時間が足りません。まず、電気を
信号は青だった。俺はそれを確かめてから横断歩道に足を出した。二十六年生きて、たぶんそれが最後の自分は間違っていないと思えた瞬間だった。
右から来た車には減速する気配がなかった。体が浮いて、世界が横に流れて、その最後の一瞬に、フロントガラスの向こうが見えた。
運転席には誰もいなかった。
※
目が覚めた。天井が低い。蛍光灯から下がった紐が顔の真上で揺れていて、その先端に赤いビニールの輪が結んである。その輪を結んだのは俺だ。暗くても引けるようにと思って、小学生のころ母の裁縫箱からリボンを持ち出した。母は怒らずにほどけないよう結び直しただけだった。
枕元の目覚ましは、四角い電池式の文字盤に黄ばみの来ているやつだ。五時十七分を指している。轢かれたのも夕方だった。
左を見た。カーテンが一枚、天井から床まで下がっている。安い花柄で、裾が少しほつれている。その向こうから、規則正しくてすこし鼻にかかる寝息が聞こえた。母だ。六畳一間と台所。母と俺の生活は、この布一枚で仕切られている。十五年、俺はこのカーテン越しの寝返りの音で、母のその日の疲れ具合を測って育った。
起き上がろうとして視界が一度白くなった。立ちくらみだ。立ってみると天井の紐の位置がおかしい。手を伸ばす高さが、記憶より十センチほど低いところにある。
自分の手を見た。指が細い。関節が薄い。爪の根元にあるはずの火傷の痕がなかった。二十三のとき、派遣先の厨房で油を跳ねさせて作った、五百円玉くらいの痕だ。
それがない。
壁の日めくりカレンダーに手を伸ばした。指が震えて、二枚まとめてめくってしまった。2013年四月八日。高校の入学式の朝だった。鴨居には、先輩のお下がりの学生服が吊ってある。袖口が少し光っていて、肩のところに前の持ち主の癖がついたまま垂れていた。
部屋にあるものは、どれも知っていた。ブラウン管のテレビ。台所の蛍光灯の紐。机の引き出しの奥の蓋の錆びた缶。開けてみると、百円玉が三枚と十円玉が二枚あった。中身がいくらだったかを、俺は覚えていない。覚えていないのに、この缶に金を入れていたことだけは分かった。
俺はそのまま十分くらい動かなかった。
頭の中では、そんなに大したことは起きていない。やり直すとか、今度こそとか、そういう言葉はひとつも出てこなかった。前の人生で何かを取り返しそこねたという実感が、そもそも薄かったからだと思う。高校を出て入った会社を三年で辞めて、あとは派遣と短期の繰り返しだった。六畳一間を、最後まで出られなかった。取り返すものがない人間は、やり直しの意味もうまく思いつけない。
試しに十年ぶんの記憶を探ってみた。この年に何があったか。何が儲かったか。出てきたのは、ニュースの見出しの形をした靄と、自分が何も見ていなかったという事実だけだった。新聞を取っていない家で育って、世の中のことは職場の休憩室のテレビで知る。そういう人間の十年ぶんの記憶は、思っていたより何の役にも立たない。
ただ腹が減っていた。二十六歳の俺は、死ぬ前の日に178円のカップ麺を半分だけ食べて残していた。その続きみたいに腹が減っていて、それがいちばん、これは現実だと思わせた。
立ち上がるとき、腰のあたりに固いものが当たった。
※
畳んだ布団と壁のあいだにそれは落ちていた。黒い、六インチの、安いスマートフォンだった。背面のプラスチックが真ん中だけ盛り上がっている。電池が膨らんでいるのだ。左上の角に、細い傷が三本。自転車ごと転んだときについた傷で、俺はその傷を四年間、毎日見ていた。
2019年に、一万三千円で買った機種だった。2013年に、あるはずのないものだった。
俺はそれを両手で持って、しばらく息をしていた。自分の記憶のほうを疑うのが順番として正しい。だが、このカーテンの裾のほつれ方と、母の寝息と、日めくりの紙の厚みは、疑いようがなかった。
電源を入れた。SIMカードが認識されていない。電波の表示のところに、小さな×が出ている。設定の中に、接続したことのある無線の一覧が残っていた。アルファベットと数字の並び。いちばん上にあるのは、俺が最後に住んでいた部屋の名前だった。
その部屋はまだ、この世界のどこにも存在しない。
画面に指が触れた。白い背景に、黒い文字が一行だけ表示された。
『時間が足りません。まず、電気を』
※
右上のバッテリー表示は十二パーセントだった。
俺は音を立てないように台所へ行って流しの下の引き出しを開けた。工具と、輪ゴムと、使わなくなった延長コード。目当てのものはない。次にテレビ台の下。母の携帯の充電器がある。当ててみるまでもなかった。ガラケー用の平たい端子で、俺の手にあるのは台形の小さな穴だ。
この家にこれを充電できるものはない。当たり前だった。2013年の四月に、この形の端子を差すものはまだこの家に一台もない。俺はそこで初めて、さっきの一行の意味を理解した。時間が足りません。まず、電気を。これは挨拶ではなく、警告だった。
