21:00 最終章 【我】
車は静かに走り出した。
車は静かに夜の街を走っていた。
運転手は一言も喋らない。
助手席に座るスーツの男も、前を向いたまま動かない。
車内にはエンジン音だけが低く響いていた。
勇気と美咲も話さなかった。
話すことがなかったわけではない。
むしろ、言いたいことは山ほどあった。
母のこと。
信人のこと。
父のこと。
今日一日で見てきた死のこと。
自分たちが背負ってしまった命のこと。
けれど、そのどれも言葉にすると壊れてしまいそうだった。
勇気は窓の外を見ていた。
街灯が流れていく。
コンビニの明かり。
帰宅する人。
自転車に乗る学生。
どれも見慣れたはずの景色なのに、今は全部が遠く見えた。
自分たちはまだ生きている。
その事実だけが、信じられなかった。
やがて車が止まった。
「到着しました」
スーツの男が言う。
勇気は窓の外を見た。
大学だった。
二人が通っていた大学。
朝、行くはずだった場所。
けれど、今日一日であまりにも遠くなってしまった場所。
「ここが最後の試練会場です」
男はそう言って車を降りた。
勇気と美咲も続く。
夜の大学は静かだった。
校門は開いている。
人気はない。
昼間なら学生の声が響いているはずの道も、今は街灯の明かりだけが白く地面を照らしていた。
校舎の中へ入る。
足音だけが廊下に響く。
一階。
二階。
三階。
そして、屋上へ続く階段。
勇気はその階段を見上げて、足を止めた。
胸の奥が冷たくなる。
忘れていた。
いや。
忘れたふりをしていただけだった。
ここには来たことがある。
何度も。
美咲と二人で。
死について語るために。
生きることから逃げるために。
スーツの男が屋上の扉を開ける。
夜風が吹き込んだ。
「どうぞ」
勇気と美咲は屋上へ出た。
空は暗い。
街の明かりが遠くに見える。
フェンスの向こうには、地上の道路が小さく見えた。
あそこへ落ちれば死ねる。
昔の自分たちは、そんなことを何度も話していた。
屋上の隅には古い雑誌が散らばっていた。
痛くない死に方。
死後の世界。
自殺に関する本。
勇気はそれを見るだけで吐き気がした。
こんなものを真剣に読んでいた。
死を理解したつもりで。
死を語れる人間になったつもりで。
本当は何も知らなかったくせに。
スーツの男はフェンスの近くを指差した。
「そこです」
そこには二足の靴が置かれていた。
勇気の靴。
美咲の靴。
そして、それぞれの靴の中に一通ずつ封筒が挟まっていた。
勇気は息を呑んだ。
「これ……」
美咲も気づいた。
「あの時の……」
遊び半分だった。
本気半分だった。
死ぬ時はこうしよう。
靴を揃えて、遺書を置いて。
まるで映画みたいに。
そう言って笑っていた。
けれど、あの時の二人は、確かに死に近づいていた。
勇気は自分の名前が書かれた封筒を拾い上げた。
指が震えている。
開けたくなかった。
でも、開けなければならない気がした。
封筒の中から紙を取り出す。
見慣れた自分の字。
けれど、そこに書かれていた言葉は、今の勇気には異物のように見えた。
⸻
遺書
僕は死に興味があります。
生きることには、あまり興味がありません。
学校へ行って、講義を受けて、卒業して、就職して、働いて、歳を取って、いつか死ぬ。
そんな当たり前の人生に、何の意味があるのか分かりません。
それよりも、人が死ぬ瞬間の方がずっと本物に見えます。
飛び降り。
首吊り。
交通事故。
誰かが死ぬ動画を見ていると、その人がやっと嘘をやめたように見えます。
人は死ぬ瞬間だけ、本当の顔になる気がします。
僕はそれを見たい。
知りたい。
死んだ後に何があるのか。
人が最後に何を思うのか。
自分が死ぬ瞬間、何を感じるのか。
正直、少し楽しみです。
今、隣には美咲がいます。
美咲は死にたいと言っています。
僕は美咲の気持ちを分かっているつもりです。
だから、たぶん僕は美咲の背中を押すと思います。
美咲が落ちていくところを見届けてから、僕も飛び降ります。
それは殺人ではないと思います。
美咲は死にたいのだから。
僕はただ、美咲に勇気を与えるだけです。
かーちゃん。
こんな息子でごめん。
育ててくれてありがとう。
信人。
親友になってくれてありがとう。
お前は俺たちの分まで長生きしてください。
勇気
⸻
勇気は、そこで紙を下ろした。
呼吸ができなかった。
紙に書かれていたのは、自分だった。
間違いなく、自分の字だった。
