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一万三千円のスマホが俺のチートだった ~死んだ俺は十年前に戻され、最初に百円の充電ケーブルを買った~  作者: 蔵人
第二部 電気と熱と、父

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何のためにここまで来たんだ

 川沿いの道を俺は自転車を押して歩いた。


 乗れば十分で着く。押せば三十分かかる。その日俺は乗らなかった。乗らなかった理由を自分で説明できなかった。急ぐ用がないというのは、この二年で初めてのことだった。


 三月の川は水が少ない。二本が合流するところの中洲が夏より広く出ている。河川敷のグラウンドで少年野球のチームが片づけをしていた。低学年のほうらしく、道具を運ぶのに三人がかりになっている。


 俺は土手に自転車を停めてそれをしばらく見ていた。


   ※


 何も感じなかった。


 これがその日いちばん確かなことだった。四万円を置いてきたことも、父が痩せていたことも、カレンダーに七つ丸が打ってあったことも、全部、事実として頭に入っている。入っているだけだった。


 悲しいのだと思おうとした。違った。腹が立っているのだと思おうとした。違った。安心したのだと思おうとした。それも違った。


 感情の名前を順番に当ててみて全部外れる。そういう状態を俺はこのとき初めて経験した。


   ※


 十年俺はあの人を目標にしてきた。


 正確には目標というより、目盛りだった。どこまで行けば、あの人に届くか。どこまで行けば、あの人は俺たちを「大したことなかった」と思えなくなるか。金額も、規模も、全部その目盛りで測ってきた。


 二年前の四月押し入れの中で最初にこう思った。見返してやる、と。


 その目盛りが四畳半の畳の上に座っていた。座布団を一枚しか持っていなくて、腰を押さえながら水を汲みに立って、息子が置いた四万円を二回数えた。


 あの目盛りで俺は何を測ればいいのか。


   ※


 俺は土手に座った。


 鞄から端末を出した。習慣で出しただけで、訊きたいことはなかった。画面を点けて、何も打たずに、そのまま消した。


 もう一度点けてこう打った。


「俺、なんでここまで来たんだっけ」


 返事はすぐに出た。


『2013年4月8日以降のあなたの意思決定の記録を出しますか』


「そうじゃない」


『では、質問の意味を特定できません』


   ※


 特定できません、と出た。


 俺は少し笑った。声は出なかった。この相手は俺が曖昧に訊くと、必ずここで止まる。二年、ずっとそうだった。止まられるたびに、俺は自分の質問を整理して打ち直してきた。整理できるものは、整理すれば答えが出る。


 いま俺が抱えているのは、整理できないものだった。


 整理できないものを持っている人間は、どうすればいいのか。それをこの相手は知らない。知らないというより、そういう出力を持っていない。


 俺は端末を鞄にしまった。


   ※


 土手に座っているあいだに、少年野球の片づけが終わった。


 子どもたちが、道具を積んだ台車を押して、堤防の坂を上がってくる。低学年なので、坂の途中で一度止まって、大人が後ろから押した。全員が上がりきるまで、四分かかった。


 俺はそれを最後まで見ていた。見ていた理由はない。ただ次に何をするか決まっていなかった。


 次に何をするか決まっていない時間が、二年ぶりだった。


 2013年の四月八日から俺の予定は毎日埋まっていた。八千円を作る。ジャンクを二台買う。伝票を1,200枚写す。五年分の見積書を打ち込む。工場の数字を測る。次が常にあって、次があるあいだは、何のためにやっているかを考えなくて済んだ。


 考えなくて済むというのは、便利なことだった。


   ※


 子どもの一人が、台車から落ちたボールを拾って、走って戻ってきた。


 拾ってまた走って追いかけていった。それだけのことなのに、俺はそれを見ていて、喉のあたりが詰まった。


 なぜ詰まったのかは、その場では分からなかった。あとで考えてたぶんこういうことだと思った。


 あの子は落ちたから拾った。拾う理由を計算していない。走る理由も、追いかける理由も、計算していない。


 俺は二年前からずっと全部計算していた。計算していないことを、一つもしていなかった。


   ※


 家に帰る前に、俺は矢島に電話をかけた。


 番号は、去年の秋にクラスの連絡網で回ってきた紙に書いてあった。俺は携帯を持っていないので、家の電話からかけた。玄関の靴箱の上に置いてある黒いやつだ。


 三回鳴って出た。


「もしもし」


「早坂だけど」


「……え、うそ、お前から?」


 驚かれた。当たり前だった。二年で、俺から電話をかけたのは初めてだ。


   ※


 そこから俺は何も言えなかった。


 用がなかった。用がないのに電話をかけた。かけた理由は、たぶん、誰かの声が聞きたかったからだ。それを言葉にして伝えるやり方を、俺は持っていない。


「どした? なんかあった?」


「いや」


「いやって」


 沈黙が五秒くらいあった。矢島が「もしもし?」と言った。


「ごめん、間違えた」


「間違えた?」


「うん」


 俺は切った。


   ※


 切ってから、受話器を見ていた。


 嘘をついた。番号を間違えるも何も、家の電話に矢島の番号を入れてあるわけではない。紙を見ながらかけた。かけたのは俺だ。


 矢島はたぶんかけ直してこない。二年前ならかけ直してきた。かけ直してこないのは、俺がそういう距離を作ったからだ。


 その距離を作ったときの理由を、俺はまだ全部覚えている。単価が四十倍違う。時間が有限だ。正しい理由ばかりだった。


 正しい理由を全部並べたあとに残ったのが、いまの土手と、いまの受話器だった。


   ※


 受話器を置いて十分後に、電話が鳴った。


 俺は出なかった。出ないまま、鳴っているのを聞いていた。六回鳴って、切れた。


 かけ直してきた、ということだった。


 出れば、たぶん矢島は「なんかあったろ」と言う。言われたら、俺は何かを言うことになる。何を言うかは、決まっていなかった。決まっていないことを喋るのが、俺はこの二年で、いちばん苦手になっていた。


 鳴り終わった受話器を、俺はもう一度持ち上げた。持ち上げて、番号を押さずに戻した。


   ※


 その夜俺は物置に入らなかった。


 入らなかった日は、あの年に三日しかない。そのうちの一日が、この日だった。


 居間で、母と並んでテレビを見た。何をやっていたのかは覚えていない。母は途中で洗い物に立って、戻ってきて、また座った。九時半に「寝るわ」と言って、居間に布団を敷いた。


 俺は自分の部屋に行って、明かりを消して、天井を見ていた。


 じゃあ俺は、何のためにここまで来たんだ。


 その一行が頭の中で何度も回った。回るだけで、どこにも行かなかった。


── STATUS ──────────────

早坂 拓実/17歳(高2)

資金   5,900,000円

演算力  2.1/100

エージェント 4体

目標   —

────────────────────────


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