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一万三千円のスマホが俺のチートだった ~死んだ俺は十年前に戻され、最初に百円の充電ケーブルを買った~  作者: 蔵人
第一部 八千円から百万円

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うちのもやってくれ

 その男が口をきいたのは、次の水曜だった。俺がカウンターの端で借りたパソコンの前に座っていたときだ。定休日ではないから店は開いている。だが三時台は客がひとりもいない。


 ひとりだけ、いた。


「おい」


 声が低くて、最初は自分に向けられたものだと思わなかった。二度目で振り向いた。


「あんた、先週、紙一枚持ってきたろう」


 作業着の胸に刺繍で社名が入っていた。畑中建設。五十代の後半くらい。日に焼けていて、指が太くて、爪が全部短い。


「見てたんだよ、ここで。房子さんが泣いてるとこも」


 俺は何と答えていいか分からなかった。見られていたことより、見ていた人間がいたことのほうに驚いていた。


「うちのもやってくれ」


   ※


 厨房から母が出てきたのは、その直後だった。


 母は俺を見て、それから親方を見て、それからまた俺を見た。持っていた布巾を、エプロンの前で握り直した。


「……うちの子が、何か」


「何かじゃねえよ。仕事の話だ」


 そして「はあ」と言った。


 そのあと母は頭を下げるべきかどうか、三秒くらい迷った。俺には分かった。母は息子が何をしているのかを知らない。知らないまま、迷惑をかけたのか、褒められているのかを判断しようとしている。


 結局母は浅く頭を下げた。どちらでも通じる角度だった。


 母がこういう角度を持っていることを、俺はそのとき初めて知った。三十年、駅前の十メートルで生きてきた人の角度だった。謝る角度と礼を言う角度のあいだに、こんなに細かい目盛りがあるということを、俺はそれまで一度も考えたことがなかった。


   ※


「畑中源治。工務店やってる」


 親方は名刺をくれた。俺は持っていないので、名前だけ言った。


「早坂拓実です」


「佳代ちゃんとこの子か。そりゃそうだわな」


 この通りでは、俺は「佳代ちゃんとこの子」だった。房子さんもそう言った。それが屋号みたいなものだということを、俺はだんだん理解しはじめていた。


 俺には信用がない。だがこの十メートルでは、俺は信用のある人の子どもだった。


「うちの何を、ですか」


「見積もりだ」


 親方は湯呑みを置いた。


「三十年、勘でやってきた。当たってるときもある。外れると死ぬ。去年、一件でだいぶやられた」


「勘だと、何が困るんですか」


 俺は本当に知りたくて訊いた。親方は少し意外そうな顔をした。値段の話が来ると思っていたのだと思う。


「若いのに教えられねえんだよ。俺の頭の中にしかねえから」


   ※


 親方はそのあと三十分喋った。


 喋ったのは、ほとんど仕事の話ではなかった。去年やられた一件のこと。職人の誰それが腰をやったこと。息子は継がないこと。継がないと言われたときに、ほっとした自分のこと。


 俺は湯呑みが空になるたびに、房子さんが黙って注ぎに来るのを見ていた。この店では注ぐタイミングが決まっている。三十四年で決まった速度だ。


「あんた、いくつだ」


「十五です」


「じゃあ、金の話は親御さんとするのか」


 そこで初めて俺は詰まった。


「……いえ、俺とで」


 親方は俺の顔を一秒見てそれから「そうか」とだけ言った。それ以上は訊かなかった。


 あとで思えば、あの一秒に、この人はいろいろなことを納めたのだと思う。母子家庭で、母親が皿を洗っていて、息子が一人で仕事を取りに来る。この十メートルでは、それだけの情報で足りる。


   ※


 その日の夜母が言った。


「畑中さん、ああいう人だから」


 それだけだった。どういう人なのかは言わない。


「悪い人じゃないよ」


「うん」


「……拓実」


 母はそこで、一度言葉を切った。俺は次に何が来るかを待った。訊かれるなら、いまだと思った。


「ごはん、おかわりいる?」


「いる」


 茶碗を受け取って母は台所に立った。


 訊かれなかった。訊かれなかったことに俺は少しだけ息をついて、それからその息のつき方を自分で嫌だと思った。


   ※


 事務所へ行くまでの一週間、俺は積算というものを調べた。


 食堂の定休日に借りたパソコンで一日中。五月に仕入れて売れ残った八冊のうち一冊が、たまたま建設の積算の本だった。売れなかった在庫が、ここで初めて役に立った。


 読んでも、半分も分からなかった。分からないまま、用語だけを覚えた。歩掛。実行予算。共通仮設費。


『内容を理解する必要はありません。相手が使っている言葉を、こちらが知っていることが重要です』


「分かってないのに使うのか」


『はい。あなたは15歳です。相手はあなたの能力を測れません。測れないとき、人は語彙で判断します』


 俺はその一行を嫌だと思った。


 嫌だと思いながら、俺は三十の用語を覚えて事務所に行った。そして実際、それは効いた。親方は二日目から、俺に説明を省くようになった。


 効いたから、俺はそれを嫌だと思ったことを忘れた。忘れていたことを思い出すのは、ずっと後になる。


   ※


 その夜ノアに報告した。


『積算です』


『建設業の見積もりは、材料費、労務費、経費の三つに分解できます。30年ぶんの実績があるなら、勘は数式に変換できます。勘が当たるというのは、変換できる規則性があるという意味です』


「三十年ぶんって、紙で見ろってことか」


『5年で足ります。それ以上は、単価が古すぎます』


 俺は天板の裏を見上げた。九歳の字が、今日も同じところにある。


 食堂の伝票が1,200枚で、ひと晩かかった。五年分の見積書が何枚あるのかは、考えないことにした。考えると、やらない理由が見つかる。


   ※


 昼休み、矢島が寄ってきて言った。


「お前、最近いないな」


「いるよ」


「いや、いるけどさ。いない感じがする」


 俺は笑って流した。矢島はそういうことに関してだけは妙に勘がいい。この男は三年後にもう一度、同じことを言う。そのときはもう、笑って流せない。


   ※


 名刺を渡されたとき、俺は両手で受け取るべきかどうかで一瞬迷った。


 前の人生で俺は名刺をもらったことが数えるほどしかない。派遣の現場では、名刺を出す側にも出される側にもならない。人はそこにいる人間を、工程の名前で呼ぶ。


 畑中源治、と印刷された紙を、俺は財布に入れた。財布に紙を入れるのも初めてだった。それまで俺の財布には、小銭と図書館の貸出カードしか入っていなかった。


   ※


 翌週の月曜。夕刊を配り終えてから、俺は丘のほうへ自転車を漕いだ。


 畑中建設の事務所は、坂を一つ越えた先の二階建てのプレハブだった。窓に灯りがついていて、外から見ても、中に紙が多いことが分かった。


── STATUS ──────────────

早坂 拓実/15歳(高1)

資金   31,830円

演算力  0.006/100

動産   (変動なし)

────────────────────────


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