第五話 戻らない侍女
王宮の厨房には、いつもの香りが満ちていた。
煮込みの湯気。
焼き上がったパンの香ばしさ。
だが、その中で一人だけ眉をひそめている男がいた。
副料理長セドリックである。
「……遅いな」
小さく呟いた。
隣で野菜を刻んでいた料理人が顔を上げる。
「何がです?」
セドリックは鍋を見た。
火は弱く落とされている。
香草の準備も途中だ。
「リディア様だ」
その言葉に、周囲の料理人たちが顔を見合わせる。
「さっき客が来たとか言って出て行っただろ」
「もう随分経つ」
料理人の一人が言う。
「庭じゃないですか?」
「すぐ戻るでしょう」
だがセドリックは首を振った。
「……いや」
鍋を見つめながら言う。
「リディア様が料理を途中で放って戻らないなんて」
静かな声だった。
「ありえない」
厨房の空気が、わずかに変わる。
その時だった。
一人の侍女が通りかかった。
セドリックが声をかける。
「リディア様を見なかったか」
侍女は首を傾げた。
「いえ……」
「庭に向かわれたのは見ましたが」
「そのあと戻られていません」
セドリックの表情が変わる。
「……外門か」
小さく呟く。
そして振り向いた。
「王女殿下に報告する」
周囲がざわめいた。
「そこまでですか?」
セドリックは短く答える。
「念のためだ」
だが、その目は真剣だった。
「嫌な予感がする」
王宮の厨房。
その小さな違和感が――
やがて王宮を揺るがす騒ぎの始まりになるとは、
まだ誰も知らなかった。