でも今の勇気には、それが化け物の文章にしか見えなかった。
「少し楽しみです……?」
喉から笑いが漏れる。
笑いではなかった。
壊れた音だった。
「美咲の背中を押す……?」
勇気は遺書を握りしめた。
指先が白くなる。
「何だよ、これ」
声が震える。
「何なんだよ、これ……」
今なら分かる。
死は綺麗じゃない。
死は救いでもない。
死は動画の中の出来事じゃない。
骨が砕ける。
息ができなくなる。
血が流れる。
人が泣く。
残された人間の人生を壊す。
母が死んだ。
信人が死んだ。
父が死んだ。
全部、自分の中に残っている。
それなのに。
過去の自分は、美咲を突き落とすことを「勇気を与える」と書いていた。
勇気は吐き気を堪えながら呟いた。
「最低だな、俺」
美咲は何も言わなかった。
彼女もまた、自分の封筒を開けていた。
紙を広げる。
そして読み始める。
⸻
遺書
私はもう死にます。
生きている価値が分かりません。
毎日が空っぽです。
笑っていても、楽しくありません。
誰かと話していても、本当はそこに自分がいないような気がします。
死ぬことを考えている時だけ、少しだけ自分が生きている気がします。
おかしいと思います。
でも、それしかありません。
勇気は私の気持ちを分かってくれます。
私が死にたいと言っても、止めません。
それが嬉しかった。
みんなは生きろと言う。
でも勇気だけは、死にたい私を否定しませんでした。
だから、私は勇気と死にます。
たぶん、私は自分で飛び降りるのが怖くなると思います。
その時は、勇気が背中を押してくれると思います。
でも勇気は殺人者ではありません。
私は自分で死にます。
勇気は、死にたい私に勇気をくれただけです。
お父さん、お母さん。
今までありがとう。
ごめんなさい。
美咲
⸻
美咲の手が震えた。
紙が風に揺れる。
「私……」
声が出ない。
「私、こんなこと……」
勇気は美咲を見る。
美咲は泣いていた。
悲しみではない。
恐怖だった。
過去の自分への恐怖。
「止めてほしかったのかな」
美咲は呟く。
「本当は」
夜風が吹く。
「勇気に分かってもらえたって思ってた」
「死にたい私を否定しないでくれたって」
勇気は呟く。
「俺ら、本当にこんなこと考えてたのか」
すると後ろから声がする。
「考えてたよ」
振り返る。
そこには高校時代の自分達が立っている。
制服姿の勇気と美咲。
死に興味を持っていた頃の勇気。
死にたい願望があった美咲だ。
過去の勇気は笑う。
「忘れたのか?」
「お前ら書いたんだろ」
今の勇気は言葉を失う。
過去の勇気は続ける。
「生きたい?」
「本気で言ってんのか?」
「現実知らねぇくせに」
「大学卒業したら働くんだぞ?」
「朝から満員電車」
「上司に怒鳴られる」
「客には頭を下げる」
「給料は少ない」
「税金ばっか取られる」
「老後まで働いて終わりだ」
「何が楽しい?」
過去の美咲も続く
「このまま幸せになんかなれない」
「女はなんもできないのよ」
「パートで働いて、妊娠、出産?、子育て?」
「あんたにできるわけないでしょ?」
「結婚しても夫に見下され続けるわ」
2人は黙って聞いている。
だって全部本当だから。
人生は楽じゃない。
死にたいと思う人がいる理由も分かる。
過去の勇気は屋上のフェンスを指差す。
「飛べよ」
「もともとここで死ぬつもりだったんだろ?」
「今なら全部終わるぞ」
「楽になろうぜ。」
そこで今の勇気が言う。
「そうだな」
過去の勇気が少し驚く。
勇気は続ける。
「確かに人生は辛い」
「母さんも死んだ」
「信人も死んだ」
「父さんも死んだ」
「俺は人も殺した」
「一生忘れられないと思う」
過去の勇気は笑う。
「だったら」
「なおさら死ねよ」
「お前は親も親友も殺した人殺しだ!」
「死ね!死ね!」
ここで勇気が首を振る。
「確かに俺が殺した。」
「でもな。」
「信人と笑ったこともあった」
「母さんの飯も美味かった」
「父さんにも会えた」
「美咲と出会えた」
「全部無かったことにはしたくない」
過去の美咲は激怒した。
「あんたらは腐った人間なのよ!」
「死を弄ぶ、腐った人間よ!」
美咲は首を横に振る。
「違う」
そして勇気を見る。
「今の勇気は、私はそうじゃない」
勇気は過去の自分を見る。
昔の自分。
死に憧れていた自分。
美咲の死すら、興味の対象にしていた自分。
それが、最後の敵だった。
通り魔でもない。
