25 屋敷の不可思議
湖畔の風景――まばらな黒い影。それは林ほどの密度、森ほどではない。
湖面が木の間からちらちらと見え隠れする。
霧が立ち込め形を持ち始める。
――霧だろうか、もっと形があるようにも感じる。
ゆっくりと顔を下げ、足下を見る。
足を踏み出した感覚がなかったのに、湖にいつの間にか辿り着く。
前に目を向けると、霧の正体が見えた。
湖から伸び上がった水が形を持っているのだ。ゆらゆらと絶えず形を変えるもの――人か獣か……。
それに手を伸ばした途端、けたたましい音が鳴り――私は目を覚ました。
「はっ! 夢だった……」
寝間着は汗で濡れ思わず、身震いする。
だけどけたたましい音は今も屋敷中に鳴り響いていた。
ぎゃあああーーーーっ!!!
「誰が、叫んでいるの」
くぎゃああーーーっ!!!
ベッドからそろりと抜けだし、震える手でガウンを羽織る。
「ポンタ、朱雀、あれはなんだと思う?」
《魔だじゃ。さすねぇのう》
《ほんと、なんで叫んでるんだ》
「これが、エイリックが言っていた不可解な現象なんだわ」
こんなのどうやって退治すれば良い?
人のような魔物なんて見たこともなかった。
エイリックでさえどうしようもなかったのに……。
だが魔物は、しばらく待っていても、部屋に入って来るでもなく、ドタバタした音も聞こえない。
ただ叫んでいる。
うるさいだけで、危害は加えないみたいだ。
《魔だっきゃ、思念ば喰う。これは、人間の思念のもんだ》
魔は思念を食べると言う、朱雀の言葉を聞き、思わず振り返ってしまった。
初めて聞く真実だった。
「本当の事なの? 朱雀。魔が思念を食べたら……どうなるの」
《思いが、形を持つ》
きゃああーーーーっ!!!
声は私の部屋の前まで来た。でも、部屋には入ってこない。
鍵穴からこっそり覗いてみるが見えるはずもない。
今は夜中だ、廊下は真っ暗だろう。
「暗くて何も見えない」
《へば、火っこつけるが》
朱雀はそう言って身体を震わせると、体中が火に包まれた。
「ちょ、大丈夫なの! 朱雀」
《わは、火の鳥だっていったベ》
そうだった。朱雀が力を使うのを始めて見たけど、
本来はこの姿なのだと、朱雀はけろりとして言う。
《しても、きぃつけねば、火っこついで火事になるはんで》
――ちょっと、それって、大変じゃないの。
今後は、朱雀に火の鳥の姿は辞めるように言わなければ。
ぎゃあああっぐあああーーー!!!
扉をそっと押し開けると、十センチの隙間から朱雀が飛び立っていく。
朱雀が隙間からにじり出るとき、少しだけ扉が焦げた。
それが気になって見ていた私は、目の前の女の人と目が合うのが一拍、遅れた。
「ひっ!」
あああーーーーーっきゃあああああっ!
大きく口を開けた女の人は、瞳孔が開き目一杯開いた目と口が真っ黒に見える。
女の人からは酸っぱいようなすえた臭いがする。
――魔の臭いと同じだ。
女の魔物はただただ叫び、耳が痛くなってくる。
「なんで叫ぶの! うるさい!」
心で、黙れと強く念じたのだ。
すると女の人がもやもやとした霧になり、音もなく、しゅーっと消えた。
耳元で叫び続けられて、耳の奥がじんじんとしていた。
ポンタの声がやっと聞こえてきた。
《……サクラ、浄化した?》
「どうだろう、たぶん、したんだと思う……」
”浄化”とは念じていないけど、”黙れ”と念じたのが効いたのかしら。
朱雀は廊下の真ん中で羽ばたいていた。朱雀から火の粉が辺りに散っていく。
「朱雀、火事になっちゃうから」
《……そこのランプに、火ば付けろ》
そうだった。ランプがあるんじゃない。私って馬鹿!
部屋にも置いてあったのに、すっかり気が動転していた。
廊下の壁に置かれたランプを取り出し、朱雀から火を分けてもらい、小さな火がつく。ツマミを目一杯に調節すると、橙色の灯りが広がった。
光の明暗がくっきりとなって、今まで何となく見えていた暗闇は、真っ暗だ。
ランプの灯りが届く範囲は自分の周りだけだった。
――返って怖いかも……。
音が聞こえた気がして、振り返ると黒い影が一緒に素早く動く。
私は驚いて飛び上がった。
《《サクラの影!!》》
「わ、分かってたわよ、ちょっとビックリしただけでしょ!」
きゃああーーーっ!
廊下の先から声が聞こえてきた。
さっきの魔物は浄化されていなかった――のかも。
じりじりと声のする方へ歩いて行くと、左の扉が急に開いて、
腕を掴まれ、私は引っ張り込まれてしまった。
「きゃああ!」
「お嬢様、私です」
ああ、なんだ。私の付き添い役のおばさんだった。
確か隣の部屋にいたんだった。
おばさんは、マーガレットという元貴族の奧さんで、この屋敷には以前も来たことがあるという。そして魔物の正体も教えてくれた。
「あれはバンシーです。悪さはしません。夜が明けるまでじっと耐えていれば良いだけです」
「うるさくて眠れないんじゃない?」
「……ええ、使用人たちは、さぞや大変でしょうね。でも仕方ありません……」
「バンシーって、魔物?」
「魔物とは初めて聞く言葉ですね。私達はバンシーを『死を伝える精霊』と聞かされて育ちました」
精霊って? この国特有の伝承なのだろうか。
「猟師の言い伝えだったそうです。泣く子を大人しくするおとぎ話だと聞きます。三十年ほど前、ここに領地を賜った男爵は……毎夜声に悩まされて気が触れたそうです。その次の領主も、また次も。だからここは呪われた領地と言われるようになりました」
――今の領主は、エイリックだ。このままでは、彼もそうなってしまうの?
私達は、朝までじっとしているしかないみたいだ。ポンタと朱雀は影に隠れたまま、きっと寝ている。
夜が明けたら、あの湖へ行って見よう。
私の夢と無関係だったとは思えない。
きっとあの水に浮かぶ”魔”が、悪さをしているに違いない。




