新しい王太子
リリム・フネラルは不幸な少女だったが、彼女の母親もまた不幸な女性だった。
美人だが控えめで大人しい、物静かな令嬢。そんな彼女が公爵家に嫁ぐことは本来、喜ばしいことであるはずあった。だが――相手がフネラル公爵という、悪魔のような人間であったことからリリムの母の不幸は始まる。
後に夫となった彼は、婚約者であった時から彼女をモノのように扱っていた。時に言葉で、時に暴力で。リリムの母親はありとあらゆる方法によって傷つけられた。心と体を擦り減らし、その果てに望まぬ妊娠を強いられ半ば強制的に結婚することになっても……彼女は耐え続けた。
だが生まれた我が子――リリムへの愛情だけは、本物だった。
地獄のような状況で産んだ娘、この世で最も憎むべき相手の血を引いた子。だが、同時に血を分けた最愛の家族でもある……そんな娘に、リリムの母親は最大限の愛情を注いだ。この子を守り、共にこの状況を生き抜いていこうと。悲惨な状況に立ち向かい、支え合って生きていけるように育てようと……しかしそれも長くは続かなかった。
公爵夫人という立場を得たにも関わらず、続く奴隷のような待遇。不自然なほど弱っていく体と、愛人らしき女の存在。自分がその命すら奪われようとしている、と気がついた頃にはもう大好きだった海藻のスープが喉を通らなくなっていた。お気に入りだった別荘にある薔薇の庭園を、幼いリリムと歩くこともできなくなった母親は嘆く。
本当ならリリムに、人並みの幸せを与えてやりたかった。子犬のように外を駆けまわり、大きく口を開けて笑うこと。貴族令嬢としての教育を施され、そういった行為が「はしたない」と知り少しずつ正していくこと。学園で友人たちと他愛のない話で盛り上がり、こっそりと学園を抜け出して街へと遊びに行くこと。美男子でなくとも穏やかな婚約者と結婚し、幸せな家庭を築くこと。――だが「フネラル公爵令嬢」として生まれたリリムに、そんな穏やかな未来はやってこないだろうということもよくわかっていた。
自分がいなくなった後、たった一人でフネラル公爵家に取り残されるリリム。その未来を想像すれば、胸が張り裂けそうな思いだった。漆黒の中に混じる、深緑色の髪を撫でながらリリムの母親は願う。
「リリム、せめてあなただけは幸せになりなさい。公爵令嬢としてその名に恥じない振る舞いをし、フネラル公爵家の品格を守ること。王家に輿入れしたならば立派に『王妃』としての役目を全うし、臣下と国民に愛されるような存在となること。踊りの才能を発揮して国一番の踊り子になるのも、今まで挑戦したことのない仕事に挑戦するのも、何だっていい。だからあなたは笑顔で、人生を楽しめるように努力なさい」
それが、母親である私の唯一の望みよ。
そう語り掛ける、リリムの母の手はか細くなっていたが――我が子の幸せを願う祈りの強さが、確かに宿っていた。
◇
「『私はそんな母の望みを、何一つ叶えられなかった』か……」
この国の王子――新しく王太子となった彼は、そう呟き溜め息をつく。彼が口にしたのは、死した令嬢リリム・フネラルが遺した手紙の一節だった。公爵家から命からがら逃げだしてきたという、貧しい少女。彼女が持ち込んだそれを思い起こしながら、王太子は今の状況について振り返る。
優秀な兄二人の後に生まれた三男坊。玉座とは無縁、なれるとしたらせいぜい王の代理か補佐役程度だろう。気楽な立場に生まれたものだ、と考えていた彼に舞い込んできた養子の話。なぜ自分が、というのが最初の正直な感想だった。
リリムたちのいる国が大変な状況にあることは風の噂で知っている。城内で女性への暴行事件があった、騎士の一人が隣国の王女に斬りかかろうとして危うく戦争になるところだった。王太子が妙な「病気」に罹患した……そんな話題の後に王家へ迎え入れられるというのだから、彼が警戒するのも無理はない。王位を餌に厄介事を押し付けるつもりだ、と考えていたが――問題の王国に辿り着くと、その考え方も徐々に変わっていった。
自殺したはずの公爵令嬢が何度も舞い戻ってくる。そんな馬鹿げた話を信じた者たちのとんでもない凶行。北の療養所に送られたはいいが、その療養先で事故死することになってしまった元王太子。全ては呪いのせいだ、と騒ぐ者もいたが……新たな王太子となった彼が感じたのは、「なぜ彼らはリリムをそんなに恐れていたのだろう」という疑問だった。
ダンスが上手い。尋常ではないほど美しい。髪の一部分が深緑色に染まっている。だが――「それだけ」だ。元王太子と恋仲にあった平民の少女を妬んだという話もあるが、婚約者に近づく異性を快く思う女性は存在しないだろう。公爵令嬢としてのリリム・フネラルは何の問題もなかった。何かにつけて虐げられる理由も、自死に追い込まれる必要もどこにもなかった。それでも彼女を傷つけ、苦しめた負い目があったから「呪われた」と感じるようになったのだ……そう結論付けたところで新しい王太子は、リリム・フネラルを取り巻く人間たちに思いを馳せる。
別に、正面からリリムを庇わなくたっていい。ただ誰か一人でも、彼女の敵にならなければ良かったのだ。
平民の少女は学生として、王子にも公爵令嬢にも関わらず平凡に暮らしていれば良かった。
文官は政治を行う手助けを行えば、良き理解者として互いに信頼し合える仲になっただろう。騎士は護衛として、「未来の王太子妃を守る」という体で彼女を危険から遠ざけることができた。元王太子は婚約者としてリリムと接する機会が頻繁にあったし、その中で何をせずとも妃として彼女を迎え入れ公爵家から救い出すことはできたはずだ。
そして、公爵家にまともな人間がいたならば……リリムが不当な扱いを受けているのを、黙っていることなどなかった。義弟が取り巻きと一緒になって彼女を傷つけることなど、するはずがなかった。そもそも、歳が近すぎる義弟も継母も存在せず、優しい実母と一緒に暮らせていたかもしれない。そうすればリリムは「普通」の公爵令嬢になれただろう――だが、そうはならなかった。全ては最悪の状況に形作り、運命の歯車は全てリリムを追い込む方に回ってしまった。だからリリムは、「ただの公爵令嬢」ではなく「不幸な少女」にならざるをえなくなったのだ。
不幸な公爵令嬢リリム・フネラル、しかし彼女をそこまで追いやった者たちはもういない。いや、正確には公爵家の人間が残ってはいるが……今の彼らは到底、「生きている」とは言えない状況だった。




