【幕間】四畳半の四万円
外階段の音が下まで行って、消えた。
中西は畳に座ったまま、それを聞いていた。一段ごとに軋む階段だ。十年ここに住んでいて、上る人間の体重が音で分かるようになっている。軽かった。高校生の重さだった。
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四万円はまだ畳の上にあった。
置かれたときに一度数えて、もう一度数えた。数えてから、取らなかった。取れば、そこで終わってしまう気がした。何が終わるのかは、自分でも分からない。
湯呑みを二つ、流しに持っていった。
一つは自分のもので、もう一つは去年の暮れに百円の店で買った。買った理由はない。二つあったほうがいいような気がして買って、それから一度も使っていなかった。
今日、初めて使った。
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菓子折りは開けた。
中身は薄い焼き菓子で、一つずつ袋に入っている。一つ食べた。甘いものを食べたのは何年ぶりか分からない。うまかった。
うまいと思ったことが、少し嫌だった。
残りは箱ごと冷蔵庫の上に置いた。そこには電気ポットとインスタントの袋しか置いていない。箱を乗せると、その一角だけ急に色がついた。
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息子の靴を見て、訊いた。
玄関に脱いだ靴が革で、新しくて、踵がまだ減っていなかった。高校生が履くものではない。買ってもらったのでもない。買ってもらった靴は、履き方がちがう。
中西は現場を三十年見ている。人の足元は、その人が何をしているかを喋る。
訊いてしまってから、訊かなければよかったと思った。思ったが、取り消せない。
顔は佳代のほうだった。自分に似ているところを探して、見つからなかった。
「大きくなったな」以外に、言うことが出てこなかった。十年ぶんを一言で言おうとすると、そうなる。
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カレンダーは壁に一枚かかっている。
スーパーの名前が入った薄いやつだ。毎月三十日に、次の月の勤務に赤いペンで丸を打つ。打っておかないと忘れる。忘れると、行かないことになる。
二月には七つあった。
三月は六つしかない。
減ったのは腰のせいだ。去年倒れて二週間休んで、戻ってから夜勤を一つ減らしてもらった。減らしてもらったと言うと聞こえがいいが、こちらから頼んだわけではない。次に減るときは、たぶん相談はない。
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夜勤は九時から朝六時までだ。
ビルの地下の防災センターに座って、一時間に一度、決まった順に歩く。歩いたら記録に判子を押す。用紙には押す欄が二十四個あって、そのうち九個が中西のぶんだ。
九個埋めて、帰る。
埋めた数は数えられる。数えられるものだけで一晩が終わるのは、悪いことではない。決めることが一つもないからだ。
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十年前、金が入らない月が三か月続いた。
入らなかったのは自分が休んだからだ。休んだ理由はもう覚えていない。腰ではない。腰が来たのは、そのあとだ。
言えなかった。
三か月ぶん言わなかったので、四か月目には、言い出す場所がなくなっていた。
ある日、帰らなかった。
泊まるところがあったからではない。帰る時間に駅のベンチに座っていて、次の電車に乗らなかった。それだけだ。次の日も乗らなかった。三日目には、帰れなくなっていた。
出ていくと決めた日は、一日もない。
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息子は、それを訊かなかった。
二度来て、二度とも訊かなかった。何をしているとも、どこに住んでいるとも言わなかった。中西も訊かなかった。訊いたのは一つだけだ。
佳代は、元気か。
元気か以外は訊けない。訊けば、こちらが何か言う番になる。
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訊かれなかったので、中西はその十年を一度も順番に並べたことがない。
今日、扉が閉まってから初めて並べた。
三か月、言わなかった。一日、乗らなかった。三日で、帰れなくなった。
並べてみたら、短かった。
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畳の上の四万円を、中西は三日そこに置いたままにした。
四畳半で、四枚の紙を避けて歩いた。避けられる広さではない。それでも避けた。
四日目に、一枚だけ使った。
腰を見せに行った。この十年で二度目だ。初診で五千円ちょっと取られて、レントゲンを撮って、湿布を出された。
「重いものは持たないでください」
持っていない。持っていないのに悪くなる。そのことは言わなかった。
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残りの三枚は封筒に入れて、カレンダーの裏に貼った。
返そうと思った。
返す先を知らない。訊かなかったからだ。
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家を出て、外階段を下りた。
一段ごとに金属が軋む。上るときと同じ音だった。三月の風がまだ冷たい。この街は平らで遠くまで見える。見えるものは何もない。
封筒はカレンダーの裏にある。
返す先を知らないので、まだある。




