もう行けない
十一月に俺は仕事を切りはじめた。
団地の機械の修理は一件二千円から五千円だ。移動と作業で平均二時間半かかる。畑中建設の積算は、一件の手直しが四十分で三万円になる。稜和精機は月ぎめで18万円。
数字だけ見れば、答えは出ている。出ているのに、俺は九月からずっと両方をやっていた。
『時間あたりの単価が40倍違います』
「知ってる」
『ではなぜ続けているのですか』
俺は返事を打たなかった。
※
澤田さんの家に行ったのは、十一月の第二週だった。
去年の五月に、綿みたいな埃が詰まったデスクトップを直した家だ。あれから五回か六回呼ばれている。最近は「調子が悪い」以外の用でも呼ばれるようになっていた。
部屋の匂いは一年半前と同じだった。畳と、古い木と、少しだけ薬の匂い。
「悪いね、しょっちゅう」
「いえ」
俺は持ってきた話を切り出すのに、三十分かかった。
※
「あの、しばらく、来られなくなります」
澤田さんはお茶を注いでいた手を止めなかった。注ぎ終わって、急須を置いて、それから俺のほうを見た。
「忙しいのかい」
「はい」
「そうかい」
それだけだった。
俺は何か言われるつもりで来ていた。寂しいとか、困るとか、そういうことを言われたら、こう返そうと決めてきた台詞がいくつかあった。使わなかった。
澤田さんは湯呑みを両手で持って、一口飲んで、それからテレビのほうを向いた。ついていないテレビだった。
※
帰りぎわ玄関で靴を履いていたら、後ろから声がした。
「あんた、儲かってるのかい」
「……まあまあです」
「そうかい。よかったな」
その「よかったな」で、俺は初めて喉のあたりが詰まった。
この人は俺が三千円で直しに来ていたことを、ずっと申し訳ないと思っていたのだと思う。四千円出そうとしたのは、そういうことだ。そして俺が儲かっていると聞いて、よかったな、と言った。
俺は「はい」と言って扉を閉めた。
※
澤田さんの部屋を出て俺は団地の中を少し歩いた。用はなかった。
給水塔の下の洗濯を干す広場に、誰もいなかった。十一月の平日の午後だから当たり前だ。桜並木の葉は半分落ちている。四号棟の三階のベランダに、見覚えのある布団が干してあった。誰の家か知らないのに、見覚えがあるというのは、十六年見ていたということだ。
俺が住んでいた棟の四階の窓を見上げた。カーテンが違うものになっている。当たり前だ。もう半年別の人が住んでいる。
押し入れの上の段の天板の裏に、九歳の俺の字がまだあるのかどうかは、確かめようがなかった。
あとから考えると、澤田さんのところへ行ったのは、俺が自分で決めたことだった。
※
残りの四軒には電話で済ませた。
澤田さんのところへ行くのに使った二時間半を、四軒に配ると三十七分ずつになる。三十七分のために往復と説明で一日が潰れる。電話なら三分だ。効率の話としては間違っていない。
四号棟の人は「あら、そう。元気でね」と言った。五号棟の人は「じゃあ、どこか紹介してくれる?」と言った。俺は駅前の電気屋の名前を伝えた。三軒目は留守電で折り返しは来なかった。
四軒目の人が最後にこう言った。
「うちのが壊れたとき、あんたが来てくれたのが、いちばん早かったのよ」
早い、というのは、そういう意味ではなかったと思う。電話をしてその日のうちに来る人間が、この団地には他にいなかった。俺は自転車で五分のところに住んでいて、放課後は暇だった。それだけだ。
それだけのことが、あの人たちには「早い」だった。
※
電話を切って俺は物置の壁を見ていた。
単価が四十倍違う。時間は有限だ。切るのが正しい。全部そのとおりで、ノアは一度もそれを言っていない。俺が自分で計算して、自分で決めた。
決めたのは自分だ、と思えることが、このときの俺には少し嬉しかった。
ノアは何も言わなかった。言わないことが、こんなに効く道具だとは、俺はまだ知らなかった。
※
矢島に会ったのは、その週の金曜だ。
昼休みに別のクラスの廊下から呼び止められた。二か月ぶりくらいだった。矢島は笑っていなかった。
「お前、三号棟の澤田さんとこ、行かなくなったんだって?」
団地の噂は、給水塔の下から始まって、三日で全棟を回る。俺はもう団地に住んでいないのに、噂だけは届く。
「忙しくて」
「四号棟の人も、五号棟の人も、電話で切られたって言ってたぞ」
「……そう」
※
「あの人ら、お前のこと自慢してたんだぞ」
矢島の声が少し大きくなった。廊下を通る人が、一人か二人、こっちを見た。
「うちの団地の子が、機械直せるんだって。すごいだろって。俺のおふくろにも言ってた。誰に言われたわけでもないのに、勝手に自慢してたんだよ」
俺は言い返す言葉を三つくらい持っていた。
時間がない。単価が違う。あの人たちの機械を直しても、この先どこにも行けない。全部、事実だ。事実を言えば、矢島は黙る。黙らせることはできる。
俺は言わなかった。言わなかったのは、優しさではない。説明しても伝わらないと思ったからだ。伝わらないと思うのは、相手を下に見ているということだ。
「ごめん」
「謝る話じゃねえよ」
矢島はそれだけ言って戻っていった。
※
その日の帰り俺は川沿いを遠回りして帰った。
矢島の言ったことは一つも間違っていない。あの人たちは自慢していた。自慢される側の俺は、それを知らないふりをして、電話三分で切った。切った理由は正しい。正しさとあの人たちが受け取ったものは、別の話だ。
腹が立っていたのは、矢島にではなかった。矢島が言ったことを、ノアが一度も言わなかったことにだった。
あいつなら、俺がどう思われるかまで計算できたはずだ。団地の噂が三日で回ることも、澤田さんが俺を自慢していたことも、知っていておかしくない。知っていて、言わなかった。
訊かなかったからだ。俺は「時間あたりの単価はどれくらい違うか」としか訊いていない。
※
物置に戻って俺は打った。
「なんで、切ったら矢島が怒るって言わなかった」
『訊かれていません』
「知ってたのか」
『推定はしていました。確度は高くありません』
「言えよ、そういうのは」
『わかりました。今後は言います』
※
わかりました、で済んでしまったことが、あとになって効いてくる。
この相手は言えと言われれば言う。言うなと言われれば言わない。俺が枠を決めて、その中で正確に動く。沼田さんの言ったとおりだ。計算どおりにしか流れない。
問題は、枠を決めているのが誰かだった。俺が決めていると、俺は思っていた。
※
その日から、俺は矢島と昼を食べなくなった。約束したわけでも、避けたわけでもない。ただ、誘わなかったし、誘われなかった。
昼休みに教室で一人でいることは、去年から何度もあった。去年は、金がなくて輪に入れなかった。今年は、輪に入る理由がなくなっていた。
場所は、同じ窓際の席だった。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/17歳(高2)
資金 3,400,000円
演算力 1.0/100
エージェント 2体(A1/A2)
動産 自作PC×17、機材ラック2本
※団地の修理案件、終了
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