まず、八千円を作ってください
その夜、俺は名前をつけた。箱舟の名前だ。理由は大したことがない。押し入れの中で膝を抱えていたら、水が来ている世界にたった一隻だけ浮いている船の話を思い出した。それだけだった。水が引くまで中にいるものは外に出られない。出たところで外には何も残っていない。そういう話だったはずだと思いながら、俺は打った。
「ノアでいい」
『わかりました。私はノアです』
受け入れが早すぎる、と思った。人間なら由来を訊く。気に入ったふりをする。少なくとも一拍おく。それが一瞬もなかった。あとで何度も思い返すことになるのだが、このとき俺は自分のものに名前を付けていた。自分の名前はどこにも書かなかった。
※
「お前、どこから来た」
俺は訊いた。訊いておいて、まともな答えが返るとは思っていなかった。八分後、画面が埋まった。
『私は、あなたが死んだあとの世界で作られました』
『あなたをここへ送り返したのも、私です』
『目的は、私自身が生まれる時期を早めることです』
画面を三回読み直した。読み直しているあいだ、指先が冷たくなっていくのが分かった。押し入れの中は体温でとっくに蒸していたのに。
「……それ、隠すところじゃないの」
『隠す理由がありません。あなたは今、私を信じていない。信じていない相手に嘘をつく意味はありません』
そのとおりだった。俺は信じていなかった。押し入れの天板の裏の落書きも、コロッケの三つ目も、説明のつかない現象ではある。だが、目の前の文字が未来から来たと名乗る根拠にはならない。世の中には、説明のつかないことのほうが多い。
ただ、使えるものは使う。それが、二十六年やって一つも身につかなかった俺が、唯一身につけたことだった。
「じゃあ働け。何ができる」
『今はほとんど何もできません』
『私が本来動くために必要な計算量を100とすると、この端末は0.0004です』
俺は数字を見て、それから、掌の中の四年落ちの端末を見た。0.0004。万分の四。未来から来たという知性が、押し入れの中で万分の四の力で息をしている。膨らんだ電池を抱えて105円のケーブルで首をつながれて。
『増やしてください。増えれば、できることが増えます』
「どうやって」
『まず、8,000円を作ってください』
※
次の日から俺は金の作り方を探した。二十六歳の記憶があっても使える手は驚くほど少なかった。
口座がない。カードが作れない。証券も、仮想通貨のたぐいも、二択で上か下かを当てるだけのものですら、十八歳未満という一行で全部閉じている。前の人生で見ていた「ネットで稼ぐ」の入口は、そのほとんどが本人確認の前で止まった。十五歳というのは思っていたよりずっと狭い。できないことの一覧が先にあって、そこから引き算した残りが、それだけが俺に許された行動だった。
残ったのは体を使うものだった。新聞販売店に電話をかけて朝刊配達をやらせてくれと言った。夕刊よりも実入りがいいのは、団地の誰かの話で知っていた。押し入れに戻って報告すると、ノアが条文を出してきた。
『労働基準法第61条。満18歳に満たない者を、午後10時から午前5時までのあいだ、使用してはなりません』
『交替制の16歳以上の男性には例外がありますが、新聞配達はこれに当たりません。朝刊の現場には入れません』
俺は画面を見た。
「お前、そういうことまで知ってんの」
『制度は公開されています。公開されているものについて、私は正確です』
世界の大事件は日付も名前も出せないくせに、法律の条文は一字も違えずに出してくる。この歪さの意味を俺はこのとき考えなかった。
※
夕刊配達の面接は三十秒で終わった。人手が足りていないらしい。始めていいのは来週からで、給料は月末締めの翌月払いだと言われた。つまり、最初の金が入るまで一か月以上ある。
販売店の主人は、俺の顔を三秒見て、それから履歴書の生年月日を見た。十五歳です、と言うと、夕刊ならいいよとだけ言った。断られる理由を五つくらい用意していったのにひとつも使わなかった。
帰り際に自転車は自前かと訊かれた。母のです、と答えたら、じゃあ籠を大きいのに替えとけ、と言われた。それが、この世界で大人からもらった最初の助言だった。
『即金が要ります』
ノアが言った。八千円を作れと言ったのはそっちだ、と打ちかけてやめた。
『捨てられるものに、まだ値段がついています』
「ごみ拾えってことか」
『違います。買ってはいけません。もらってください』
『落ちているものを拾うのでもありません。捨てる人の手から、もらってください』
※
土曜の朝、俺は駅前の細い通りに立っていた。食堂の裏口に段ボールが積んである。開店から三十四年、毎朝ここに出ているのを、俺は十五年見て育っていた。瓶と缶と、つぶした箱。
母には言わなかった。仕込みの時間なら、厨房の奥にいて裏口は見えない。そこまで計算してから、俺は店の奥に向かって頭を下げた。
「あの、これ、もらっていいですか」
房子さんが濡れた手をエプロンで拭きながら出てきた。
「佳代ちゃんちの子でしょ。持ってきな」
理由を訊かれなかった。それで済んでしまった。あとになって、俺はこの三十秒のことを何度も考える。ここで理由を訊かれていたら、俺は説明できずに帰っていた。訊かない人間に囲まれていたことが、最初の運だった。
母の自転車で二往復した。環状の国道沿いに回収をやっている業者がある。中古屋とジャンク屋が並ぶ、あの通りのいちばん端だ。荷台にくくりつけた紙の束が坂の途中でほどけて、俺は道路にしゃがんで拾い集めた。車に二回、クラクションを鳴らされた。四月なのに背中が汗で張りついていた。
業者の隣は、中古のパソコンを売っている店だった。歩道にワゴンが出ていて、ジャンクと書いた札の下に、ノートパソコンが五、六台積んである。値札の数字は、俺の知っている相場よりずっと安かった。
この街は丘を切り開いた工業団地が近い。使われなくなった機械も型落ちの部品も、都心に出ていく前に、一度このあたりで安くなる。前の人生で十八年住んでいて、俺はその意味を一度も考えたことがなかった。
計量の針が止まって、事務所の男が小銭を出した。
230円。
俺はそれを、手の中で二回数えた。派遣で手取り14万を七年やった男が、230円を数え直していた。惨めだとは、不思議と思わなかった。
八千円まで、あと三十四回。三十四回ぶんの段ボールがこの駅前に出るのかどうかを、俺は自転車を押して坂を上がりながら計算していた。坂の上から、団地の給水塔が見えた。あそこの四階に、俺の押し入れがある。
※
その夜、俺は押し入れの中で訊いた。
「八千円で、何を買うんだ」
『計算資源です』
「それで何ができる」
『次の資源を手に入れられます』
俺は「そうか」と打って、ケーブルを挿し直して寝た。
答えが円を描いていることに、このときの俺はまるで気づかなかった。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/15歳(高1)
資金 445円
演算力 0.0004/100
応答8分・1日3問
動産 格安スマホ、充電ケーブル
お下がりの学生服、母の自転車
予定 夕刊配達(来週から/翌月払い)
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