貸してくれ
二度目に行ったのは、二週間後だった。
行く理由は自分でもよく説明できなかった。一度目で終わりにするつもりだったし、実際終わっていた。あの部屋で分かることは、もう全部分かっていた。
それでも行った。行った日に俺は菓子折りを持っていった。駅前の店で買った2,800円のやつだ。持っていくと決めたのは、電車の中だった。
どこで覚えたのかは、はっきりしている。母だ。
※
二度目のほうが父はよく喋った。
警備の仕事のこと。夜勤が多いこと。腰が悪いこと。去年一度倒れて、二週間休んだこと。休んだぶんの金が出なかったこと。
俺は聞いていた。相槌を打ちながら、頭の片隅でこの人の月収を推定していた。夜勤中心の警備で、五十二歳で、腰が悪い。手取りで16万から18万。家賃が32,000。
推定しながら、自分がそれをやっていることに気づいて、少し気持ちが悪くなった。
※
「拓実」
「はい」
「お前、金あるのか」
俺は湯呑みを持ったまま止まった。持っていったインスタントの茶を父が淹れて出したやつだ。
なんで、と訊きたかった。訊く前に答えが分かった。
俺の靴だ。玄関に脱いだ靴をこの人は見ている。私服で来たつもりだったが、靴だけは二か月前に買ったものだった。それと菓子折り。2,800円の箱を高校生が持ってくる。
この人はそういうことを見る。見て計算する。
※
「少しは」
俺はそう答えた。
「貸してくれないか」
父は畳を見ながら言った。顔は上げなかった。
「いくら」
「……十万」
俺は鞄から財布を出した。財布には四万しか入っていなかった。
「いま、四万しかないです」
「いい。それでいい」
※
俺は四万円を畳の上に置いた。
置きながら、自分が何を感じているかを確かめようとした。何も出てこなかった。怒りも、悲しみも、優越感も、何もなかった。
ただ手続きをしていた。
父はその四万円を取らなかった。取らずに俺が置いた場所をしばらく見ていた。それから一枚ずつ数えた。数え終わってもう一度数えた。
「悪いな」
ありがとう、ではなかった。悪いな、だった。
※
俺は罵倒しなかった。
十年どこにいたのか、とも訊かなかった。母がどれだけ苦労したか、とも言わなかった。二度と来るな、とも、また来ます、とも言わなかった。
言おうと思えば、全部言えた。言う権利があった。用意もしてきた。
言わなかったのは、優しさではない。言っても、この人の中で何も動かないことが、二度会って分かったからだ。動かない相手に言葉をぶつけるのは、壁に向かって喋るのと同じだ。
俺が十年かけて溜めてきたものは、ぶつける先を失った。失ったものは、消えない。行き場をなくして体の中に残る。
※
帰る前に父は一つだけ訊いた。
「佳代は、元気か」
名前で呼んだ。母さんは、でも、お母さんは、でもなかった。十年ぶりに口に出した名前をこの人はためらわずに使った。
「元気です」
「そうか」
それだけだった。どこに住んでいるのかも何をしているのかも訊かなかった。元気か、という一語でこの人の中では足りたらしい。
俺は母が食堂で十五年働いていることを言わなかった。四階まで買い物袋を提げて上がっていたことも、家賃の通知を引き出しの一番下に入れていたことも、言わなかった。
言えば、この人は「そうか」と言う。そうか、で受け取られるくらいなら、渡さないほうがましだった。
※
もう一つ俺は訊かなかったことがある。
なんで出ていったのか。
十年それを訊くために生きてきたようなところがあった。訊けば、たぶん答えは返ってくる。借金だとか、女だとか、仕事だとか、そういう形のある理由が。
訊かなかったのは、理由を聞いてしまうと、それが理由になるからだ。
形のある理由を渡されたら、俺はそれを受け取るしかなくなる。受け取ったら、十年ぶんの何かがその理由のサイズに縮む。俺が抱えてきたものは、たぶん、そのサイズには収まらない。
収まらないものを抱えたまま帰るほうを俺は選んだ。選んだという自覚はそのときはなかった。
※
部屋を出るとき、父は玄関まで来なかった。
畳の上に座ったまま、「気をつけてな」と言った。俺は「はい」と答えた。扉を閉めるとき、隙間から部屋の中が見えた。四万円はまだ畳の上に置いてあった。
あの金をこの人はいつ片づけたのだろう。
俺が階段を下りるまでのあいだか。それともその日の夜か。あるいは置いたまま何日か、見ていたのか。
どれだったとしても、俺には関係のないことだった。関係のないことを俺はそのあと何年も考えることになる。
※
外階段を下りて駅までの道を歩いた。
三月の風がまだ冷たかった。この街には丘がない。平らで遠くまで見える。俺の家からはどこにいても丘が見えた。ここには何も見えない。
電車に乗って、乗り換えて、川を渡った。川を渡ると、丘が見えはじめる。
その丘を見て、俺はようやく自分が何も感じていないことに気づいた。
※
家に着いたのは、七時前だった。母はまだ帰っていなかった。
台所に俺のぶんの夕飯がラップをかけて置いてあった。母は八時に帰るので、いつも先に作って出ていく。今日は煮物と、焼き魚と、味噌汁。魚は房子さんがくれたやつだろう。
俺はそれを立ったまま食べた。座らなかった理由は、自分でもよく分からない。
食べ終わって皿を洗った。洗いながら、四万円のことを考えていた。たぶん返ってこない。返ってこないこと自体は、どうでもいい。四万は、いまの俺にとって一日ぶんの金額でもない。
どうでもいいと思えることが、いちばん嫌だった。
※
物置に戻って俺は打った。
「会ってきた」
『はい』
「四万貸した。たぶん返ってこない」
『はい』
「……お前、なんか言えよ」
少し間があってこう出た。
『何を言えば、あなたの役に立ちますか』
俺はその一行を長いあいだ見ていた。
役に立つ言葉を出す、という発想しかないのだと、そのとき分かった。慰めも、同意も、この相手にとっては出力の選択肢の一つでしかない。選択肢の中から俺に効くものを選ぶ。効かないなら出さない。
俺は「もういい」と打って、扉を開けて、居間に出た。
母がテレビを見ていた。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/17歳(高2)
資金 5,900,000円
※父に、四万円
演算力 2.1/100
エージェント 4体
目標 —
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