母でもない。
信人でもない。
父でもない。
自分自身。
「分かった」
勇気が言う。
「最後の試練」
スーツの男は何も言わない。
ただ静かに二人を見ている。
勇気は続けた。
「美咲を殺すことじゃない」
「誰かを殺すことでもない」
美咲が頷く。
勇気は、握りしめた遺書を見つめた。
「殺すのは、昔の俺だ」
時計は 20:59
夜風が強く吹いた。
フェンスがかすかに鳴る。
昔なら、この音を聞きながら飛び降りていたのかもしれない。
今は違う。
勇気は美咲に向き直る。
「美咲」
「うん」
「どうしたい」
美咲は遺書を見た。
過去の自分。
死にたかった自分。
誰かに背中を押してほしかった自分。
その全てを見つめた。
そして、ゆっくり顔を上げた。
過去の2人が叫ぶ
「早く死ねーーー!!!!!!」
今の美咲の
涙で濡れた目には、もう迷いはなかった。
「生きたいっ!!!!」
その言葉は強かった。
今日一日で、何度も死んだ。
何度も痛みを知った。
何度も失った。
その果てに出た言葉だった。
勇気は泣きそうになりながら笑った。
「俺も」
秒針が進む。
カチ。
カチ。
カチ。
勇気はフェンスの前に立った。
その場所は、
昔の二人が死の入口だと思っていた場所だった。
でも今は違う。
ここは、生きることを選ぶ場所だった。
美咲が隣に立つ。
過去2人が
現在の2人を押そうと近づいてきてる。
「死ねっ!!死ねー!!!」
秒針が進む。
カチ。
カチ。
カチ
二人は手を繋いだ。
力強く。
もう離さないよう。
21:00。
大きな風の音と共に過去の2人は
消えていく。
何も起こらなかった。
風だけが吹いていた。
車の音が遠くから聞こえた。
街はいつも通り動いていた。
死は来なかった。
勇気はしばらく時計を見つめた。
本当に。
本当に何も起こらない。
美咲が息を吐いた。
それは泣き声にも、笑い声にも聞こえた。
「終わった……?」
勇気は答えられなかった。
ただ、美咲の手を握り返した。
振り返る。
スーツの男はいなかった。
屋上には二人だけだった。
勇気は遺書を見た。
美咲も自分の遺書を見る。
そして二人は、ゆっくり歩き出した。
勇気は空を見上げる。
「行こう」
美咲は頷く。
「うん」
二人は屋上を後にした。
死ぬためではなく。
生きるために。
屋上にある古いゴミ箱の中には
ぐちゃぐちゃに丸めた遺書が2枚
捨てられていた。
屋上から続く階段を、二人はゆっくり下りた。
来る時とは違っていた。
足音が軽い。
体は疲れ切っている。
心もぼろぼろだった。
それでも、息ができる。
生きている。
ただそれだけで、世界の見え方が変わっていた。
校舎の廊下に出る。
夜の大学は静かだった。
蛍光灯の明かり。
誰もいない教室。
掲示板に貼られた講義案内。
朝までなら何とも思わなかった景色が、今は少しだけ愛おしく見えた。
勇気は立ち止まった。
美咲が振り返る。
「どうしたの?」
勇気は教室の扉を見た。
「俺さ」
「うん」
「今日の朝まで、大学なんて面倒くさいだけだと思ってた」
美咲は小さく笑った。
「私も」
「でも」
勇気は廊下の先を見る。
「明日、普通にここへ来れるなら、それだけで十分かもな」
美咲は少しだけ目を伏せた。
普通。
朝起きて、大学へ行く。
講義を受ける。
友達と話す。
帰り道にコンビニへ寄る。
そんな当たり前のことが、どれだけ貴重だったのか。
今日まで二人は知らなかった。
校舎を出る。
外の空気は冷たかった。
夜風が頬に当たる。
美咲は空を見上げた。
「生きてるね」
勇気も空を見た。
星はほとんど見えない。
街の明かりに霞んだ、いつもの夜空だった。
「うん」
勇気は言った。
「生きてる」
二人は手を繋いだまま大学を出た。
これからどうなるのかは分からない。
母の死。
信人の死。
父の死。
通り魔の死。
現実に戻った時、それらがどう処理されるのかも分からない。
警察に捕まるかもしれない。
誰にも信じてもらえないかもしれない。
それでも。
もう逃げない。
死に逃げない。
生きる。
そう決めた。
「美咲」
「ん?」
「俺たち、絶対に無駄にしないでおこうな」
「何を?」
勇気は少し考えた。
母の顔。
信人の笑顔。
父の最後の目。
全部が浮かんだ。
「この命」
美咲は勇気の手を強く握った。
「うん」
二人は歩いた。
暗い道を。
それでも。
前へ。
帰りの電車で
2人は死んだかのように
スヤスヤと安心して眠った。




