第三話 逃走
心臓の鼓動が早まるのを悟られぬよう、私はあえてゆっくりとワインを口に含んだ。
男の袖口を見る。
確かに、金糸の刺繍の端が不自然に千切れ、そこにあるべき銀の金具が消えていた。
スラムの石畳に落ちていた、あの破片の持ち主だ。
「……2万メール、ですか。提示額としては申し分ない。だが、俺の耳は少しばかり敏感でしてね。真実というやつは、一度耳に入ると、金貨をいくら詰め込んでも消えてくれないんだ」
男の目が細められた。
左顔の傷跡が引き攣るように動く。
「……ほう。それは、この食事を完食する気がないという意味か?」
空気が凍りつく。
男の背後に控える護衛たちが、懐に手を入れた。
一触即発。
その時、私の背後に立っていた秘書が、音もなく一歩前へ出た。
彼女の手には、いつの間にか小さな銀のトレイが握られている。
「大佐、失礼いたします。このお店のワインは少々温度が高いようです。……それと、お召し物が少しばかり乱れておいでです。飾緒の金具が一つ、どこかで落とされたようですね」
彼女の冷徹な声が響いた。
直後、大佐と呼ばれた男の顔から余裕が消えた。
「……貴様、どこでそれを」
「さぁ、どこでしょう。スラムの泥の中か、あるいは総裁の遺体の傍らか」
私が言い切るのと同時に、男がテーブルを叩いて立ち上がった。
「やれ!」
男の号令とともに、護衛たちが銃を抜く。
だが、それよりも早く、秘書のトレイが空を舞った。
驚くべき正確さで放たれたトレイは、シャンデリアの支柱を直撃する。
ガシャン、という轟音と共に広間が暗転した。
「所長、こちらです!」
闇の中で彼女が私の腕を掴む。
迷いのない足取り。
彼女はこの迷宮のようなレストランの構造を、最初から把握していたのか。
背後で銃声が響くが、私たちは厨房の裏口を抜け、冷たい夜の空気の中へ飛び出した。
止めてあった馬車を奪い、闇雲に走らせる。
御者台を握るのは秘書だ。
「君、あの大佐の階級をなぜ知っていた?
それにあの動き……ただの秘書じゃないな」
荒い呼吸を整えながら問いかけると、彼女は手綱を捌きながら、バックミラー越しに私と目を合わせた。
「……申し上げたはずです。あなたが有名になりすぎたせいだと」
彼女は淡々と続けた。
「『あちら側』が動き出した以上、私はあなたを守らなければなりません。……国立銀行の元・特殊監査官として。そして、殺された総裁の最後の教え子として」
馬車は夜霧の中へ消えていく。
1万メールの依頼は、いつの間にか「国家そのもの」を敵に回す逃亡劇へと変わっていた。




