第九話 残る温もり
厨房へ戻ると、いつもの空気がそこにあった。
湯気の立つ鍋。
香草の香り。
料理人たちの慌ただしい動き。
変わらない光景。
――なのに。
どこか、落ち着かない。
「リディア様?」
料理人の一人が声をかける。
「大丈夫ですか?」
リディアは一瞬だけ我に返った。
「あ……はい」
小さく微笑む。
「少し考え事をしていただけです」
そう答えながら、いつもの位置へ戻る。
鍋をかき混ぜる。
火加減を確かめる。
手は、いつも通り動く。
だが――
(……どうして)
ふと、手を止めた。
胸の奥が、わずかにざわついている。
王弟の言葉。
王宮顧問。
婚約の可能性。
それも、確かに気になる。
けれど――
それ以上に。
(……カイル様)
ふと、その名が浮かぶ。
あの時。
真っ直ぐに向けられた視線。
逃げ場のない距離。
そして――
「私が先に、申し込みます」
低く、はっきりとした声。
思い出した瞬間、胸が強く鳴った。
(……あれは)
何だったのだろう。
言葉の意味は、分かる。
けれど。
その重さが、うまく掴めない。
(申し込み……)
婚約。
つまり――
そこまで考えて、思考が止まる。
頬が、わずかに熱を帯びる。
「……いけませんね」
小さく呟く。
こんなことで、手を止めてはいけない。
リディアは深く息を吸い、気持ちを整える。
目の前の料理へ意識を戻す。
だが――
指先に、かすかな感覚が残っていた。
(……あの時)
手首に触れた、温もり。
離れない。
振り払おうとしても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
「リディア様?」
再び声がかかる。
リディアははっとして顔を上げた。
「はい、大丈夫です」
微笑む。
今度は、きちんと。
そして、鍋へと向き直った。
湯気が立ち上る。
香りが広がる。
いつものように。
いつものはずなのに――
胸の奥のざわめきだけが、静かに残り続けていた。
その頃。
王宮の廊下を、一人の青年が歩いていた。
カイル・フォン・ヴァルディーク。
その表情は、いつもと変わらない。
静かで、落ち着いている。
だが――
その瞳だけが、違っていた。
「……王弟殿下」
小さく呟く。
先ほどの光景が、脳裏に焼き付いている。
リディアの手を取る姿。
自然な距離。
揺るがない余裕。
奥歯を、わずかに噛み締める。
「……分かっています」
低く、抑えた声。
相手が誰かなど、最初から分かっている。
だからこそ――
一歩、踏み出したのだ。
足を止める。
窓の外に目を向ける。
王宮の庭が、静かに広がっている。
「ですが」
その声は、静かだった。
だが――
はっきりと熱を帯びていた。
「譲るつもりはありません」
誰に聞かせるでもない言葉。
それでも確かに。
決意として、形を成していた。
カイルはゆっくりと歩き出す。
その足取りに、もう迷いはない。
静かに。
だが確実に――
何かが動き始めていた。




