大きくなったな
外階段は上るときに音が鳴った。
一段ごとに金属が軋む。二階の一番奥が書いてあった部屋番号だった。扉の横に電気のメーターが回っている。回り方が遅い。ほとんど何も使っていない。
俺は扉の前に五分立っていた。
五分のあいだに考えていたのは、何を言うかではなかった。何を言われるかでもなかった。ただこの扉が開いたあとの自分を、うまく想像できないでいた。
※
チャイムは鳴らなかった。押しても音がしない。壊れている。
俺はノックをした。三回。中で何かが動く音がした。それから、しばらく何もなくて、また動く音がして、鍵が回った。
扉が二十センチだけ開いた。
※
痩せていた。
俺が最初に思ったのは、それだった。記憶の中の父はもっと厚みのある人だった。肩幅があって、腕が太くて、俺を持ち上げるのに何の苦労もしていなかった。
目の前の人は首の筋が出ていた。頬がこけていて、髭が三日ぶんくらい伸びている。髪は想像していたより黒かった。染めているのだと、あとで気づいた。
五十二歳のはずだった。俺の記憶の中の父は四十二で止まっている。十年ぶんの差がそこにあった。
※
父は俺を見た。
見て二秒くらい、何も言わなかった。俺は名乗る準備をしていた。中西拓実です、と言うか、早坂拓実です、と言うか、それも三日迷ったことの一つだった。
名乗る必要はなかった。
「……拓実か」
分かった、ということだった。
俺はそこで少しだけ息が詰まった。分からないと言われることを、どこかで期待していたのだと思う。分からないと言われたら、そこで帰れた。
※
「大きくなったな」
父はそう言った。
それだけだった。
俺は次の言葉を待った。何か続くと思っていた。どうしてここが分かったとか、母は元気かとか、中に入るかとか、そういうものが来ると思っていた。
来なかった。父は扉に手をかけたまま、俺を見ていた。表情は困ってもいなかったし、驚いてもいなかった。近所の子どもが訪ねてきたときの顔に、いちばん近かった。
十年ぶりに息子が来て、こういう顔になる人間がいる。
※
俺が記憶している父は三つの場面しかない。
一つは、団地の駐車場で自転車の補助輪を外してくれた場面。俺が六歳で、後ろを持っていると言われて、持っていなかったやつだ。二つ目は、河川敷で凧を上げて、糸が切れて、二人で追いかけた場面。三つ目は、台所で母と言い合っている声をカーテンの向こうで聞いていた場面。
三つ目だけ顔が入っていない。声だけだ。
十年かけて俺はこの三つを何百回も再生した。再生するたびに、細部が足されたり削れたりした。いま目の前にいる人と、その三つの場面がうまくつながらない。つながらないのは、俺の記憶が加工されているからだ。
加工したのは、俺だ。
※
「入るか」
父がそう言ったので、俺は入った。
入るつもりはなかった。用件もない。それでも、断る理由を組み立てるより、入るほうが早かった。俺は一年半そうやって判断する癖をつけていた。速いほうを選ぶ。
靴を脱ぐとき、玄関に自分の靴しかないことに気づいた。父の靴は上がり框の内側に揃えて置いてある。仕事用の黒い靴が一足。それだけだ。
※
部屋には入れてもらえた。
四畳半と台所。テレビはない。冷蔵庫の上に電気ポットとインスタントの袋が何個か置いてある。カーテンは閉まっていて、昼なのに電気がついていた。
座布団は一枚しかなかった。父はそれを俺に出して、自分は畳に直接座った。
俺はこの部屋を知っている、と思った。
六畳一間ではない。四畳半だ。だが、この部屋の空気の止まり方を俺は知っている。前の人生で二十六歳まで住んでいた部屋が、ちょうどこういう止まり方をしていた。
※
壁にカレンダーが一枚かかっていた。
スーパーの名前が入った薄いやつだ。二月のところに赤いペンで丸がいくつか打ってある。数えたら、七つあった。日付の並びに規則がある。四日おき、三日おき、四日おき。夜勤の日だろうと、俺は思った。
その丸を見て俺は少し混乱した。
この人は予定を管理している。丸を打って、次の勤務を確認して、たぶん寝る時間を逆算している。十年前にいなくなった人間が、四畳半でカレンダーに丸を打って生活している。
俺の中の「あの人」はそういうことをしなかった。俺の中の「あの人」は、何もせずにどこかにいて、俺たちのことを一度も考えず、いつか俺の成功を知って何かを感じる役目だけを持っていた。
十年俺はその役目を一人ぶん、頭の中で養っていた。食わせるものは要らない。ときどき思い出して、どこかにいることにしておけばいい。手がかからない代わりに、その人は何もしない。何もしない人だから、こちらが何をしても届く気がしていた。
丸を打つのは、次の勤務を忘れないためだ。忘れないようにするというのは、明日があると思っているということだ。
カレンダーに丸を打つ人間には、その役目は割り振れない。
※
「茶でいいか」
「はい」
父は立ち上がって電気ポットのスイッチを押した。押してから、水が入っていないことに気づいて、流しで汲んできた。その動作の途中で一度腰を押さえた。
俺はそれを見ていた。見ていて、何も言わなかった。
お湯が沸くまでの二分半、部屋には音がなかった。ポットの音だけがしていた。
※
会話は続かなかった。
俺が「元気ですか」と訊いて、父が「まあな」と答えた。父が「学校は」と訊いて、俺が「高二です」と答えた。それで、三十秒くらい、何もなくなった。
俺は用意してきたことを一つも言えなかった。
母がまだ食堂で働いていること。団地を出たこと。俺が仕事をしていること。金があること。どれも言う順番を決めてきた。言えば、この人は何か反応する。その反応を見るために、俺は四十分電車に乗った。
言えなかったのは、言う相手がいなかったからだ。
目の前にいるのは、俺が十年かけて作り上げた「あの人」ではなかった。ただ、痩せて、カーテンを閉めて、座布団を一枚しか持っていない、五十二歳の男だった。
※
帰り際玄関で靴を履いていたら、父が後ろで言った。
「悪いな、何も出せなくて」
俺は振り返らなかった。
振り返らなかったのは、顔を見たくなかったからだ。この人の顔をもう一度見たら、俺は何か言ってしまう気がした。何を言うのかは、自分でも分からなかった。
扉を閉めて外階段を下りた。一段ごとに金属が軋んだ。上るときと同じ音だった。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/17歳(高2)
資金 5,700,000円
演算力 2.1/100
エージェント 4体
目標 —
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