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一万三千円のスマホが俺のチートだった ~死んだ俺は十年前に戻され、最初に百円の充電ケーブルを買った~  作者: 蔵人
第三部 会社

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42/42

就職欄が空白

 卒業式は三月の第二週だった。


 体育館のパイプ椅子は三年前の入学式と同じ冷たさだった。校長の後頭部も同じように光っていた。三年間でこの体育館に入ったのは十回くらいだと思う。


 保護者席は入学式のときより埋まっていた。卒業式には来る親が多い。


 母は、来ていた。


   ※


 来るとは思っていなかった。食堂は午前が仕込みでいちばん抜けにくい時間だ。三年前の入学式にも来ていない。


 式が始まる前俺は一度だけ振り返った。後ろから四列目のいちばん端に座っていた。俺と目が合って、小さく手を上げた。


 俺は、前を向いた。


 前を向いてから、喉のあたりが詰まった。詰まったのを誰にも気づかれないように、俺は三十秒くらい天井の梁を見ていた。


   ※


 あとで聞いたら、房子さんが「行ってきな」と言ったらしい。


「あんた、入学式行けなかったんだから、今度は行きなさいって」


 母はそう言った。三年前のことを房子さんは覚えていた。


 三年前の四月八日、母は「入学式、行けなくてごめんね」と言って出ていった。俺は「別にいいよ」と答えた。あれは本当にどうでもよかった。


 どうでもよかったことを三年間覚えていた人が二人いた。


   ※


 名前を呼ばれて、返事をして、壇上で証書を受け取った。


 早坂拓実。


 その名前で呼ばれるのは、小学三年の二学期からだ。呼ばれるたびに、俺は九歳のときに天板の裏に書いた四文字のことをときどき思い出す。あの家はもう出た。字はたぶんまだそこにある。


 証書の筒を持って席に戻るとき、俺は保護者席のほうを見なかった。


   ※


 式のあと教室で最後のホームルームがあった。


 担任が一人ずつに何か言っていく。三十六人いたので、四十分かかった。俺の番になって担任は少し黙った。


「早坂。お前、卒業名簿の進路の欄、空白なんだよ」


 クラスが少し笑った。悪い笑い方ではなかった。


「まだ決まってませんって、三回言われたからな」


「すみません」


「謝るな。ただ」


 担任は、俺の顔を見た。


   ※


「困ったら来い。卒業しても、学校は残ってる」


 俺は「はい」と答えた。


 このとき俺は答えながら、たぶん二度と来ないだろうと思っていた。実際二度と行っていない。


 行かなかったのは、困らなかったからだ。この先俺は金でも人でも設備でも、ほとんど困らなくなる。困らないまま、いろいろなものを失っていく。


 困ったら来い、というのは、困る場所を持っていろ、という意味だったのだと思う。


 そう読めるようになるまでに、俺は何年もかかった。


   ※


 教室を出るとき、矢島が待っていた。


 廊下の階段のところに立っていた。他のやつらは写真を撮っていて、そっちのほうが賑やかだった。


「早坂」


「うん」


「お前、なんかすげえことしてんだろ」


 俺は、止まった。


   ※


「なんで」


「三号棟の澤田さんが言ってた。あの子、いま会社やってるらしいよって」


 団地の噂は三日で全棟を回る。俺はもう二年前に出ているのに、噂だけは届く。届いて、矢島のところまで来ていた。


「会社は、母親のだよ」


 嘘ではなかった。代表は母だ。登記簿にはそう書いてある。


「ふうん」


 矢島はそれ以上訊かなかった。


 訊かないでくれたことに俺はほっとした。ほっとしてから、ほっとしている自分に気づいた。


   ※


「あのさ」


 矢島が言いにくそうに言った。


「俺、四月から都内に出るんだわ」


「うん」


「団地、出るんだ。うち」


 あいつの家は、両親が揃っていて、それでも苦しかった。弟がいる。矢島が出ていけば、少し楽になる。そういう計算があの家にもある。


「そっか」


「うん」


 それだけだった。


   ※


 階段を下りながら、俺は何か言うべきだったと思っていた。


 三年間この男は俺に対して、いつも先に声をかける側だった。入学式の日も、昼にパンを半分くれたときも、澤田さんのことで怒ったときも、電話に出たときも。


 俺から声をかけたのは、去年の三月に「間違えた」と言って切った一回だけだ。


 校門を出て俺は一度振り返った。矢島はもう見えなかった。


   ※


 校門を出たところで、俺は駅前の細い通りのほうへ曲がった。


 家に帰るなら、川を渡る道が近い。曲がったのは、食堂の前を通るためだった。用があったわけではない。ただ今日という日に、あの店の前を通っておきたかった。


 ガラス越しに房子さんが見えた。カウンターの内側で伝票を書いている。山根さんは厨房にいるらしく、換気扇の音だけがしていた。


 三年前のこの通りで、俺は段ボールを二袋もらった。理由を訊かれなかった三十秒が、全部の始まりだった。


 房子さんが顔を上げて、俺に気づいた。手を振られたので、俺も手を上げた。中には入らなかった。証書の筒を持ったまま店に入るのは、なんとなく違う気がした。


   ※


 二軒先の大杉印刷の前も通った。


 シャッターが半分下りていた。大杉さんは七十三になって、開ける日と開けない日がある。去年、名刺を刷ったときに「そろそろ機械が先に死ぬ」と言っていた。


 その隣は丸山不動産だ。二年前、母と二人で断られた店。その翌月に、この人が物件を押さえてくれた。


 通りの長さはたぶん八十メートルくらいしかない。


 俺が三年でやったことの、ほとんど全部が、この八十メートルから始まっている。駅前十メートル、と俺は頭の中で呼んでいたが、実際は十メートルではなかった。もっと短かったかもしれない。


   ※


 家に帰って、母が赤飯を炊いていた。


 房子さんに教わったらしい。うまくできなかった、と母は言ったが、普通にうまかった。二人で食べた。


「就職、どうするの」


 母が訊いた。三年間で母が進路を訊いたのは、これが初めてだった。


「四月から、工場借りる」


「工場」


「丘の上の。稜和精機さんの、使ってないやつ」


 母は茶碗を持ったまま、少し考えた。


「黒田さんの?」


「うん」


「そう」


 それで終わりだった。


   ※


 その夜壁の紙は十七になっていた。


 卒業しても、数字は減り続ける。学校が終わる日と、制度が終わる日は、別だ。


 俺は鉛筆で十七を消して、十六と書いた。


── STATUS ──────────────

早坂 拓実/18歳

資金(個人) 1,500,000円

資金(法人) 70,000,000円

演算力  7.8/100

エージェント 28体

進路   —(卒業名簿:空白)

制約   あと 12日

────────────────────────


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