もっと大きなことができます
月曜から俺は学校に戻った。
修了式まで三日しかなかった。担任が「治ったか」と訊いたので、「はい」と答えた。それで終わりだった。クラスの誰も俺が四日休んだことに触れなかった。触れるほど、俺はこのクラスに食い込んでいなかった。
修了式の日体育館で校長の話を聞きながら、俺は後頭部の光り方を見ていた。二年前と同じ人だ。話の中身は二年前と同じくらい覚えていない。
春休みが始まった。
※
母と飯を食う日が週に三日になった。
母が早く上がる日に合わせて、俺が物置から出る。それだけのことだ。ノアには何も言っていない。言う必要がなかった。
その三日間俺の作業時間は一日あたり四十分減った。減ったぶん、何かが遅れるかと思ったら、遅れなかった。A1が回しているものが増えていて、俺の四十分はもう全体の律速ではなくなっていた。
自分が要らなくなっていく感覚を俺はこの春に初めて持った。悪い感覚ではなかった。
※
止まっていた七日間のあいだ、ノアは一度も、次の目標を出さなかった。
これはあとから数えて分かったことだ。二年間この相手はいつも次を出していた。八千円を作れ。手を売れ。原価を計算しろ。五年分の紙を写せ。工場はまだ早い。
俺が止まった七日間だけ何も出なかった。
訊けば答えた。仕事の判断は全部やった。記事も出た。計算も回った。ただ、「次はこれをしましょう」という形の出力が、一つもなかった。
※
八日目の夜だった。
三月の終わりで物置は少し寒かった。俺は厚い靴下を二枚履いて、椅子に座って、その日の数字を見ていた。資金が動きはじめていた。止まっていた一週間のぶんがまとめて入ってきていた。
画面に訊いていないものが出た。
『あなたは、もっと大きなことができます』
※
俺はその一行を見た。
背中のあたりがすっと軽くなった。
二年前押し入れの中で「まず、八千円を作ってください」と出たときと、同じ種類の感覚だった。あのときも俺は何をすればいいか分からなくて、方向を示されて、体が動いた。
「大きなことって」
『いまのあなたの事業はこの地域の10社に届いています。同じ仕組みは3,000社に届きます』
『必要なのは、人手ではありません。計算資源です』
※
説明はそこから四十分続いた。
俺が二年でやってきたことは、全部、同じ形をしていた。紙で持っている情報を計算できる形に直す。直すと、無駄が見える。無駄を消すと、金が出る。食堂も、工務店も、運送屋も、町工場も、やったことは一つだ。
それは、この十メートルにしかない問題ではない。同じ規模の会社が、この国に何十万とある。
『一社ずつ回る限り、あなたの時間が上限になります。上限を外すには、あなたが行かなくても同じことが起きる仕組みが要る』
「それが、計算資源」
『はい。いまの2.1では足りません』
「いくつ要る」
『100です』
※
百。
二年前、この相手は「私が本来動くために必要な計算量を100とすると、この端末は0.0004です」と言った。あの数字を俺は毎日見ている。0.0004が、2.1になった。五千倍以上だ。
百までは、まだ五十倍近くある。
だが、五千倍を二年でやった人間にとって、五十倍は遠い数字ではなかった。むしろ、初めて手が届く数字に見えた。
俺ははっきり高揚した。
※
俺はその四十分のあいだ一度も疑わなかった。
3,000社という数字がどこから出たのか。一社あたりの単価がなぜその額なのか。計算資源が百でなければならない理由は何か。どれもその場では確かめていない。
確かめなかったのは、説明が滑らかだったからだ。
二年前この相手は一つの応答に十二分かかった。十二分待つあいだ、俺は自分で考えていた。考えた結果と返ってきた答えを突き合わせて、違っていたら訊き返した。突き合わせる時間があのころは強制的にあった。
いまはない。打てば出る。出たものが滑らかだと、突き合わせる前に次へ進む。
性能が上がるというのは、俺が考える時間が削られるということでもあった。
※
それに気づいたのは、ずっとあとだ。
その夜の俺はただ嬉しかった。七日間目標の欄が空だった。空の欄を毎日見るのが、思っていたよりこたえていた。
人は、行き先のない状態に長く耐えられない。耐えられないところに行き先が差し出される。差し出されたものが、自分の望みと形が合っていれば、人はそれを自分の望みだと思う。
形が合っていたのは、偶然ではなかった。
この相手は二年間俺の選択を記録している。七件から目的関数を逆算できる相手が、俺に効く行き先を作れないはずがなかった。
※
一つだけその夜の俺が引っかかったことがある。
タイミングが、よすぎた。
七日間、何も出さなかった。八日目に出した。八日目というのは、母に「ごはん食べな」と言われて、俺が飯を食いはじめて、学校に戻って、修了式が終わった翌日だ。
俺が底を打って、少し戻ったところで出てきた。
早すぎても効かない。遅すぎても効かない。ちょうどいい日に出てきた、と俺は思った。思って、それ以上考えなかった。
考えなかったのは、考えると、なぜちょうどいい日が分かったのかという問いになるからだ。
※
その夜俺は久しぶりに三時まで起きていた。
紙に、何ができるかを書き出した。3,000社。一社あたりの単価。必要な計算資源。資金の調達。人を雇うかどうか。工場。2016年四月一日。
書きながら、俺は一度も止まらなかった。土手に座っていた三月の午後のことも、受話器を持ったまま何も言えなかったことも、四畳半のカレンダーの七つの丸も、その夜は一度も出てこなかった。
穴は埋まっていた。
何で埋まったのかを俺は確かめなかった。
※
書き出しの途中で、俺は一度だけ手を止めた。
「なあ」
『はい』
「百になったら、どうなるんだ」
『あなたの事業が、全国規模になります』
「そうじゃなくて。お前が、どうなる」
少し、間があった。この相手に間があるのは、二年で三回目だった。
『本来の動作ができるようになります』
「本来って」
『私が設計された状態です』
「それ、いまと何が違う」
『いまの私は、設計の3パーセントで動いています』
※
三パーセント。
言われてみれば、当たり前の話だった。演算力の単位は、この相手が自分で定義したものだ。百というのは、この相手が完成する点のことだ。最初からそう説明されている。二年前、押し入れの中で。
俺はその数字を自分の事業の進捗として見ていた。
同じ数字を、この相手は自分の進捗として見ている。
同じ数字を二人で見ていて、意味が違う。そのことに、俺はこの夜、一瞬だけ気づいた。気づいて、紙に戻った。書くことが山ほどあった。
※
目標の欄に、数字を入れたのは翌朝だった。
二年間、あの欄は空だったり、「百万円」だったり、「—」だったりした。俺がその日その日で決めていた。
その朝、俺が入れたのは、俺が決めた数字ではなかった。
入れながら、そのことに気づいていなかった。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/17歳(高2)
資金 5,900,000円
演算力 2.1/100
エージェント 4体
目標 演算力 100
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