3-04 沈む主人公
<<エルシー視点>>
――昨日の帰り道のことを、私はたぶん、ずっと忘れないと思う。
三層の回廊で、ハヤトさんが新しい短剣を抜いた。試し斬り、と言っていた。祝福も、なしで。
最初の一歩で、輪郭が薄くなった。
二歩目で、風を切る音が、ワンテンポ遅れて届いた。それはつまり、音のほうが置いていかれてるということで。三歩目からは、正直、目で追うのを諦めた。機械の魔物が二体、何をされたのか気づいてもいない姿勢のまま、静かに崩れて――それで、終わり。
人の形をした風が吹いて、通路が静かになった。私が見たのは、それが全部だ。
教会の学び舎でも、銀狼の牙でも、すごい人はたくさん見てきた。でも、あれは「すごい」じゃない。あれはたぶん、人が出してはいけない速さだ。祝福もなしで。装備一本、増えただけで。
……でね。ここからが、本題なんだけど。
あの速さの真ん中にいた人は、剣を納めたあと――ほんの少しだけ、寂しそうな顔をしたのだ。
誰よりも速くなったはずなのに、誰よりも遠くを見ている顔。
昨日の晩、寝る前に、ベッドの中でずっと考えた。ハヤトさんは、変な人だけど、嘘はつかない人だ。「嬉しい」も、きっと本当。でも、あの寂しさも、本当。両方が本当って、どういうことなんだろう。
私に分かるのは、ひとつだけ。ああいう顔をしている人を、放っておいては、いけないということだ。私が銀狼の牙で、ああいう顔で祈っていたとき――誰にも、気づいてもらえなかったから。
だから今日は、ちゃんと見ていよう。そして、もし聞ける瞬間が来たら――ちゃんと、聞こう。私はあの横顔の意味が分からなくて、昨日から、ずっと胸の奥に引っかかっているのだから。
<<ハヤト視点>>
翌日の夕方。工房への道すがら、エルシーさんは終始うきうきしていた。
「ノエルさん、きっと飛び跳ねますよ。迷宮銘の短剣なんて。ふふ、お土産話も、実物付きなんて豪華ですし……ハヤトさん? 歩くの、ちょっと遅くないですか?」
「そうですか? いつも通りです」
街は、開放期間の中盤らしい熱気だった。武具屋の店先では迷宮帰りの冒険者が戦利品を自慢し、酒場からは昼から武勇伝が漏れ、ギルドの買い取り窓口には行列ができている。すれ違った顔見知りの解体場のおじさんが「兄ちゃん、迷宮銘を引いたんだって? 持ってるねえ!」と親指を立てた。噂は早い。
いつも通りではなかった、と思う。腰のゲイルは今日も素晴らしく軽いのに、足だけが妙に重い。昨日から胸の底に居座っている「あの気分」に、名前をつけそこねたままだったからだ。
喜んでいる。本当に喜んでいる。なのに、喜びの底が抜けている。こんな半端な顔で工房に行ったら、あの目のいい職人は、きっと――。
……まあ、行けば分かるか。
俺たちは約束通り、ノエル工房の扉をくぐった。
「見せてください見せてください見せてください!!」
ノエルさんは扉が開いた瞬間からこの調子である。土産話の口約束が、まさか迷宮銘の実物付きになるとは、彼女も思っていなかったらしい。
俺が布包みを解くと、ノエルさんは息を止めた。
「……『ゲイル』……本物の迷宮銘……。ちょ、ちょっと触っても……いいですか。工房の神さまに誓って、傷ひとつつけませんから」
「どうぞ。むしろ専門家の見立てを聞きたいです」
ノエルさんの手つきは、恭しくすらあった。
まず布を新しく敷き直し、両手を布で拭ってから、短剣を捧げ持つ。木の台に横たえ、水平を確かめ、小さな秤で重さを測り、紐で重心の位置を出す。それから帳面を開いて、波紋の流れを鉛筆で写し始めた。鑑定というより、診察だった。いや――教えを乞う弟子の姿勢、と言うほうが近いかもしれない。
刀身を光に透かし、波紋を目で追い、柄頭の歯車を指の腹でなぞる。
「すごい……。この波紋、人の手じゃ打てません。芯の通し方も、重心も、なにもかも……。軽いのに、しなりで力を逃がさない。刃こぼれ耐性って表示、伊達じゃないです。これなら、ハヤトさんの百回にも耐えます」
「そういえば、銘の文句があるんです。『噛み合わぬ歯車は、風にだけ油を差した』」
「わ、詩みたい……どういう意味なんでしょう?」
エルシーさんが首をかしげ、ノエルさんが顎に指を当てた。
「歯車の神さまが、風――速さにだけ、贔屓をしたってことじゃないですか? あの迷宮、名前からして『噛み合わぬ』ですし。噛み合わない世界で、風だけが自由に通り抜ける……って、あれ、なんだか、ハヤトさんの戦い方みたいですね?」
「奇遇ですね。俺もちょっと思いました」
「じゃあやっぱり、ハヤトさんに当たるべくして当たった子なんですよ! ねえ、ノエルさん!」
「ですね! ……ふふ、迷宮の神さまも、見る目あります」
盛り上がる二人の横で、俺は曖昧に笑った。当たるべくして当たった、いい短剣。まったくもって、その通りなのだ。その通りなのに――。
