第六話 侯爵家の嫡男
王弟が去ったあと。
廊下には、再び静けさが戻っていた。
リディアは小さく息を吐き、歩き出そうとする。
その時だった。
「……なるほど」
低く、どこか楽しそうな声が聞こえた。
リディアは足を止める。
廊下の柱の影から、一人の男が姿を現した。
明るい金の髪。
整った顔立ち。
だが、その笑みにはどこか軽薄な色があった。
ルーカス・フォン・ダグラス。
ダグラス侯爵家の嫡男である。
「妹から話は聞いていたが」
ゆっくり歩み寄りながら言う。
「なるほど、確かに面白そうな侍女だ」
リディアは静かに一礼した。
「リディア・フォン・アルヴェルンと申します」
ルーカスは答えず、じっとリディアを見た。
その視線は、どこか値踏みするようだった。
「アルヴェルン伯爵家か」
「侍女にしておくには、少し惜しいな」
そう言って、ふと廊下の花瓶に目を向ける。
一輪の花を抜き取り、くるりと指で回した。
そして、その花をリディアへ差し出す。
「よければ、もらってくれないか?」
軽い笑顔。
その仕草は慣れていた。
まるで、何人もの女性に同じことをしてきたかのような自然さだった。
その瞬間――
ぞくり、と背筋が冷えた。
(……危ない)
理由は分からない。
だが、胸の奥で何かが警鐘を鳴らす。
まるで――
こういう男を、昔から知っているかのような感覚。
甘い言葉。
軽い笑顔。
そして、その奥にある欲。
リディアは静かに一歩下がった。
「申し訳ございません」
穏やかな声で言う。
「そのようなものを頂く理由がございませんので」
ルーカスは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。
そして、くくっと小さく笑う。
「面白い」
花をくるりと指で回す。
「普通の侍女なら、喜んで受け取るところだ」
その視線が、わずかに鋭くなる。
「君は違うらしい」
リディアは何も答えない。
ルーカスは肩をすくめた。
「まあいい」
そう言って、花を廊下の花瓶へ戻す。
「だが覚えておくといい」
その声が、わずかに低くなる。
「王宮で噂になるということは――」
「それだけ、目立つということだ」
一歩近づき、囁くように言った。
「そして、目立つ者には」
「必ず欲しがる者が現れる」
ルーカスは再び笑う。
「例えば、俺のように」
その言葉を残し、軽く手を振った。
「では、また会おう」
そう言って、廊下の奥へと去っていく。
足音が遠ざかる。
リディアはしばらく動かなかった。
胸の奥に、まだ小さな違和感が残っている。
(……今の人は)
うまく言葉にできない。
けれど――
本能が告げていた。
(関わってはいけない)
リディアは静かに息を吐き、歩き出した。
その背後で。
廊下の角に立つ一人の青年が、すべてを見ていた。
カイル・フォン・ヴァルディークだった。
彼はゆっくりと視線を細める。
「……ルーカス・ダグラス」
小さく呟く。
ダグラス侯爵家の嫡男。
社交界でも有名な遊び人だ。
そして――
厄介な男でもある。
カイルは、リディアが去っていった廊下を見つめた。
「面倒な男に目を付けられたな」
静かな声。
だが、その言葉にはわずかな苛立ちが混じっていた。