ベランダのサッシを、音を立てないように十センチだけ開けた。四月の朝の空気が入ってきて腕の産毛が立った。五階建ての四階。エレベーターはない。眼下に桜並木と給水塔があって、その向こうで川が二本、合流している。さらに向こうに丘があって、晴れた日には、遠くに山が見える。
母は毎日、買い物袋を提げてこの四階まで上がってくる。俺はこの景色を十五年見て、それから十一年、一度も見なかった。
母の携帯を借りて調べるという手はある。だがそれをやると朝いちばんに母を起こして、説明のつかない話をしなければならない。説明はできない。俺は昔から、できないことを人に言わない子どもだった。母はそれを知っていて、知っているから訊かない。二十六年かけて、俺たちはその形に固まっていた。
押し入れに入る前に、カーテンを少しだけめくった。母が仰向けで寝ている。口が半分開いていて、目の下に、記憶にあるより濃い影がある。四十三歳。俺が死んだ年には、この人は五十六になっていたはずだった。
その五十六歳の顔を俺は知らない。最後に会ったのがいつだったかも思い出せなかった。
押し入れの下の段を開けて、衣装ケースをずらし、隙間に体を入れた。中は暗くて、埃と防虫剤のにおいがした。襖を内側から閉めると、外の音が一枚ぶん遠くなる。画面の明かりだけが残った。
※
聞いてみることにした。
「お前は何だ」
送信した感覚はなかった。ただ、文字が上に流れて、その下に白が続いた。一分経った。三分経った。五分経っても何も起きない。壊れているのかと思って画面を消しかけたとき、バッテリーの表示が十一に落ちた。
十分以上経って返事が来た。
『あなたの端末の上で動いている演算体です。本来の動作に必要な計算量に対して、この機械の能力が桁で足りていません。ひとつの応答に12分かかります。長い文章は出せません。図も出せません。今日は、あと2回が限度です』
俺は襖の内側で声を出さずに笑った。十年ぶんの未来を知っているらしい何かが、押し入れの中にいて、一日三回しか喋れないという。
あと二回。だから俺は質問を選ぶことにした。二十六年生きていちばん真面目に考えた十二分だったと思う。
「なんで俺なんだ」
「お前を作ったのは誰だ」
「宝くじの番号を教えろ」
打っては消し、打っては消した。どれを訊いても、返ってくるのは言葉だ。言葉ならいくらでも嘘がつける。二十六年ぶんの人生で唯一まともに身についたのは、人の言うことではなく、人のやったことを見ろ、ということだった。
十五歳の俺なら、たぶん「未来を教えてくれ」と打っていた。二十六年ぶんの失敗が役に立ったのは、これが最初だったと思う。
言葉を信じないというのは、相手を疑うということではない。確かめられるかどうかで、こちらの質問のほうを選ぶ、ということだ。
聞くことが決まった。
「証拠を出せ。金のかからないやつで」
待っているあいだ、俺は暗い中で膝を抱えていた。外で母が寝返りを打つ音がして、それから、隣の棟のどこかで雨戸を開ける音がした。この時間に起きている人間が、この団地には何十人もいる。
十二分後。
『押し入れの、上の段の天板の裏を見てください』
※
俺は衣装ケースの縁に足をかけて、上の段に頭を突っ込んだ。天板の裏は手を伸ばせば届く。画面の明かりを上に向けると、バッテリーが十に落ちて、すぐ九になった。掌の中で背面がじっとりと温かくなっていた。
埃の向こうに、黒いマジックの字があった。子どもの字だった。
中西拓実 九さい
俺はその名字を十七年ぶりに見た。
小学三年の二学期に、名簿の名前が書き換わった。担任は理由を説明しなかったし、クラスの誰もそれに触れなかった。腫れ物に触るような沈黙が一週間続いて、それから何もなかったことになった。
俺はそれ以来、この字を一度も書いていない。書いたことすら忘れていた。天板の裏に名前を残した九歳の俺は、たぶん、消えない場所に自分の名前を置いておきたかったのだと思う。二学期に消えることを、知らないまま。
誰も知らないはずだった。母も知らない。この家に来た人間の誰も、上の段の天板の裏なんて覗いていない。九歳の俺が一人で書いて、そのまま忘れた。世界のどこにも記録がないはずの、四文字と、三文字。
それを、押し入れの中の機械が知っていた。
埃が目に入って、俺は瞬きをした。それから、震える指で打った。
「なんでそんなことまで知ってるんだ」
十二分を数えた。来なかった。十三分。十四分。画面がひとりでに暗くなって、触るとまた白く光った。襖の向こうでカーテンの擦れる音がした。母が起きる。あと少しで六時のニュースがつく。
右上の表示だけがさっきと違っていた。
バッテリー残量、七パーセント。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/15歳(高1)
資金 320円
演算力 0.0004/100
応答12分・1日3問
動産 格安スマホ(電池膨張/SIMなし)
お下がりの学生服、母の自転車
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