「回転の速い戦闘だと、どうでしょう」
「相性、いいと思います。攻撃力も素直な数字ですし、素早さも付いてる。それに――攻撃速度、八%。みんな、おまけ扱いする欄ですけど。ハヤトさんには、こっちが本命ですよね? ……はあぁ、いいなあ、迷宮の神さま。私もいつか、こういうのを――」
そこでノエルさんは、ぱっと顔を上げて、営業スマイルに戻った。
「と、とにかく! 大当たりです! おめでとうございます、ハヤトさん!」
「ありがとうございます」
と、そこで工房の鈴が鳴った。
入ってきたのは、身なりのいい武具商人だった。噂の迷宮銘を追ってきたらしい。男はゲイルを一目見ると、揉み手で近づいてきた。
「これはこれは、噂の『ゲイル』! いやあ、お見事なお品だ。単刀直入に申し上げましょう。金貨十五枚で、手前どもにお譲りいただけませんか。いや、十八枚まで出しましょう」
金貨十八枚。聖水が三百と六十本買える。エルシーさんが「じゅうはち……」と喉の奥で言った。
「売り物ではないので」
「二十枚では?」
「売り物では、ないので」
男は俺の顔をしばらく眺めて、商人らしくあっさり引き下がった。「気が変わったら、ぜひうちへ」と名刺を置いて、鈴を鳴らして出ていく。
「……即答でしたねえ、ハヤトさん。二十枚ですよ、二十枚」
「使う予定のある武器なので」
「ふふん。うちのお客さんは、そうこなくちゃです」
ノエルさんは、なぜか自分が褒められたみたいに胸を張った。
それから、迷宮の土産話になった。エルシーさんが動く床の武勇伝を身振り付きで語り、俺が持ち帰った上物の砥石にノエルさんが歓声を上げ、宝物庫の悲喜こもごもに三人で笑った。楽しい時間だった。本当に、楽しい時間だったのだ。
ただ、話の切れ目のたび、ノエルさんの視線が、ちら、ちら、と俺の顔を確かめるのが分かった。職人の目は、ごまかせない。土産話が一巡して、湯呑みが空になって――
「…………」
「…………」
「……あのう」
ノエルさんは、俺の顔とゲイルを見比べて、遠慮がちに言った。
「なんで、そんなに嬉しくなさそうなんですか?」
工房の空気が、すっと静かになった。炉の火だけが、変わらずに小さく爆ぜている。
……顔に、出ていたか。
隣のエルシーさんが、ここぞとばかりに身を乗り出した。
「そうなんです! 昨日からなんです! 宝物庫では、あんなに喜んでたのに……街道ぐるぐる四十回ぶんって、私と両手を叩き合わせてたのに……帰り道の試し斬りのあとから、急に、その、遠くを見るお顔になって……」
「遠くを見る顔」
「してました。剣を納めた後、ずっと……」
ノエルさんは、ゲイルをそっと布の上に戻した。それから、カウンターに身を乗り出して、まっすぐに俺を見た。いつもの人懐こい目じゃない。職人の目だった。
「ハヤトさん。鍛冶師として、聞かせてください」
「はい」
「この短剣、ハヤトさんの装備の中では、文句なしの一番の戦力です。今の繋ぎの剣とは比べ物になりません。それに攻撃速度は、ハヤトさんが一番大事にしてるものですよね? 称号で、コンマ何%って、あんなに嬉しそうに拾い集めてるのに――八%が来て、どうして、そんな顔なんですか」
……この人は、本当に、よく見ている。
俺の武器の減り方から戦い方を読んだように、俺の顔から、ちゃんと読んでしまう。
誤魔化すことは、できた。疲れてるだけです、で済む話だ。
実際、口はもう「いやあ、迷宮で疲れが出たのか」まで用意していた。だが、目の前の二人を見て、その言葉は喉の奥で崩れた。身を乗り出したままのノエルさんの、まっすぐな職人の目。隣で心配そうに手を握り合わせている、エルシーさん。……この一か月と少し、俺の速さも、俺の奇行も、そのまま受け止めてくれた人たちだ。
この工房で道具に嘘をつかない人に、道具のことで嘘をつくのは――何か、違う気がした。
「……もちろん、嬉しいには、嬉しいんですよ」
気づけば、口が動いていた。
「ゲイルは素晴らしい短剣です。明日から主武器にします。大事に使います。それは本当です。でも……」
「でも?」
エルシーさんとノエルさんが、そろって俺を見ている。
俺は、しばらく迷って――結局、白状することにした。
昔いた場所で、この話をすると、決まって同じ反応が返ってきた。「夢見てないで、普通に強い武器を使え」。悪気のない、正しい忠告たち。だから俺は、いつからか、この話をしまい込むようになった。
でも、目の前の二人は。外れの祝福を毎日かけてくれる相棒と、微妙な空気の中でも毎朝看板を磨いてきた職人は――たぶん、笑わない。
「……俺には、理想としている武器が、あるんです」
初めての小説投稿なので、投稿者視点で思ったことをば。
以下の定型文、割と皆さま本気で思って書いてると思います。
私もです。
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