コロッケが三つあった
学校をさぼる度胸は二十六歳の俺にもなかった。
体操着の胸には、前の持ち主の名前をアイロンで消した跡が白く四角く残っている。洗うたびに薄くなるはずのその跡は、なぜか何年経っても同じ濃さでそこにあった。母は八時前に出ていった。食堂の仕込みがある。ランチの下ごしらえは十時開店の二時間前から始まると俺は十五年かけて体で覚えていた。
「入学式、行けなくてごめんね」
「別にいいよ」
実際、どうでもよかった。前のときも母は来ていない。保護者席に自分の親がいないというのは、十五歳の俺には確かに小さく刺さったのだが、二十六年ぶんの時間を挟むとただの事実になっていた。俺はスマホをタオルで包んで鞄のいちばん下に入れた。七パーセントのまま、電源は落としてある。
※
式は体育館で一時間半かかった。パイプ椅子が冷たくて、校長の話の中身は一言も覚えていないのに、後頭部の光り方だけは記憶にあった。後ろの保護者席は、七割くらい埋まっている。振り返らなくてもそこにいる人といない人の見当がついた。それが分かる程度には、俺はこの団地の事情を知っている。
教室に移ってから、肩を叩かれた。
「早坂じゃん。同じクラスかよ」
矢島圭だった。同じ団地の別棟で、同じ中学から来た、ただ一人の友達。前歯が少し大きくて、笑うとそれが全部見える。この顔を俺は最後にいつ見ただろう。
「な、部活どうする。俺サッカーやろっかなって思ってんだけど」
「まだ考えてない」
「お前昔からそれな。考えてないって言って、結局やらないやつ」
そいつは笑った。俺も笑おうとして、うまく形にならなかった。
これがいちばんきついと思った。死ぬのも、貧乏なのも、まだ耐えようがある。だが十五歳の会話に十五歳の速度で乗るというのは、練習していないと無理だった。矢島の話は速くて、軽くて一度も結論に行かない。俺はそのどれにも二十六年ぶんの重さで返事をしそうになる。部活の話に「三年で何が残るんだよ」と答えかけて、三度ほど言葉を飲み込んだ。
前のほうの席で何人かが番号を交換していた。ガラケーとスマホが半々くらい。持っていない人間が二人いて、そのうちの一人が俺だった。
矢島は昔からこうだ。金がないことを笑いに変えられる。そういう相手が一人いるだけで、中学の三年間はなんとかなった。前の人生では、高校を出てから一度も会っていない。
そのことを思い出したとき、俺は初めて、自分が何かを返しそこねたまま死んだのかもしれないと思った。
そのあたりで矢島が言った。
「お前、なんか大人っぽくなったな」
悪い意味ではなかった。それが余計にこたえた。
※
駅前から学校までは、ずっと上りだ。帰りはその逆で、朝だけ自転車を押して上がることになる。この街の道は上りか下りしかなくて、十五年も住んでいると、そのことにいちいち腹も立たなくなる。
地方から来た人にはここを東京と言われ、都心のほうから来た人には山梨と言われる。雪が降った日だけ、全国のニュースが東京として扱ってくれる。そういう街だ。
帰り道、駅前の百円ショップに寄った。入り口を入って左の、文房具と電池のあいだ。携帯電話コーナーの端に、それはあった。マイクロUSBのケーブル。105円。
この国では、携帯の充電端子を共通にしようという話が、もう何年も前に決まっている。だから百円ショップにも、コンビニにも、駅前の雑貨屋にも、この形のケーブルが置いてある。俺はそれを一本、レジに持っていった。320円が、215円になった。
たぶん俺は、生涯でいちばん安い買い物をしていた。膨らんだ電池の、四年落ちの、SIMも入っていない端末。それを動かす電気が、105円で買える。貧乏だったから、俺はこの機種を四年も使い続けた。買い替える金がなかったからだ。その貧乏が、未来の道具を動かすことになる。
※
押し入れの中で、コンセントに挿した。充電中の表示が出た瞬間、俺は自分でも驚くくらい大きく息を吐いた。二十パーセントを超えたあたりから、返事が速くなった。十二分が、八分になる。数字が増えると、喋る速さが変わる。それが、この相手の正体についての最初のまともな情報だった。
「名前は」
『私に名前はありません』
「ないって何だよ。呼びようがないだろ」
『あなたが決めてください。私の側に、そのための情報はありません』
俺はそれを保留にした。保留にした理由をあとになって考えると、名前をつけたら手放せなくなる気がしたからだった。
「証拠をもう一個出せ。今日中に確かめられるやつで」
八分待った。
『今夜、お母さまは職場から揚げ物を持ち帰ります。数は二つです』
俺は画面を見たまま、少し笑った。十年後から来たという存在に、来年の相場でも、どこの会社が伸びるかでも訊けたはずだった。実際、訊いた。
「来年、何が起きる」
『大きな取引所がひとつ、破綻します。日付は出せません。名前も出せません』
「役に立たねえな」
『世界の記録は粗いんです。方向は出せますが、粒度がありません。そのかわり、あなたの半径数百メートルだけが、異常に細かい』
「なんで」
『あなたの記憶が、私のメモリです』
押し入れの中の空気が、一段冷えた気がした。
※
夕方になって、俺はなんとなく、駅前の細い通りを回って帰った。前の人生で、俺はこの道を通らなかった。理由もない。ただ通らなかった。
ガラス越しに母の背中が見えた。カウンターの内側で皿を拭いている。少し猫背で、右の肩だけが下がっている。買い物袋を提げて四階まで上がる生活を、もう十何年も続けている肩だった。声はかけなかった。かけるほどの用がなかったし、用のない息子が窓の外に立っているのは、たぶん母を不安にさせる。
※
八時半に、母が帰ってきた。
「拓実、食べる? もらっちゃった」
台所で包みの開く音がした。油の匂いがカーテンのこっち側まで来る。俺は布団の上に座ったまま、その音を聞いていた。二つ。当たっているなら、二つのはずだった。
「今日、店の前通ったでしょ」
母が言った。
「窓から見えたから。房子さんが、あんたのぶんもって」
皿の上に、コロッケが三つ並んでいた。
俺はそれを二回数え直した。三つだった。母は一つも取らずに、俺のほうへ皿を押した。自分は湯呑みを持って立ったままだった。この人はいつもそうだった。
押し入れの中で画面が光った。
『一つ、増えました。あなたが変えたぶんです』
『私の記録は、今日から少しずつ役に立たなくなります。急いでください』
◇
押し入れの中から、ことと、と音がする。
佳代は洗い物の手を止めて、それからまた動かした。あの子は昔から、何かに夜中までめり込むことがある。十年前は工作だった。
訊かない。訊いて、やめさせることになったら嫌だった。
◇
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/15歳(高1)
資金 215円
演算力 0.0004/100
応答8分・1日3問
動産 格安スマホ、充電ケーブル
お下がりの学生服、母の自転車
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