原価という言葉
食堂やまねに客として入ったことはほとんどなかった。母の職場だからだ。子どもが親の職場に座っているのはみっともないことだと、母はたぶん思っている。
その日、俺は初めて、客ではないかたちでカウンターに座った。六月の水曜、三時。ランチが終わって、夜の仕込みが始まる前の二時間だけ店が止まる時間だった。
厨房の奥で換気扇だけが回っていた。
※
「直してもらいたいのはね、これなのよ」
房子さんが指したのは、レジの横の埃をかぶったノートパソコンだった。十年前に来なくなった甥っ子が置いていったものらしい。
俺はそれを三十分で立ち上げた。中に入っていたのは、使われた形跡のない会計ソフトと、三年前で止まっている在庫表だけだった。
「使ってないんですね」
「わたしらには無理だもの」
山根さんが厨房から出てきて笑った。六十五歳。この店を三十四年やっている人だ。手の甲に古い火傷の痕がいくつもある。
「紙でやってるからね。これで困ったこともないし」
カウンターの端に伝票の束が積んであった。手書きの日付だけ入ったやつだ。輪ゴムでまとめて、月ごとに箱に入れてある。
俺はそれを見せてもらえませんか、と言った。
※
その夜俺は伝票をノートに書き写した。三か月分。1,200枚。
やったのは、写すことだけだ。ノアに打ち込んで、待つ。定休日ではないので、押し入れの二台で回した。ひと晩かかった。保冷剤を三回入れ替えて三時に一度起きた。
朝押し入れを開けたら、画面が埋まっていた。
『仕入れ単価が同種の店の相場より平均で2割高い。理由は、取引先が30年変わっていないことです』
『看板メニューの粗利が店内で下から2番目です。安く出しているからではなく、材料に手をかけすぎているからです』
『昼の回転が悪いのは、席数の問題ではありません。注文の入った順に作り、作った順に出しているためです。調理時間の違うものが同じ卓に来るのを待って、席が空きません』
俺は三つ目を二回読んだ。
母は毎日あの店で皿を運んでいる。母はきっと、この三つ目を体で知っている。知っていて、言葉にできないだけだ。言葉にできないことは、無いのと同じに扱われる。この十何年、母の側にはずっとそれがあった。
※
問題はどう伝えるかだった。
仕入れ先を変えろ、とは言えない。三十年の付き合いだ。値上げしろ、とも言えない。山根さんは値上げを「お客さんに悪いこと」だと思っている。それは経営の下手さではなく、この人の考え方そのものだ。考え方を変えろと言うのは、直すのとは違う。
『提案は二つに絞ってください。値段に触れないもの、人に触れないものです』
一つ。メニュー表の並べ替え。粗利の高いものを上と右に置く。写真を一枚だけ、いちばん粗利の高い定食につける。何も値上げしない。何も減らさない。
二つ。仕込みと配膳の順番。同じ卓の注文は、調理時間の長いものから先に手をつける。出来上がりを揃える。
紙一枚にそれだけ書いて持っていった。ボールペンではなく鉛筆で書いたのは、大杉さんに言われたことを覚えていたからだ。
山根さんは老眼鏡をかけて長いあいだそれを見ていた。それから「並べ替えるだけかい」と言った。
「並べ替えるだけです」
「やってみるか」
その一言が出るまでに、たぶん、母がこの店で働いた十何年ぶんの信用が使われている。俺は自分の手柄だとは思わなかった。
※
一週間後の水曜、三時。
房子さんがレジの引き出しから紙を出してきた。手書きの日ごとの売上のメモだ。
「先週とね、金曜と土曜が」
そこまで言って、房子さんは口を押さえた。
泣くと思っていなかったので、俺は何もできなかった。ただカウンターの木目を見ていた。三十四年ぶん、布巾で拭かれた木目だった。
「ごめんね。たいしたことじゃないのに」
「たいしたことです」
俺がその日はっきり言えたのは、それだけだった。あとで何度も、もっと言えたはずだと思った。だが、あの場面であれ以上のことを言える十五歳は、たぶんいない。
※
山根さんが封筒を出してきた。厚さで中身が分かる程度の封筒だった。
俺は受け取らなかった。代わりにこう言った。
「定休日に、ここのパソコンとインターネットを使わせてもらえませんか」
山根さんは封筒を持ったまま二秒ほど止まった。それから「そんなのでいいのかい」と言って、笑って、封筒を引っ込めた。
俺の押し入れの二台は、外につながっていない。図書館とファストフード店をさまよって、細切れの時間で調べものをしていた。週に一日、朝から晩まで、つながった回線とそこそこのパソコンが使える。それがどれだけのことか、山根さんには最後まで分からなかったと思う。
金を受け取らなかったのは、計算だった。金は一度きりで終わる。場所は毎週来る理由になる。
そう考えている自分に、俺はこのとき、少しも引っかからなかった。
※
並べ替えたメニュー表は大杉印刷で刷ってもらった。
大杉さんは七十歳で、店の奥にまだ活版の機械が置いてある。もう使っていない。仕事は、町内会の回覧と、こういう小さな刷り物だけだ。
「二十枚? そんなの、実費でいいよ」
そう言って、大杉さんは紙代だけ取った。1,080円だった。
刷り上がりを見て、俺は自分の並べ方の失敗に気づいた。画面で見ていたときは分かりやすかった配置が、紙にすると、いちばん上の行に目が行かない。
大杉さんが横から言った。
「上じゃないよ。人が最初に見るのは、右の上と、真ん中のちょっと上」
刷り直しは四百円だった。四百円で、俺は画面と紙が違うものだということを覚えた。
※
実行した日の夜、俺は店に残って、母が上がるのを待った。
母は俺が待っていたことに驚いていた。帰り道、二人で坂を上がった。母は自転車を押して、俺はその半歩後ろを歩いた。
「メニュー、変わったね」
「うん」
「房子さん、あれ、拓実がやったって」
「うん」
それ以上、母は何も言わなかった。坂の途中で一度止まって、息を整えて、また押しはじめた。
その背中を見ながら、俺は、この人が毎日この坂を上がっていることを、初めて自分の体で知った。
※
帰りぎわカウンターのいちばん端の席に、作業着の男が座っていた。
ランチの時間はとうに終わっている。灰皿の横で、湯呑みを両手で持って、こっちを見ていた。
目が合ったが、その人は何も言わなかった。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/15歳(高1)
資金 24,230円
演算力 0.006/100 ↑2倍
※週1日のみ(食堂定休日/回線あり)
動産 格安スマホ、ジャンクノートPC×2
精密ドライバーセット
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