身分証をお願いします
カウンターの女の人は感じがよかった。
紙袋を三つ提げた高校生を見ても、変な顔をしなかった。一つずつ中身を出して、傷を見て、電卓を叩いて、それから「少しお時間いただきます」と言って奥に下がった。
十五分。俺は壁際の椅子に座って待っていた。壁に買取の強化キャンペーンの紙が貼ってあって、俺はその文字を三回読んだ。
戻ってきて彼女は伝票を見ながら言った。
「こちら、全部で13,400円になりますが、よろしいでしょうか」
13,400円。ノアの表の真ん中あたりの数字だった。
「はい」
「では、身分証をお願いします」
※
俺は学生証を出した。それ以外に持っているものがなかったからだ。健康保険証は母の財布の中にある。それだけのことだと、そのときは思っていた。
彼女は学生証を見て生年月日のところで指を止めた。それから顔を上げた。感じのいい表情のまま、声の温度だけが少し変わった。
「申し訳ありません。十八歳未満のお客さまからは、保護者の方の同意がないとお買い取りができないんです」
「……同意って」
「委託状をお持ちいただくか、ご一緒に来ていただくか、どちらかになります。お電話でも一度確認させていただく形になります」
俺は何も言えなかった。
彼女は悪くない。彼女はたぶんこの台詞をひと月に何度も言っている。断り方が上手すぎて、俺には抗議する余地さえ残っていなかった。
※
押し入れに戻って俺は打った。返事は四分で来た。
『4月28日に申し上げました。古物営業法と東京都の条例です。18歳未満から古物を買い受ける場合、保護者の委託、同行、または同意のいずれかが必要です』
『さらに、本人確認の義務は通常1万円以上の取引で生じますが、ゲームソフト、CD・DVD、書籍については、金額にかかわらず確認が必要とされています』
『あなたが選んだ2種類は、どちらもその例外に該当します』
四月二十八日。
俺は覚えていなかった。いや、正確には、読んだ覚えはあった。読んでそのまま次の行を読んだ。あのころは一日に十回答えが返るようになったばかりで、俺は嬉しくて、片端から質問を投げていた。
答えは全部そこにあった。読んでいなかったのは俺だ。
「なんで、もう一回言わなかった」
『昨夜、確認しておきたいことがある、と表示しました』
俺は画面を消した。消してから、消したことに何の意味もないと気づいた。この相手は怒っても黙っても、同じ速度で同じことを言う。
※
母を連れてくれば、売れる。
それは分かっていた。日曜の午後なら、母は食堂にいる。カウンターの内側でランチの皿を洗っている。あの通りまで自転車で十五分だ。電話一本でもいい。母が「はい、同意します」と言えばいい。
だがそのためには説明しなければならない。八千円をどうやって作ったか。押し入れの中に何があるか。四千円で仕入れたこの二十点が何なのか。そもそも、息子が何を始めたのか。
俺は母に何ひとつ話していなかった。
話せない理由を考えようとして、思いつかなかった。ただ口が動かないだけだった。小学三年の二学期から俺はずっとそうだ。できなかったことを、言わない。言わないでいるうちに、言わないことが普通になる。
※
店を出て俺は自転車の鍵を外さないまま、三十分ほどそこに立っていた。
駐輪場の向かいに公衆電話があった。十円玉は持っている。店の番号も分かる。母の職場の番号は、台所の壁に貼ってある紙で、小学校のころから暗記していた。
受話器を取って耳に当てるところまではやった。発信音が鳴っているあいだ、俺は自分が何を言うつもりなのかを探していた。
もしもし、母さん。いま、駅の向こうの店にいる。ゲームソフトと本を売りに来たんだけど、十五歳だと売れないらしい。だから電話に出て、同意しますって言ってほしい。
そこまで組み立てて、その次が出てこなかった。
なんで売りに来たのか。どこで仕入れた金なのか。その金をどこで作ったのか。一つ答えるごとに、次の質問が生えてくる。二時間かかる、と俺は思った。母は今日、日曜のランチの厨房にいる。
受話器を戻した。十円玉は落ちてこなかった。かけていないから当たり前なのに、俺はしばらく返却口に指を入れていた。
道路を挟んだ向かいに、同じ系列の別の店がある。そこなら学生証を出さずに済むかもしれない、と一瞬だけ考えた。考えて、やめた。やめた理由は正しさではない。同じ断られ方をもう一度されるのが嫌だっただけだ。
十五歳だと売れない、というのは、俺が悪いわけではない。制度がそうなっているだけだ。そう考えれば楽になるはずなのに、少しも楽にならなかった。制度は誰のことも憎んでいない。憎んでいない相手に止められるのが、いちばん堪えるのだと知った。
※
帰り道はずっと上りだった。
紙袋は行きと同じ重さだった。同じ重さのものが、行きと帰りでこんなに違うということを、俺はこの日に知った。行きの二十分が帰りは五十分かかった。
途中で一度自転車を降りた。降りたのは坂がきつかったからで、それ以外の理由はない。そう思うことにして、俺は坂の途中で立っていた。
下のほうに二本の川が合流するところが見えた。河川敷のグラウンドで、少年野球をやっている。あの中の誰かは、たぶん今日、家に帰って今日あったことを親に話す。
四千円分の在庫が、ただの荷物になった。645円は、645円のままだった。
※
押し入れの中はまだ少し温かかった。
俺は保冷剤を入れ替えて、それから、しばらく何も打たなかった。十分くらい、膝を抱えて座っていた。襖の隙間から、夕方の光が一本だけ入ってきていた。
ノアのほうから文字が出た。
『二つ、選択肢があります』
『一つは、お母さまに話すこと。これが最短です。所要時間は、電話一本ぶん』
『もう一つは——』
俺は続きを待った。四分ではなかった。二十秒だった。この相手は俺が最短のほうを選ばないことを、最初から知っていたのだと思う。
『モノを売るのをやめましょう。手を売ってください』
在庫は、要らない。名義も、要らない。年齢も、たぶん訊かれない。
俺が持っているもののうち、誰にも止められないものが一つだけある。
◇
自転車を押して帰ってきた。
前かごの紙袋は、今朝出ていったときと同じ高さまで入っている。佳代はベランダからそれを見ていた。
何をしようとして、できなかったのか。訊かない。拓実は、できなかったことを言わない子だった。
◇
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/15歳(高1)
資金 645円
演算力 0.003/100
動産 格安スマホ、ジャンクノートPC×2
中古ゲームソフト12本、専門書8冊
※売却不能
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