第六話 踏み込む一歩
王宮の廊下は、昼の光に静かに満ちていた。
その中を、一人の青年が歩いている。
カイル・フォン・ヴァルディーク。
その足取りは、普段と変わらず落ち着いている。
だが――
その歩みには、迷いがなかった。
王宮の奥。
厨房へと続く扉の前で、足を止める。
軽く扉を叩く。
「失礼する」
中から、慌ただしい気配が伝わる。
扉が開き、料理人の一人が顔を出した。
「カイル様……?」
驚いた声だった。
カイルは軽く頷く。
「リディア嬢はいるか」
その問いに、料理人は一瞬きょとんとした後、慌てて振り返る。
「リディア様! カイル様が――」
その声に、奥から足音が近づいてきた。
やがて姿を現したのは、リディアだった。
白いエプロン姿。
銀の髪をまとめ、少しだけ頬に熱を帯びている。
その姿に、カイルはほんの一瞬だけ目を細めた。
「カイル様?」
リディアは驚いたように瞬きをする。
「どうかなさいましたか」
カイルは数歩だけ近づく。
厨房の喧騒の中で、二人の間だけが静かになる。
「少し、時間をいただけますか」
落ち着いた声だった。
だが、その奥にあるものは――
いつもとは違っていた。
リディアは一瞬だけ迷う。
だが、すぐに頷いた。
「はい」
二人は厨房を離れ、廊下へ出る。
人目の少ない場所まで歩いたところで、カイルは足を止めた。
静かな空間。
窓から差し込む光が、柔らかく二人を照らしている。
カイルはリディアを見た。
真っ直ぐに。
逃がさないように。
「……聞きました」
低く、静かな声。
「王宮顧問の件です」
リディアは少し驚いたように目を瞬かせる。
「もう、広まっているのですね」
小さく微笑む。
だがカイルは、その表情を見つめたまま動かない。
「ええ」
短く答える。
そして――
一歩、距離を詰めた。
リディアの呼吸が、わずかに揺れる。
「それに伴って」
続ける。
「婚約の話も」
その言葉に、リディアの瞳がわずかに見開かれた。
「……え?」
初めて、明確な動揺が浮かぶ。
カイルはその変化を逃さなかった。
「王弟殿下の名が出ているそうです」
静かに告げる。
逃げ場を与えない言葉だった。
リディアは言葉を失う。
そんな話は――聞いていない。
だが。
あり得ないとも言い切れない。
王宮顧問。
王家との距離。
すべてが繋がる。
「私は――」
言いかけて、止まる。
何を言えばいいのか分からない。
その一瞬。
カイルが、さらに一歩踏み込んだ。
距離が近い。
思わず息を呑むほどに。
「どう思っていますか」
低い声だった。
だが、その中にははっきりとした意思がある。
問いではない。
確かめるための言葉。
リディアは目を逸らせない。
真っ直ぐな視線に捕らえられる。
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
「……分かりません」
正直な答えだった。
偽れない。
「そのようなお話になるとは、思ってもいませんでした」
カイルはその言葉を静かに受け止める。
そして――
わずかに目を細めた。
「そうですか」
短く呟く。
だが、その声には、かすかな安堵が滲んでいた。
次の瞬間。
カイルの手が、そっとリディアの手首に触れた。
驚くほど自然に。
だが確かに――
逃がさない意思を持って。
リディアの息が止まる。
「カイル様……?」
その声は、わずかに震えていた。
カイルは静かに言う。
「では――」
一拍置く。
その瞳が、まっすぐにリディアを捉える。
「私が先に、申し込みます」
その言葉は――
宣言だった。
廊下に、静寂が落ちる。
リディアは目を見開いたまま、言葉を失う。
心臓が、大きく鳴る。
逃げ場はない。
その視線も、その言葉も――
すべてが真っ直ぐに届いていた。
カイルは手を離さない。
ただ静かに、リディアを見つめている。
その瞳には、もう迷いはなかった。




