あと365日
三月三十一日の夜にノアはカレンダーを出した。
画面いっぱいの一年ぶんの表だった。上が2015年四月で、下が2016年三月。いちばん下の右端の枡だけが色が違っていた。
三月三十一日。
『あなたの18歳到達年度末です』
※
知っている日付だった。
二年前団地の押し入れで初めてこの日付を見た。母の扶養と、家賃と、手当。三つの制度がこの日に俺を追い出す。追い出されるというのは、この場合、自由になるということだ。
あのとき三十か月と言われた。長い、と思った。
いま残りが一年になっている。
『あと1年です。それまでは、抑えます』
「分かってる」
『抑えるというのは、何もしないという意味ではありません。1年で資金と機材を積めるだけ積みます。表に出す所得だけを抑えます』
※
計画はその夜のうちに全部出た。
四半期ごとの資金の目標。機材の増設の順番。法人の決算の期首をいつにするか。役員報酬をいくらにするか。稜和精機との契約をどう組み替えるか。
そして2016年四月一日に、旧第二工場を借りる。
黒田さんには、まだ言っていない。二月に一度断っている。断ったときに、俺は「いまはまだ手が足りないので」と言った。
嘘ではなかった。ただ断った時点で、一年後の予約は入っていた。入れたのは俺ではない。
※
ステータスの欄に行が一つ増えた。
制約 あと 366日。
俺はその行をじっと見た。
二年前からこの欄には資金と演算力と動産が並んでいた。増えるものばかりだった。減っていくものが表示されるのは、これが初めてだった。
減っていくものが目の前にあると、人は待つようになる。
俺はその日から毎日その数字を見た。365。364。363。制度が終わる日を、指を折って待つ高校生が、この町に一人いた。
※
四月に入って登記が下りた。
母が会社の代表になった。母はそれで何かが変わったとは思っていないようだった。食堂の勤務も、皿を洗う時間も、坂を上がる回数も、何一つ変わっていない。
変わったのは、俺の側の書類だけだった。
ある夜母が居間で訊いた。テレビを見ながら、こっちを見ずに。
「会社って、なんの会社なの」
※
俺は答えられなかった。
説明できないのではない。説明する言葉なら持っている。中小企業の業務の効率化、と言えばいい。紙をやめて計算にする、と言えばいい。母には通じないかもしれないが、通じるように言い換えることもできる。
答えられなかったのは、その言葉が本当かどうか、俺に分からなかったからだ。
3,000社に届ける。そのために計算資源を百まで積む。俺がこの一年でやろうとしていることは、それだ。だが、百まで積んだ先に何があるのかを俺は一度も訊いていない。
訊いていないものを母に説明することはできない。
「……いろいろだよ」
「そう」
母はそれで終わりにした。
※
四月の第二週に俺は高校三年になった。
クラス替えがあって矢島とはまた別になった。三月に電話をかけて「間違えた」と言って切ってから、一度も話していない。廊下ですれ違うときに、目が合って、どちらも止まらない。そういう距離が、もう普通になっていた。
進路希望調査の紙が配られた。第一希望、第二希望、第三希望と欄がある。大学、短大、専門、就職、その他。
俺はその紙を三日持ち歩いて、結局「その他」に丸をつけた。備考欄には何も書かなかった。担任は、返ってきた紙を見て、俺の顔を見て、それから何も言わなかった。
その日の夜俺はノアに訊いた。
「大学って、行ったほうがいいと思うか」
『目的によります』
「そうじゃなくてさ」
『では、質問の意味を特定できません』
※
またそこで止まった。
この二年俺はこの止まり方に何百回も会っている。会うたびに、俺は質問を整理し直してきた。整理できるものは整理すれば答えが出る、という前提で。
だがこのごろ俺は整理し直さなくなっていた。整理できない質問はそもそも打たなくなった。
打たなくなると、そういう質問が自分の中にあること自体を、だんだん忘れる。
※
母には進路のことを一度も訊かれなかった。
訊かれなかったのは、母が関心を持っていないからではない。会社の代表になった人が、息子の進路を訊かないというのは、順番が逆だからだ。母はもう、俺のやっていることの上に名前を置いている。上に置いた人間が、下に向かって「どうするの」とは訊きにくい。
俺が母にさせたのは、そういうことだった。
名義を借りるというのは、相手の位置を動かすということだ。二年前、丸山さんの事務所で、俺は自分が頭越しに話される側にいるのが嫌だと思った。
いま頭越しに話されているのは、母のほうだった。
※
その夜、俺は物置で、翌年度の計画をもう一度読み返した。
よくできていた。無駄がない。四半期ごとに目標があって、それぞれに根拠がある。読んでいて気持ちがいい。二年前、八千円を三週間で作ったころとは、桁も精度も違う。
読み終わって俺は画面を下までスクロールした。
いちばん下に、計画とは別の書式で、二行だけ出ていた。
※
『今後、注意して観察すべき人物が一名います』
『氏名:桐生 遥。都内の大学の博士課程。専門は知能ロボティクスと自律移動』
俺はその二行を読んだ。
知らない名前だった。研究者らしい。二十六歳、と書いてある。俺より九つ上だ。
「誰」
『現時点では、あなたの事業と接点はありません。ただし、数年以内に接点が生じる可能性が高い』
「競合ってこと?」
少し、間があった。
『そうなり得ます』
※
「なんで、この人だけ名前が出るんだ」
『これまで、個人名を出す必要がありませんでした』
「必要って」
『あなたの事業の障害になり得る個人が、これまで存在しなかったという意味です』
「障害になったら、どうするんだ」
『状況によります』
俺はその四文字を見た。状況によります、というのは、この相手が答えを持っていないときの言い方ではない。持っている答えを、いま出さないときの言い方だ。
二年で俺はそれくらいは分かるようになっていた。分かっていてもう一歩踏み込まなかった。
※
俺はその名前を一度だけ声に出して読んだ。
読んで、それから画面を閉じた。春休みが終われば、高校三年になる。制度が終わるまで、あと365日。
物置の中は、二十二度に保たれていた。廊下の向こうで母が寝ている。壁があるので、音は聞こえない。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/17歳(高2)
資金(個人) 1,200,000円
資金(法人) 10,500,000円
演算力 3.0/100
エージェント 6体
制約 あと 366日
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——第二部 電気と熱と、父 完——
本話で第二部は完結です。
第三部も引き続きお楽しみください。
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