第三話 映えない朝
その日の夕方、会社から電話が入った。
上司の声は、いつもより早口だった。
「倉田、明日の撮影なんだけど、クライアントが方向性を変えたいって」
「方向性?」
「もっとわかりやすくリゾート感を出したいらしい。」
俺は、スマホを持って固まっていた。
とにかく、海。青。橋。
若い女性が楽しそうにしてる感じ。
上司の声が上滑りした。
「聞いてる?」
「はい」
「牧場は?」
「優先度低い」
「......」
「倉田?」
「……わかりました。素材、送ります」
電話を切ると、腰の痛みが強くなった。
立ち上がろうとしたが、うまく力が入らなかった。
無理に動こうとして、腰に鋭い痛みが走る。
「っ……!」
その場に膝をついた。
視界の端が白くなる。呼吸が浅くなる。
ミヨの言葉が頭をよぎった。
都会の人は、息もしない。
俺は、海の前でたった一人で、腰痛に負けている。
まだ、撮るべき画をモノにしていない。
そのとき、ふと思い出した。
「腰が痛いなら、冷たいものばかり飲まないで、夜は温めて飲みなさい」
そう言って、ミヨから渡された牛乳。
白い牛乳が、夕方の光を受けて少し桃色に見えた。
確かに白は目立たない。
けれど、白は青を支えている気がした。
眩しい青のそばには、いつも静かな白があった。
ゆっくり呼吸した。
吸って、吐く。
もう一度、吸って、吐く。
痛みは消えない。
少しずつ輪郭が戻ってくる。
俺は、立ち上がるのを諦め、座ったままカメラを手に取った。
そして撮った。
夕方の海ではなく、机上に置かれた牛乳瓶を。
瓶の向こう、ぼやけた宮古島ブルーが広がっている。
白と青。
近くにあるものと、遠くにあるもの。
次に、部屋から波打ち際を撮った。
波が寄せるたび、白い泡が砂を撫でる。
泡はすぐ消えるが、また次の波が来る。
俺は短く息を吐きながら、何度もシャッターを切った。
翌朝、俺は予定を変えた。
日の出前にホテルを出て、もう一度牧場へ向かった。
腰はまだ痛かったが、昨日より歩けた。
ミヨはすでに牛舎にいた。
「早いね」
「撮らせてもらってもいいですか」
「海じゃなくて?」
「ええ、まずここを」
ミヨは俺をじっと見て、小さくうなずいた。
「邪魔しないならね」
俺は牛舎の端に立ち、カメラを構えた。
牛の息。餌を食べる音。
ミヨの手の動き。
銀色の容器に牛乳が注がれていく音。
朝の光が、牛舎の隙間から細く差し込んでいた。
派手なものは何もなかった。
だが、画面の中には確かに時間が流れていた。
牛乳の白さ。
ミヨの手の皺。
牛の黒い瞳。
遠くにかすかに見える海の青。
腰をかばいながらも、立っている自分の影。
撮り終えると、ミヨが温かい牛乳を出してくれた。
「昨日より顔がいい」
「そうですか」
「痛いのは?」
「やせ我慢で」
「なら、生きてるね」
乱暴な慰めだったが、笑ってしまった。
「痛くないほうがいいです」
「それはそう」
温かい牛乳は、冷たいものよりも匂いが強かった。
だが、今は。
不思議と気にならず、体の内側に膜を張るように、ゆっくり染みていった。




