第九話 嵐のあと
王宮の夜は、静かだった。
昼間の騒ぎが嘘のように、廊下には穏やかな灯りだけが落ちている。
遠くで衛兵の足音が響き、やがて消えていく。
その奥の部屋で――
リディアは窓辺に立っていた。
夜風が、銀の髪を静かに揺らしている。
王宮の庭は暗く、噴水の水音だけが聞こえていた。
「まだ起きていたんですか」
背後から、低い声がした。
振り向くと、カイルが立っている。
いつもの落ち着いた表情だった。
リディアは少し微笑む。
「少しだけ、考え事を」
カイルは窓の外を見た。
「無理はしないでください」
静かな声だった。
「今日は色々ありすぎました」
リディアは小さく頷く。
確かにそうだった。
誘拐。
救出。
そして、ダグラス侯爵家の断罪。
一日の出来事とは思えない。
だが――
それ以上に、胸の奥に残っているものがあった。
「……変な感じなんです」
リディアはぽつりと言った。
カイルが視線を向ける。
「変?」
リディアはゆっくりと頷いた。
「誘拐された時」
窓の外を見ながら続ける。
「薬の匂いがしました」
カイルの目がわずかに細くなる。
「薬?」
リディアは小さく息を吐いた。
「その時、少しだけ」
「見えたんです」
白い光景。
長い廊下。
消毒薬の匂い。
慌ただしく行き交う人影。
「誰かが言っていました」
リディアは目を閉じる。
「栄養管理を急いでください、って」
カイルは黙って聞いていた。
リディアは首を振る。
「でも、それが誰なのか」
「どこなのか」
「思い出せないんです」
ただ一つだけ。
胸に残っている感覚がある。
「必死だった」
小さく呟く。
「誰かを助けようとして」
「ずっと働いていた気がするんです」
カイルはしばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「前世の記憶かもしれませんね」
リディアは少し驚いたように目を瞬かせた。
カイルは肩をすくめる。
「この世界では珍しくありません」
「強い衝撃で思い出すこともある」
リディアは窓の外を見る。
夜の庭は、静かだった。
「……不思議です」
ぽつりと言う。
「怖いはずなのに」
「少しだけ、懐かしい」
カイルはリディアを見た。
そして、静かに言った。
「それが何であっても」
ほんのわずかに、声が柔らかくなる。
「あなたは、あなたです」
リディアはその言葉に目を瞬かせた。
そして、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
その時だった。
廊下の向こうから、侍女の声が聞こえた。
「リディア様」
扉の外から、静かな声がする。
「王女殿下がお呼びです」
リディアとカイルは顔を見合わせた。
嵐は終わった。
だが――
王宮の夜は、まだ静かに続いている。




