていた。
もう、ただ怖がっているだけでは進めない。
何を間違えたのか。
どうすれば次に進めるのか。
考えなければ、また同じ場所で死ぬ。
「十二時に死が来る」
勇気は言った。
「取調室にいたのは、俺と刑事と、記録係の刑事だけ」
「私の部屋も似たような感じだった」
美咲が言う。
「女の刑事さんと、もう一人いた」
「方法は二つ」
勇気は自分の声が冷たくなっていくのを感じた。
「刑事にカツ丼を食わせる。もしくは、通り魔を殺しても警察に通報しない」
美咲は顔を歪めた。
「そんな罪のない人を殺せないよ」
「じゃあ逃げるか?」
「……」
「通り魔を殺して逃げるってことは、俺たちは殺人犯になるんだよ。仮に十二時を越えても、普通の生活には戻れない」
美咲は唇を噛んだ。
「でも、刑事さんは殺せない」
勇気は目を閉じた。
誰かを殺すことに、正解なんてない。
それでも選ばなければ、時間は進まない。
「じゃあ、通報しない」
勇気は言った。
「逃げよう」
その選択が正しいのかは分からなかった。
けれど、少なくとも罪のない刑事に毒を食わせるよりは、ましだと思いたかった。
8:00
通り魔を殺した。
警察には通報しない。
それが二人の選んだ答えだった。
九時。
男が部屋へ入ってくる。
勇気は迷わなかった。
包丁を握り、男の胸を刺した。
男は崩れ落ちる。
もう慣れたわけではない。
ただ、躊躇している時間がなかった。
「行こう」
勇気が言った。
美咲は頷く。
二人は財布だけを持って部屋を飛び出した。
階段を駆け下りる。
息が切れる。
心臓が痛いほど鳴っている。
それでも止まれない。
警察が来る前に。
十二時になる前に。
この場所から離れなければ。
マンションを出た。
太陽が眩しい。
久しぶりに見る外の景色だった。
二人は顔を見合わせる。
少しだけ希望が見えた。
通報しなければ、取調室へ行かない。
取調室へ行かなければ、毒入りのカツ丼は出ない。
助かった。
そう思った。
その瞬間だった。
クラクション。
振り向く。
トラック。
白い大型トラック。
最初の日と同じ。
運転手の顔さえ見えなかった。
衝撃。
世界が横に流れる。
空が見える。
アスファルトが見える。
美咲の身体が飛んでいく。
勇気は地面に叩きつけられた。
身体の感覚が消える。
口から血が溢れる。
「なんで」
声にならなかった。
視界の端で、美咲が動かなくなる。
勇気は手を伸ばした。
届かない。
世界が暗くなった。
⸻
8:00
目を覚ました瞬間、勇気は壁を殴った。
ドンッ。
石膏が砕ける。
「なんなんだよ!!」
拳から血が流れる。
「なんなんだよ、この世界は!!」
美咲はベッドの上で震えていた。
涙が止まらない。
「違ったね」
「違ったじゃねぇよ」
勇気は叫んだ。
「全部違うんだよ!」
机を蹴る。
椅子が倒れる。
「逃げても死ぬ!」
「警察行っても死ぬ!」
「家にいても死ぬ!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!!」
美咲は俯いた。
答えはない。
誰も教えてくれない。
その沈黙が余計に勇気を苛立たせた。
「刑事を殺すしかねぇだろ」
勇気が言う。
「結局そういうことなんだよ」
「でも」
「でもじゃねぇ!」
勇気は美咲を睨んだ。
「生きるためだろ!?」
「刑事一人死ねば俺たちは生きられるんだ!」
美咲は顔を上げた。
目に涙が溜まっている。
「そんなの間違ってるよ」
「何が間違ってるんだよ!」
「だってその人何もしてないじゃん!」
「じゃあ俺たちが死ねってのか!?」
勇気の声は震えていた。
怒っているわけじゃない。
怖いのだ。
死ぬのが。
もう一度あの苦しみを味わうのが。
「お前さ」
勇気は吐き捨てるように言った。
「自殺願望あるんだろ?」
美咲の肩が揺れる。
「今さら善人ぶってんじゃねぇよ」
言った瞬間だった。
勇気自身も、自分が何を言ったのか分かった。
けれど止まらなかった。
「通り魔だって俺が殺した」
「全部俺だ」
「お前は何もしてねぇじゃん」
美咲は俯いた。
長い沈黙。
そして。
ぽつりと呟いた。
「そう思ってたんだ」
勇気は目を逸らした。
言い過ぎた。
分かっていた。
でも謝れなかった。
⸻
9:00
通り魔が来る。
勇気が殺す。
男は床に倒れる。
血が広がる。
勇気は息を切らしていた。
そして背中を向けた瞬間。
冷たい感触。
首筋。
何かが入ってくる。
熱い。
いや、冷たい。
勇気はゆっくり振り返った。
そこにいたのは美咲だった。
包丁を握っている。
両手が震えている。
「美咲」
声が出ない。
喉から血が溢れる。
「ごめん」
美咲が泣いていた。
「ごめん」
勇気は倒れた。
視界が赤く染まる。
なんで。
なんで。
頭の中で繰り返す。
目の前が暗くなる。
最後に見えたのは。
泣きながら包丁を握る美咲の顔だった。
⸻
8:00
勇気は飛び起きた。
息が荒い。
首に手を当てる。
傷はない。
けれど感触は残っている。
刃が入る感触。
血が流れる感触。
死ぬ感触。
そして。
美咲への恐怖。
隣を見る。
美咲がいる。
勇気は思わず身体を引いた。
美咲はそれを見て目を伏せた。
「ごめん」
小さな声。
「やりすぎた」
勇気は何も言わない。
言葉が出てこなかった。
自分を殺した人間が目の前にいる。
それが恋人だった。
理解が追いつかない。
「本当に」
美咲が言う。
「ごめん」
「なんでだよ」
勇気の声は掠れていた。
「なんで俺を殺した」
美咲は勇気を見た。
真っ直ぐ。
逃げずに。
「分かってほしかったから」
「は?」
「殺されるのって嫌でしょ?」
勇気は答えられない。
「通り魔も」
「刑事も」
「どんどん命が軽くなってた」
美咲は涙を流した。
「だから」
「自分が殺されたら分かるかなって」
部屋が静かになる。
「私もそのあと飛び降りた」
美咲は言った。
「飛び降りた時に思ったの」
窓の外を見る。
「死ぬのって簡単なんだなって」
勇気は黙って聞いていた。
「でもね」
美咲は笑った。
悲しそうに。
「本当に死ぬ瞬間、怖かった」
「死にたいって思ってたのに」
「死にたくなかった」
勇気の目が揺れる。
「何回も死んで」
「やっと分かった」
「私、本当は死にたくなかったんだ」
勇気は顔を覆った。
涙が溢れる。
「俺もだよ」
小さな声。
「俺も死にたくねぇ」
それが初めてだった。
勇気が素直にそう言ったのは。
「ごめん」
勇気は呟く。
「俺、おかしくなってた」
「生きるためなら何してもいいって」
「思い始めてた」
美咲は頷いた。
「うん」
勇気は深く息を吐いた。
「二人で生きよう」
今度は。
本当に。
その言葉を口にした。
そして二人は知らない。
次の試練が。
母であることを。




