使わねえかい
一月に俺は初めてスーツを買った。
稜和精機の仕事が、生産計画から在庫の管理全体に広がって、月に一度会議に呼ばれるようになったからだ。出席するのは黒田さんと、工場長と、経理の人。そこに十七歳が学生服で座っているのは、俺の側の問題ではなく、黒田さんの側の問題になる。
そう言ったら、黒田さんは「気にすんな」と言った。気にしない人だから、俺が気にすることにした。
駅前の紳士服の店でいちばん安い吊るしを買った。39,000円。直しが二日かかると言われて、その二日で会議が終わってしまったので、初めて着たのは二月だった。
※
鏡の前で袖を通したとき、俺は自分の顔を見た。
十七歳の顔に二十六年ぶんの記憶が入っている。その組み合わせは鏡ではまったく分からない。スーツを着た高校生が立っているだけだ。前の人生で俺はスーツを二着しか持ったことがない。就職のときに買ったのと三年で辞めたあとに一度も着なかったのと。
母は俺がスーツを着て出ていくのを見て、何も言わなかった。
玄関でネクタイの結び目を直してくれた。母がどこでネクタイの結び方を覚えたのかは、訊かなかった。父が失踪したのは十年前で、その前のことを俺はほとんど覚えていない。
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旧第二工場へ連れていかれたのは、二月の会議のあとだった。
稜和精機の敷地は、丘を切り開いた工業団地のいちばん奥にある。手前に本館と第一工場があって、そこから二百メートルほど、舗装が途切れた道の先にもう一つ建物がある。
「使ってねえんだ、五年」
黒田さんは鍵を出しながら言った。鍵は錆びていて回すのに両手が要った。
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中は思っていたより明るかった。
天井が高い。屋根の一部が半透明で、二月の昼の光が埃の柱になって落ちている。床はコンクリートで、機械を据えていた跡が四角く残っていた。跡だけがあって、機械はない。売ったのだと、黒田さんは言った。
広さは体育館くらいあった。俺の物置が三畳だ。何倍かを計算しようとして途中でやめた。桁が違いすぎて比較に意味がない。
「電気は、まだ生きてる」
黒田さんは壁の分電盤を指した。動力の太い線が三本引き込まれている。工場を動かしていたころの容量がそのまま残っている。
俺はその線を見ていた。見ているあいだ、何も考えていなかった——と言いたいが、嘘だ。俺は単相二百ボルトを引いたときの86,000円とこの三本を比べていた。
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「使わねえかい」
黒田さんは、そう言った。
条件の話はそのあと五分で終わった。固定資産税と、保険と、最低限の維持費。それだけ払ってくれれば、あとは好きにしていい。うちは、ここを持っているだけで毎年金が出ていく、と黒田さんは言った。
「なんで俺に」
「他にいねえんだよ」
黒田さんは埃の柱のほうを見ていた。
「五年、誰も来なかった。不動産屋にも言ってある。倉庫にしたいって話は二件来て、両方天井が高すぎるって断られた。ここはな、何かを作るためにしか使えねえんだ」
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俺は工場の奥まで歩いた。
足音が返ってくる。物置では足音は返ってこない。三畳の部屋で音は壁に吸われて終わる。ここでは歩くたびに、二秒くらい遅れて天井から音が落ちてくる。
床の、機械を据えていた跡を数えた。四角い跡が十四個あった。俺の物置にいま十四台ある。数が同じだということに気づいて、俺は少し笑った。笑ってから、この四角い跡の一つが、俺の部屋ぶんの広さだということに気づいた。
笑うのをやめた。
※
「ここ、何作ってたんですか」
「部品だよ。エンジンの中に入るこんなちっちゃいやつ」
黒田さんは指で二センチくらいの幅を作った。
「一個、何円ですか」
「四十二円」
俺はその数字を覚えている。四十二円のものを作るために、この建物と、この電力と、この天井の高さが必要だった。それを五年前にやめた。やめたのは、四十二円が三十八円になったからだ、と黒田さんは言った。
「四円だよ。四円で、ここが止まった」
※
黒田さんは埃の柱の下に立っていた。
「うちの親父の代でここ建てて、俺の代で止めた。順番としちゃ、まあ、そういうもんだ」
俺は何も言えなかった。慰めの言葉はこの人には効かない。効かないことが分かる程度には、俺はこの人と半年やっている。
「けどな」
黒田さんは俺のほうを向いた。
「建物は、残っちまうんだよ」
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その夜俺はノアに全部打ち込んだ。
面積、天井高、床の耐荷重、引き込まれている電力の容量、屋根の材質、給排水、道路からの距離。会議のあいだにメモしておいた数字を二十分かけて入れた。
返事はほとんど間を置かずに出た。
『条件としてはほぼ理想です。特に電力です。あの容量を新規に引くには、数千万円と1年以上かかります』
「だろ」
『ただし、まだ早いです』
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俺は、その一行を見た。
「なんで」
『三つあります。一つ、いま借りると、維持費が毎月の固定費になります。あなたの収入はまだ月ごとの変動が大きい。二つ、あの規模を埋めるだけの機材を買う資金がありません。空のまま借りても、税金を払うだけです』
「三つ目は」
『2016年3月31日です』
椅子の背にもたれた。
あの日付だ。俺の十八歳到達年度末。制度が終わる日。あと十三か月。
『いま動くと、表に出せる所得の抑制が崩れます。工場を借りるというのは、記録が残るということです。記録が残れば、お母さまの側に影響します』
※
「いつなら早くない」
『2016年4月1日です』
日付がそのまま返ってきた。年と月ではなく、日まで。俺はその精度に一瞬だけ引っかかった。
「決まってるみたいだな」
『制度が終わる日は決まっています。決まっていないのは、その日までにあなたが用意できる資金と機材の量です』
※
筋は通っていた。通っていたので、俺は「わかった」と打って、話を終えた。
黒田さんには、その週のうちに断りに行った。いまはまだ手が足りないので、と言った。黒田さんは「そうか」と言って、それ以上何も言わなかった。この人は断られることに慣れている。
帰り道、丘を下りながら、俺は一度だけ振り返った。旧第二工場の屋根が、他の建物より高く出ている。
まだ早い、という言葉の意味を、俺はそのとき考えなかった。
いま考えると、あれは「やらない」ではなかった。「いつやるか決まっている」だった。俺は断ったつもりで、予約を入れていた。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/17歳(高2)
資金 4,900,000円
演算力 1.8/100
エージェント 3体
動産 自作PC×22、ラック3本
スーツ一着(初めて自分で買った服)
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