あと30日
二月の終わりに壁の紙が三十になった。
290から始めて260回書き直している。鉛筆の跡が、紙の同じ場所に何重にも残って、そこだけ灰色になっていた。数字を書く場所を俺は一度もずらさなかった。
三十日。
その数字を書いた朝、俺は少し手が震えた。震えたのは緊張ではなく、たぶん終わりが見えたことに体が反応したのだと思う。
※
三年前の四月八日、俺は十五歳で、資金は320円だった。
あのときノアが最初に言ったのは「時間が足りません」だった。その次が「まず、電気を」。押し入れの中で俺は百円ショップのケーブルを買う金しか持っていなかった。
いま法人の口座に6300万ある。資材置き場に240枚の部品がある。丘の工業団地に四月一日から使える建物がある。
時間が足りない、とはもう言われない。かわりにあと三十日と言われている。
足りないものが時間から日数に変わった。それは、終わりが決まったということだ。
※
三月に入って俺は四月一日の計画書を印刷した。
全部で六十四ページあった。工場の区画割り。電力の引き込みの順番。空調の設計。ラックの配置。部品の設置スケジュール。人を入れるとしたら何人で、どの工程か。法人の資金の移動。役員報酬の改定。稜和精機との賃貸借契約の条項。
六十四ページのうち俺が自分で書いたのは、たぶん八ページだった。
残りはノアが出したものを俺が承認した。承認というのは、読んで「はい」と打つことだ。六十四ページを全部読むのに、四時間かかった。四時間かけて俺は一か所も直さなかった。
※
直さなかった理由を俺はその日こう説明した。
よくできているから。
実際よくできていた。二年半、俺はこの相手が出したものを何百回も直してきた。積算の表の入力欄を十七から六に減らしたのも俺だ。使われない表は精度ゼロだと言ったのも俺だ。
直せるところを見つけられなくなったのは、いつからだったか。
思い出そうとして、思い出せなかった。思い出せないというのは、その変化に気づかなかったということだ。
※
三月の第一週に私立の合格発表があった。
教室に、受かった人間と落ちた人間が混ざっていた。受かった人間は静かにしていて、落ちた人間はもっと静かだった。誰も泣いていなかった。泣くのは、たぶん家に帰ってからだ。
矢島は第二志望に受かったらしい。廊下で会ったとき、「まあ、いちおう」と言っていた。
「おめでとう」
「お、おう」
俺が言うと思っていなかったらしい。矢島は少し照れた顔をした。
その顔を見て俺は、言ってよかったと思った。三年間でたぶん数えるほどしかない「言ってよかった」だった。
※
三月の半ば母が食堂を辞めるかどうかの話が出た。
出したのは俺だ。法人の役員報酬を上げれば、母は働かなくていい。正確には、母は代表なので、役員報酬をもらう形にできる。働かずに、いままでより多い額を受け取れる。
数字にすると、圧倒的に得だった。
「働かなくていいよ」
母は皿を拭きながら聞いていた。拭き終わって、水を止めて、こっちを見た。
「なんで」
※
なんで、と訊かれて俺は詰まった。
得だからだ、と言えばよかった。だが、その一言を言うと、母が十六年やってきたことを、得か損かで測ることになる。
「体、きついだろ」
「きつくないよ」
「四階じゃなくなったけど、坂は上がってるだろ」
「上がってる」
母はそこで少し笑った。
「拓実。お母さんね、あの店が好きなんだよ」
※
好きだ、という言葉を母から聞いたのは初めてだった。
好きなものの話をこの人は一度もしない。何が食べたいかも、どこに行きたいかも、言わない。訊いても「なんでもいい」と言う。十八年俺はそれを、母には好きなものがないからだと思っていた。
「房子さんも、山根さんも、いい人だし」
「うん」
「それに、あそこ、あんたが直した店だから」
俺は皿を拭いている母の背中を見ていた。
※
役員報酬の話はそこで終わらなかった。
母を辞めさせないなら、別の形で渡すしかない。俺は月々の生活費を上げる案を出した。家賃は法人が借り上げる形にして、光熱費も法人に付ける。そうすれば、母の手元に残る額が増える。
母はその説明を三回聞き返した。
「それ、お母さんが得するの」
「得する」
「会社は損しないの」
「損しない。経費になるから」
「経費って、誰が払うの」
※
誰が払うの、と訊かれて俺は一瞬止まった。
会社が払う。会社の金は俺が稼いだ金だ。だから俺が払う。順番に説明すれば、そうなる。
だが母が訊いているのは、そこではなかった。この人は経費という言葉を、誰も損しない魔法の言葉として使われるのを、警戒している。
「俺が払う」
「じゃあ、いい」
「いいって」
「いまのままでいいよ。足りてるから」
※
足りてる、と母は言った。
母の生活は三年前とほとんど変わっていない。食堂に行って、帰って、飯を作って、テレビを見て、十一時に寝る。変わったのは、住む場所と、四階を上がらなくなったことだけだ。
俺は法人の口座に6300万持っている。
その6300万で、母の生活をどう良くできるかを、俺は一度も具体的に考えたことがなかった。考えたのは、役員報酬の額と、家賃の借り上げと、経費の処理だけだ。
全部制度の話だった。
※
その夜俺はノアに打った。
「母親が仕事を辞めない理由って、計算で出せるか」
『出せません』
「なんで」
『効用の内訳が不明です。金銭的な効用は算出できますが、それ以外の項目に何が入っているかを、私は持っていません』
「持ってないって、お前、俺の記録で作られてるんだろ」
『はい。あなたの記録には、あなたが観測したことしか入っていません』
※
俺が観測していないことは、ノアも持っていない。
当たり前の話だった。当たり前なのに、俺はそれまでこの相手が俺より多くを知っていると思い込んでいた。押し入れの天板の裏を知っていたし、俺が忘れた失敗の回数も数えていた。
だがそれは全部、俺が一度は見たものだ。
母があの店を好きだということを、俺は三年間一度も観測しなかった。だからノアも知らない。
この相手の限界は、俺の限界だった。
壁の紙をその夜、俺は十六に書き換えた。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/18歳(高3)
資金(個人) 1,500,000円
資金(法人) 63,000,000円
演算力 7.2/100
エージェント 22体
動産 演算部品×240(未設置)
制約 あと 16日
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