第九話 侯爵家別邸
重い扉の向こうで、リディアはゆっくりと意識を取り戻した。
頭が重い。
鼻の奥に残る、鋭い匂い。
(……この匂い)
消毒薬。
その瞬間、白い光景が頭の奥に浮かんだ。
白い廊下。
忙しく行き交う人影。
「栄養管理を急いでください」
誰かの声。
必死で働いていた。
誰かの命を守るために。
(……私は)
だが、その先は思い出せない。
意識が現実に戻る。
体が動かない。
拘束魔法。
淡い光の輪が腕と足を縛っていた。
リディアはゆっくり周囲を見る。
見知らぬ部屋。
重いカーテン。
豪奢な家具。
そして――
「目が覚めたか」
軽い声がした。
ルーカス・フォン・ダグラス。
その隣には、イザベラが立っている。
「お久しぶりですわね」
イザベラは楽しそうに笑った。
リディアは静かに二人を見た。
「これは、どういうことでしょうか」
落ち着いた声だった。
ルーカスは肩をすくめる。
「簡単な話だ」
「君には、ここで少し過ごしてもらう」
その言葉に、リディアは目を細める。
「……誘拐ですか」
ルーカスは笑った。
「言葉が強いな」
「だが、結果は同じだ」
イザベラが口元を歪める。
「王女の侍女だなんて」
「身の程知らずにもほどがありますわ」
その時――
遠くで音がした。
扉の外。
誰かが走る音。
ルーカスの表情が変わる。
「……何だ?」
次の瞬間。
扉が破られた。
冷気が室内へ流れ込む。
床が白く凍りつく。
氷の魔力。
騎士たちが一斉に部屋へ踏み込んだ。
その先に――
カイルがいた。
黒い瞳が部屋を見渡す。
そしてすぐに、床に倒れている少女を見つけた。
銀の髪。
拘束魔法に縛られている。
リディアだった。
その瞬間。
空気が凍る。
壁際の窓が、ぱきりと音を立てて白く凍りついた。
誰も言葉を発しない。
カイルはゆっくり歩いた。
ただまっすぐに。
リディアの前まで。
そして膝をつく。
拘束魔法を砕く。
氷が触れた瞬間、魔法が砕け散った。
カイルは何も言わない。
ただ静かに――
リディアを抱き上げた。
その腕の中で、銀の髪が揺れる。
その瞬間。
床を走っていた氷が、一気に広がった。
部屋の温度が下がる。
騎士たちが息を呑む。
その時だった。
窓が砕ける。
「ルーカス様!」
外へ飛び降りる影。
ルーカスだった。
「追え!」
騎士が叫ぶ。
数人が窓から飛び出した。
だが――
部屋には、もう一人残っていた。
イザベラだった。
顔を青くして立ち尽くしている。
騎士が剣を向けた。
「動くな」
イザベラは言葉を失う。
カイルは振り向かない。
腕の中の少女を見下ろす。
そして、低く言った。
「……帰る」
それだけだった。




