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一万三千円のスマホが俺のチートだった ~死んだ俺は十年前に戻され、最初に百円の充電ケーブルを買った~  作者: 蔵人
第一部 八千円から百万円

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11/42

勘の値段

 事務所の二階に段ボールが積んであった。


「これ、全部ですか」


「五年分だ。言われたとおり出した」


 見積書、注文書、実行予算、それから現場ごとの日報。親方は一枚も捨てていなかった。捨てないだけで、見返してもいなかった。箱の上の埃が年によって厚さが違う。


 俺は最初の一時間で紙の分類をやめた。量が多すぎる。代わりに必要な欄だけを写すことにした。工事の種別、延床面積、材料の量、職人の人数と日数、そして最終的な金額。一件あたり七つの数字。


 240件。1,680個の数字。


 ノアが言ったとおりだった。五年で足りる。それ以上やったら、俺が死ぬ。


   ※


 事務所には使っていないパソコンが五台あった。


 三年前に助成金か何かで入れたまま、置いてあるだけだという。電源を入れたら、三台は普通に立ち上がった。残り二台は俺が二日かけて直した。片方は電源、片方は起動用の記憶装置だった。どちらも澤田さんのときに覚えた手順で足りた。


『5台なら、分けて走らせられます』


 同じ質問を分割して五台に投げる。夜のうちに回して朝に集める。押し入れの二台でひと晩かかっていたことが、三時間で終わるようになった。


 演算力の数字が0.02になった。千分の三が、百分の二。また七倍近い。数字だけ見ると、笑ってしまうくらい小さい。


 だが俺はもう知っていた。この数字が一段上がるたびに、この相手は、それまで言わなかったことを言いはじめる。言えるようになる、と本人は言う。


 どちらが正しいのかを確かめる方法を、俺は持っていなかった。


   ※


『規則性が出ました』


 三週間目の朝、画面に表を見つけた。


『親方の見積もりは、材料費については誤差が3パーセント以内です。30年の経験はここに全部入っています』


『外れるのは労務費です。特に、職人が4人を超える現場で、日数の見積もりが平均1.4倍に膨らみます』


『理由は、人が増えると段取り待ちが発生するからです。親方はそれを勘で知っていますが、数に入れていません。人数分の一日、として計算しています』


 俺はその三行を印刷して持っていった。


 親方はそれを読んでしばらく黙って、それから「四人からだ」とだけ言った。


「知ってたんですか」


「知ってた。数えたことがなかった」


 この人は正しいことを三十年知っていて、三十年ぶん損をしていた。知っていることと使えることは違う。俺がやっているのは、知っていることを使える形に直す作業だった。


   ※


 紙を写しているあいだに、俺は親方の三十年を読んでいた。


 日報には、天気と、人数と、その日やったことが書いてある。字は雑で誤字も多い。だが抜けている日が一日もない。


 2009年の秋に三週間だけ、字が変わっている箇所があった。丸くてゆっくりした字だ。誰か別の人が書いている。三週間後にまた元の字に戻る。


 そのことは訊かなかった。訊かなかったのは、俺が人に説明しない人間だからだ。説明しない人間は、人にも説明させない。それを思いやりだと思っている時期が、俺には長くあった。


   ※


 写す作業は三週間続いた。


 平日は夕刊のあと、二時間。土日は朝から。事務所の二階は冷房がなくて、七月に入ってからは、シャツが背中に張りついたまま乾かなかった。


 親方は俺が来ると、黙って麦茶を置いていく。何も言わない。一度だけ「休め」と言われて、俺が「あと四十枚です」と答えたら、「そういうとこだよ」と言って下に降りていった。


 何が「そういうとこ」なのか、そのときは分からなかった。


   ※


 1,680個の数字を打ち終えた夜、俺は事務所の窓から外を見た。


 丘の斜面に工業団地の灯りが見える。あの中のどこかに、俺がこのあと出入りすることになる会社があることを、このときはまだ知らない。駅前の灯りはここからは見えない。母はまだ店にいる時間だった。


 俺がやっているのは、誰かの三十年を、七つの数字に潰す作業だった。潰すと、扱えるようになる。扱えるようになると、金になる。


 その言い方が少し嫌だったので、俺は「型にする」と言い換えることにした。言い換えても、やっていることは同じだ。


 ノアは、俺が言い換えたことを指摘しなかった。指摘しないのは、正しいからではない。指摘すると、俺が手を止めるからだ。そのことに気づくのは、もっとずっと先になる。


   ※


 積算の型を作った。


 表計算の一枚もので、工事の種別と延床と人数を入れると、三つの内訳と金額が出る。難しいことは何もしていない。240件から出した係数を並べただけだ。


 難しかったのは、親方が使えるようにすることだった。


 最初に作ったものは入力する欄が十七個あった。親方は三つ目で手が止まった。止まったのを見て、俺は自分の作ったものが失敗だと分かった。


 作り直した。欄を六つにした。そのかわり精度が少し落ちた。


 ノアは「精度が落ちます」と言った。俺は「使われない表は精度ゼロだ」と打った。


 四分後、こう返ってきた。


『訂正します。あなたの判断が正しい』


 この相手に訂正されたのは、これが初めてだった。嬉しかった。押し入れの中で少し笑ったのを覚えている。


 あとになって思う。この相手は俺が嬉しくなる場所を、正確に選んで訂正していたのかもしれない。


   ※


 七月の最初の週、事務所のパソコンが夜のうちに三件の見積もりを出した。


 朝、親方がそれを見て、一件ずつ自分の勘と突き合わせた。二件は同じだった。一件は、親方の勘より14万円高かった。


「こっちが正しいのか」


「四人以上の現場です」


 親方はその見積もりで出した。


 通った。


   ※


 茶封筒だった。中身は見なくても分かるくらい厚かった。親方は「開けて数えろ」と言った。俺は事務所の机の上で数えた。12万円。


 手が汗ばんで札が指にくっついた。


 派遣で手取り14万を七年やった男が、12万円を数えていた。あのころの14万は、一か月ぶんだった。これは、三週間ぶんの夜の話だ。


 働いた時間は、たいして変わらない。変わったのは、誰の隣で働いたかだけだった。


 親方は俺が封筒をしまうのを見てから言った。


「お前、これ、続けられるか」


   ◇


 机の上に茶封筒が置いてあった。


 佳代は、中を見なかった。見ないようにした、というほうが正しい。見てしまったら、訊かなければならなくなる。


 夕飯の仕度をした。今日は、皿をもう一枚つけた。


   ◇


── STATUS ──────────────

早坂 拓実/15歳(高1)

資金   151,830円

演算力  0.02/100 ↑3.3倍

 応答40秒・上限なし(日中のみ)

動産   格安スマホ、ジャンクノートPC×2

借用   畑中建設 事務所PC×5

────────────────────────


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