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1-07 地図にない道

 腹の調子が完全に戻った翌日、俺は街の東の岩山に来ていた。


 背中にはロープと杭とハンマー。腰には水と、非常食と、解毒薬。宿の女将さんには「夕方までに戻らなかったら、ギルドに知らせてください」と伝えてきた。伝えたときの女将さんの顔は、もう見慣れたので割愛する。


 今日の目的は、保険だ。


 冒険者は、死ぬ。ドラゴンにではない。転落で、毒で、出血で、つまらない事故で死ぬ。特に俺のような打たれ弱い駆け出しは、たった一発の不運が命取りになる。だから、命綱になる装備は、多少の無茶をしてでも早めに確保しておきたい。


 そして俺は、その「命綱」の在り処を、一つだけ知っている。


 ――アルオンの初期エリアには、「壁の向こう」と呼ばれる場所があった。


 東の岩山の崖の中腹、一見ただの岩の裂け目。ゲームでは本来、入れない場所だ。だが、裂け目の手前で視点を極端に下げ、斜めに歩きながらジャンプを挟むと、当たり判定の隙間に体がねじ込まれて、壁の裏側へすり抜けられた。


 いわゆる、壁抜けグリッジである。


 攻略サイトには載らない。載せると修正されるからだ。検証勢の間だけで口伝された、開発の忘れ物みたいな隠し空間。その最奥に、固定配置の宝が二つ、置かれていた。


 ……さて。この世界に、当たり判定はない。


 視点を下げても斜め歩きしても、岩は岩だ。つまり現実の「壁抜け」は、グリッジでも何でもない、ただの――


「……ただの、クライミングだよなあ」


 崖を見上げて、俺はため息をついた。


 裂け目は、記憶の通りの場所にあった。地上から十五メートルほどの高さ。手掛かりの少ない岩肌。裂け目の幅は、人ひとりが肩をすぼめて、ぎりぎり。


 焦らず、確実に、一手ずつ。


 杭を打つ。ロープを掛ける。三点支持。体を上げる。また杭を打つ。腕がぱんぱんに張ってきたら、無理をせずテラスまで降りて休む。実際、一度は完全に降りて、パンをかじってから登り直した。臆病者と笑うなら笑え。俺の体力で滑落は、笑い話にならないのだ。


 昼を回った頃、ようやく裂け目に取りついた。


 中は、冷たかった。


 岩の匂い。自分の心臓の音。肩と背中を岩に擦られながら、横向きで、じり、じりと進む。ゲームなら三秒だった距離が、現実では三十分かかった。途中、体がつかえて動かなくなったときは、さすがに冷や汗が出た。息を全部吐いて、体を薄くして、抜けた。


 ――そして。


 裂け目の先は、記憶の通り、小さな空洞になっていた。


 天井の隙間から、細い光が落ちている。壁には淡く光る苔。そして空洞の奥に、ぽつんと――古い、小さな祠があった。


 ゲームの頃、この祠は「配置ミス説」と「イースターエッグ説」で論争になっていた。開発者の遊び心か、消し忘れか。だが現実のそれを目の前にすると、どちらでもないことが、一目で分かった。


 石の表面は、風雨の届かない場所で、それでも丸く摩耗していた。誰かが、気の遠くなるほど昔に、ここに祀ったのだ。崖を登り、岩の隙間に体をねじ込んで、こんな場所まで。何を思って、誰のために。


 祠の台座に、それは、あった。


 古びた指輪がひとつ。色褪せた組み紐がひとつ。


――――――――――


執念の指輪


効果:最大体力の状態で致死のダメージを受けたとき、体力1で持ちこたえる


――――――――――


救命のミサンガ


効果:致死のダメージを受けたとき、体力1で持ちこたえる(一度発動すると失われる)


――――――――――


「……あった。本当に、あるんだなあ」


 効果の条件が、微妙に違うのが面白い。指輪は「最大体力の状態」でしか発動しない代わりに、壊れず何度でも。ミサンガは、体力が削られた後でも効く代わりに、一度きりの使い捨て。……いい設計だ。作った奴の顔が見たい。


 致死の一撃を、一度だけ踏みとどまらせてくれる装備。冒険者の命綱。俺は両膝をついて、祠に手を合わせた。


「いただきます。大事に使います。……ちゃんと、生き延びるのに使いますから」


 持ってきた銅貨を三枚と、パン屋のおかみさんの焼き損じパン(うまいやつ)を、代わりに台座へ供えた。等価交換にはほど遠いが、気持ちの問題である。


 指輪は左手の中指に。ミサンガは右の手首に。


 命綱は、二重にしておくものだ。ロープと杭がそうであるように。特に俺みたいな、打たれ弱い駆け出しは。


 ――帰りの裂け目は、行きより五分だけ早く抜けられた。


 日暮れ前の門で、泥と擦り傷まみれの俺を見て、門番のおじさんが渋い顔をした。


「兄ちゃん、今度は何をしてきたんだ」


「山登りです」


「その歳で崖に呼ばれてどうする……」


 翌朝、ギルドに顔を出すと、カウンターのソフィさんがすっ飛んできた。


「ハヤトさん! 岩山の崖で滑落しかけてた人がいるって、狩人さんから報告が入ってるんですけど!!」


「滑落しかけてません。二回休憩しただけです」


「見られてるじゃないですか!! もう、呪いの次は崖……! 私、ハヤトさんの担当になってから、白髪が増えた気がします……」


「これ、お土産です。山頂の近くに生えてた薬草。いいやつです」


「……っ、も、もらいますけど! 次は行き先を先に言ってからにしてください! 絶対ですよ!」


 呆れながら優しいのは、この街の伝統らしい。


 保険よし。称号よし。耐性は、道半ば。


 装備の心配が減った分、次は攻めの番だ。討伐依頼を本格的に受けていこう――と、思っていたのだが。


 この数日後、俺は自分の剣を眺めて、別の問題に気づくことになる。

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