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一万三千円のスマホが俺のチートだった ~死んだ俺は十年前に戻され、最初に百円の充電ケーブルを買った~  作者: 蔵人
第三部 会社

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39/42

あと290日

 高校三年の六月に俺は自分の部屋の壁に紙を一枚貼った。


 大杉印刷の裁ち落としに鉛筆で数字を書いただけのものだ。290。毎朝起きたら一つ減らして書き直す。物置の画面には同じ数字が出ているのに、わざわざ紙に書いた。


 画面の数字は俺が見にいかないと見えない。壁の紙は目を開けたら見える。


 二年前俺は押し入れの天板の裏に書かれた自分の名前を見つけた。消えない場所に名前を残したつもりで、消える場所だった。今度は消えるために書いている。毎日書き直して最後にゼロになったら剥がす。


 そういう紙を十七歳の男が自分の部屋に貼っている。


   ※


 制度が終わる日を待つ、というのは、奇妙な待ち方だった。


 待っているあいだ、何もしないわけではない。むしろこの一年はいちばん忙しかった。法人ができて、契約の形を全部組み替えて、稜和精機との月ぎめを法人の売上に移して、畑中建設と苅部運送も同じようにした。メディアの記事は千本を超えた。


 表に出る俺個人の所得は、役員報酬として月に十万円だけになった。


 十万円というのは、俺が二年前に「八千円を作るのに三週間かかった」と言っていたころの十二倍だ。十二倍になった数字を俺は少ないと感じるようになっていた。


   ※


 法人の口座には二千万を超える金がある。


 俺はその金をほとんど使わなかった。使わない、という言い方は正確ではない。使い道が、全部、機材だった。


 物置の十四台が、二十六台になり、三十八台になった。二十六台のときに、俺は物置の壁を壊した。正確には、物置と隣の四畳半をつないだ。大家さんに断って、壁の下半分だけ開けて、風が通るようにした。


 四畳半は母の部屋ではない。俺が使っていた部屋だ。


 寝る場所は居間に移した。母が居間で寝ているのに、俺も居間で寝ることになった。布団が二組、並んでいる。団地に戻ったみたいだ、と母が言った。


   ※


「カーテンもないけどね」


 母はそう言って笑った。


 俺はうまく笑えなかった。団地の六畳一間にはカーテンが一枚あった。あれがあったから、俺たちは別々の場所で寝ていることになっていた。いまは、仕切りが何もない。何もないのに、団地のころより遠い。


 母は俺が寝る時間に起きてこない。俺が布団に入るのは、たいてい二時か三時だ。母は十一時に寝て、六時に起きる。同じ部屋にいて、重なっている時間が三時間しかない。


 そのことに気づいたとき、俺は少しだけ部屋を戻そうかと考えた。


 考えてやめた。四畳半を戻すと、機材が十二台置けなくなる。十二台は演算力にして0.8ぶんだった。


   ※


 七月に俺は十八歳になった。


 誕生日は、母が食堂から寿司を持って帰ってきた。房子さんが握ったやつだ。俺はそれを食べて、「ありがとう」と言った。


 十八歳になっても、何も変わらなかった。制度の側で変わるのは、来年の三月三十一日だ。誕生日ではない。年度末だ。だから、誕生日は本当に何の意味もない日だった。


 その夜壁の紙を二五二に書き換えた。


   ※


 三年の夏は、クラス全体が予備校の話をしていた。夏期講習がどこで、いくらで、誰が行くか。俺はその会話の外にいた。


 二年前は金がなくて外にいた。今年は、行く必要がないから外にいる。外にいることの見た目は、二年前とまったく同じだった。


 担任が、三者面談の紙をもう一度配った。俺はまた「希望しない」に丸をした。今度は、担任が放課後に俺を呼んだ。


「早坂、進路どうすんだ」


「働きます」


「どこに」


 俺は答えられなかった。


   ※


 自分の会社です、とは言えなかった。言えば説明が始まる。説明すると、たぶん学校が母に連絡する。連絡されて困ることは何もないのに、俺はその面倒を避けた。


「まだ決まってません」


「求人票、見にこいよ」


「はい」


 担任はそれ以上訊かなかった。この人は二年間、俺に対していつも「それ以上訊かない」を選んできた。訊かないでいてくれたことに、俺はずっと助けられている。


 助けられていた、と気づいたのは、卒業してからだ。


   ※


 九月に黒田さんに会いに行った。


 スーツを着ていった。二回目の会議から、俺はずっとスーツで行っている。稜和精機の社員の人たちは、もう俺の年齢を訊かない。訊かないというより、たぶん知らない。


 会議のあと俺は黒田さんを廊下で捕まえた。


「来年の四月に、旧第二工場を借りたいんですが」


 黒田さんは少し驚いた顔をした。二月に断ったのは俺だ。


「まだ空いてますか」


「空いてる。この五年、空いてる」


   ※


「なんで四月なんだ」


 黒田さんはそう訊いた。


 この人はこういう訊き方をする。借りるのか借りないのかではなく、なぜその日なのか。数字の人だ。三十八円で工場を止めた人は、四円の理由を知りたがる。


「制度が変わるので」


「制度」


「俺が、十八歳になった年度が終わるので」


 黒田さんは二秒くらい俺の顔を見た。それから「ああ」と言った。


   ※


「あんた、そういうことか」


 何がそういうことなのかは、説明されなかった。この人はそれで全部分かったらしい。母子家庭で、高校生で、稼いでいて、名前を出せない。この十メートル——ではなく、この丘の工業団地の人も、それだけの情報で足りるらしかった。


「賃料、いくらで考えてる」


 俺は数字を言った。ノアが出した額だ。相場より二割高い。


 黒田さんはまた二秒黙って、それから言った。


「二割下げろ。俺はあんたに施しをされる筋合いはねえ」


 値切られた。逆方向に値切られたのは、初めてだった。


   ※


 帰り道丘を下りながら、俺は笑っていた。


 二年前、この人に初めて会ったとき、俺は値切られて気分がよかった。取引相手として扱われたのが初めてだったからだ。


 今日は、高く払おうとして、断られた。


 二年で俺は払う側になっていた。払う側になると、人は気前よくなる。気前よくなると、相手を下に見ていることになる。そのことを、この人は二秒で見抜いて、二割下げろと言った。


 物置に戻って俺はそのやりとりをノアに打った。


『賃料が2割下がりました。年間で144万円の削減です』


「そういう話じゃないだろ」


『では、どういう話ですか』


 俺はまた答えなかった。


── STATUS ──────────────

早坂 拓実/17歳(高3)

資金(個人) 1,200,000円

資金(法人) 22,000,000円

演算力  4.5/100

エージェント 9体

制約   あと 290日

────────────────────────


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