↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一万三千円のスマホが俺のチートだった ~死んだ俺は十年前に戻され、最初に百円の充電ケーブルを買った~  作者: 蔵人
第一部 八千円から百万円

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/42

原価という言葉

 食堂やまねに客として入ったことはほとんどなかった。母の職場だからだ。子どもが親の職場に座っているのはみっともないことだと、母はたぶん思っている。


 その日、俺は初めて、客ではないかたちでカウンターに座った。六月の水曜、三時。ランチが終わって、夜の仕込みが始まる前の二時間だけ店が止まる時間だった。


 厨房の奥で換気扇だけが回っていた。


   ※


「直してもらいたいのはね、これなのよ」


 房子さんが指したのは、レジの横の埃をかぶったノートパソコンだった。十年前に来なくなった甥っ子が置いていったものらしい。


 俺はそれを三十分で立ち上げた。中に入っていたのは、使われた形跡のない会計ソフトと、三年前で止まっている在庫表だけだった。


「使ってないんですね」


「わたしらには無理だもの」


 山根さんが厨房から出てきて笑った。六十五歳。この店を三十四年やっている人だ。手の甲に古い火傷の痕がいくつもある。


「紙でやってるからね。これで困ったこともないし」


 カウンターの端に伝票の束が積んであった。手書きの日付だけ入ったやつだ。輪ゴムでまとめて、月ごとに箱に入れてある。


 俺はそれを見せてもらえませんか、と言った。


   ※


 その夜俺は伝票をノートに書き写した。三か月分。1,200枚。


 やったのは、写すことだけだ。ノアに打ち込んで、待つ。定休日ではないので、押し入れの二台で回した。ひと晩かかった。保冷剤を三回入れ替えて三時に一度起きた。


 朝押し入れを開けたら、画面が埋まっていた。


『仕入れ単価が同種の店の相場より平均で2割高い。理由は、取引先が30年変わっていないことです』


『看板メニューの粗利が店内で下から2番目です。安く出しているからではなく、材料に手をかけすぎているからです』


『昼の回転が悪いのは、席数の問題ではありません。注文の入った順に作り、作った順に出しているためです。調理時間の違うものが同じ卓に来るのを待って、席が空きません』


 俺は三つ目を二回読んだ。


 母は毎日あの店で皿を運んでいる。母はきっと、この三つ目を体で知っている。知っていて、言葉にできないだけだ。言葉にできないことは、無いのと同じに扱われる。この十何年、母の側にはずっとそれがあった。


   ※


 問題はどう伝えるかだった。


 仕入れ先を変えろ、とは言えない。三十年の付き合いだ。値上げしろ、とも言えない。山根さんは値上げを「お客さんに悪いこと」だと思っている。それは経営の下手さではなく、この人の考え方そのものだ。考え方を変えろと言うのは、直すのとは違う。


『提案は二つに絞ってください。値段に触れないもの、人に触れないものです』


 一つ。メニュー表の並べ替え。粗利の高いものを上と右に置く。写真を一枚だけ、いちばん粗利の高い定食につける。何も値上げしない。何も減らさない。


 二つ。仕込みと配膳の順番。同じ卓の注文は、調理時間の長いものから先に手をつける。出来上がりを揃える。


 紙一枚にそれだけ書いて持っていった。ボールペンではなく鉛筆で書いたのは、大杉さんに言われたことを覚えていたからだ。


 山根さんは老眼鏡をかけて長いあいだそれを見ていた。それから「並べ替えるだけかい」と言った。


「並べ替えるだけです」


「やってみるか」


 その一言が出るまでに、たぶん、母がこの店で働いた十何年ぶんの信用が使われている。俺は自分の手柄だとは思わなかった。


   ※


 一週間後の水曜、三時。


 房子さんがレジの引き出しから紙を出してきた。手書きの日ごとの売上のメモだ。


「先週とね、金曜と土曜が」


 そこまで言って、房子さんは口を押さえた。


 泣くと思っていなかったので、俺は何もできなかった。ただカウンターの木目を見ていた。三十四年ぶん、布巾で拭かれた木目だった。


「ごめんね。たいしたことじゃないのに」


「たいしたことです」


 俺がその日はっきり言えたのは、それだけだった。あとで何度も、もっと言えたはずだと思った。だが、あの場面であれ以上のことを言える十五歳は、たぶんいない。


   ※


 山根さんが封筒を出してきた。厚さで中身が分かる程度の封筒だった。


 俺は受け取らなかった。代わりにこう言った。


「定休日に、ここのパソコンとインターネットを使わせてもらえませんか」


 山根さんは封筒を持ったまま二秒ほど止まった。それから「そんなのでいいのかい」と言って、笑って、封筒を引っ込めた。


 俺の押し入れの二台は、外につながっていない。図書館とファストフード店をさまよって、細切れの時間で調べものをしていた。週に一日、朝から晩まで、つながった回線とそこそこのパソコンが使える。それがどれだけのことか、山根さんには最後まで分からなかったと思う。


 金を受け取らなかったのは、計算だった。金は一度きりで終わる。場所は毎週来る理由になる。


 そう考えている自分に、俺はこのとき、少しも引っかからなかった。


   ※


 並べ替えたメニュー表は大杉印刷で刷ってもらった。


 大杉さんは七十歳で、店の奥にまだ活版の機械が置いてある。もう使っていない。仕事は、町内会の回覧と、こういう小さな刷り物だけだ。


「二十枚? そんなの、実費でいいよ」


 そう言って、大杉さんは紙代だけ取った。1,080円だった。


 刷り上がりを見て、俺は自分の並べ方の失敗に気づいた。画面で見ていたときは分かりやすかった配置が、紙にすると、いちばん上の行に目が行かない。


 大杉さんが横から言った。


「上じゃないよ。人が最初に見るのは、右の上と、真ん中のちょっと上」


 刷り直しは四百円だった。四百円で、俺は画面と紙が違うものだということを覚えた。


   ※


 実行した日の夜、俺は店に残って、母が上がるのを待った。


 母は俺が待っていたことに驚いていた。帰り道、二人で坂を上がった。母は自転車を押して、俺はその半歩後ろを歩いた。


「メニュー、変わったね」


「うん」


「房子さん、あれ、拓実がやったって」


「うん」


 それ以上、母は何も言わなかった。坂の途中で一度止まって、息を整えて、また押しはじめた。


 その背中を見ながら、俺は、この人が毎日この坂を上がっていることを、初めて自分の体で知った。


   ※


 帰りぎわカウンターのいちばん端の席に、作業着の男が座っていた。


 ランチの時間はとうに終わっている。灰皿の横で、湯呑みを両手で持って、こっちを見ていた。


 目が合ったが、その人は何も言わなかった。


── STATUS ──────────────

早坂 拓実/15歳(高1)

資金   24,230円

演算力  0.006/100 ↑2倍

 ※週1日のみ(食堂定休日/回線あり)

動産   格安スマホ、ジャンクノートPC×2

     精密ドライバーセット

────────────────────────


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。