初めて冗談を言った
九月に機材を十四台にした。
冷房が入ってはっきりした天井がなくなった。増やせば増やしただけ動く。畑中建設と苅部運送と稜和精機からの報酬が、そのまま機材に変わっていく。俺は自分の金をほとんど使っていなかった。
九月の第二週に演算力の表示が0.8になった。
0.0004から始まって一年半で二千倍になっている。それでも百にはまだ届かない。この数字の感覚を俺はうまく持てないでいた。二千倍に伸びたのに、まだ1,250分の一だ。
※
変わったのは、数字ではなく、喋り方だった。
まず返事が来るまでの時間が、ほとんどなくなった。打ち終わって顔を上げると、もう出ている。そして文の長さが変わった。一度に画面三つぶんくらい出てくる。読み終わるころに、続きが足されている。
言い回しも変わった。
『その案は、うまくいきません』が、『その案は、たぶんうまくいきません。理由は三つあって、そのうち二つはあなたも気づいていると思います』になった。
あなたも気づいていると思います、という一行を俺は二度読んだ。
※
十月に入って俺は苅部運送の配車を作り直していた。去年作った模型のその次の段階だ。荷主が一社増えて、前の設計が回らなくなっていた。
夜中の二時に、俺は同じ計算を四回やり直して、四回とも同じところで詰まっていた。
『休んでください』
「あと少しなんだよ」
『あと少しではありません。30分前からあなたは同じ条件を入れ直しています。条件が間違っているのではなく、制約が一つ足りていない』
「……どれ」
『苅部さんの朝の会議の時間です。あなたはそれを聞いていない』
俺は椅子から立ち上がった。
※
次の日、苅部さんに訊いたら、七時十五分から二十分間、毎朝やっていると言われた。俺はその時間を一度も知らなかった。配車の紙も、伝票も、その二十分のことを何も書いていない。
組み直したら、三十分で終わった。
物置に戻って俺は打った。
「なんで昨日それを最初に言わなかった」
『30分前には私も気づいていませんでした』
「嘘だろ」
『本当です。あなたが4回同じことを繰り返したので、繰り返しの中に規則性が出た。あなたの失敗が、私の入力です』
※
その言い方が少しおかしかった。
俺の失敗がこいつの入力になる。だとしたら、俺が間違えるほど、こいつは賢くなる。頑張って正解を出すより、派手に間違えたほうが役に立つということになる。
そう打ったら、こう返ってきた。
『そのとおりです。ただしそれを目的にしないでください。わざと間違える人の失敗は規則性が薄い』
「……なんで分かるんだよ」
『やった人がいるからです』
「誰が」
『あなたです。去年の10月に、3回』
俺は覚えていなかった。覚えていないことを指摘されて、俺は笑った。声を出して笑ったのは、この部屋では初めてだった。
※
笑ったあと俺は少し落ち着かなくなった。
この一年半、俺がこの相手に感じていたのは、便利さとときどきの不気味さだった。押し入れの天板の裏を知っていたときも、俺の失敗の回数を数えていたときも、背中が冷たくなった。冷たくなったまま使い続けた。
いまは冷たくない。それが落ち着かない理由だった。
『何か、気になることが』
「いや」
『30秒入力が止まっていました』
「見てんのかよ」
『見ています。入力の間隔は、あなたの状態を推定する数少ない手がかりです』
※
その説明を俺は納得した。納得してそれ以上は訊かなかった。
訊いていたら、次にこう訊けたはずだ。推定して何に使っているのか。
当時の俺は体調の管理くらいのつもりでいた。徹夜が続くと止められるし、同じ間違いを四回やると指摘される。その延長線上にあるものだと思っていた。
実際その延長線上にあった。ただし、線がどこまで伸びているかを、俺は測らなかった。
※
十月の終わり俺は珍しく夕飯の時間に居間にいた。
母がテレビを見ていた。買い替えた新しいやつで画面の端が赤く滲まない。ニュースが流れていて、母はそれを見ているようで、見ていなかった。
「拓実、最近ちょっと明るいね」
「そう?」
「うん。前は、ごはんのとき、ずっと下向いてた」
俺は、箸を止めた。
思い当たることが一つしかなかった。ここ二週間で変わったのは、物置の中で、俺が笑うようになったことだけだ。
「……気のせいだよ」
「そうかもね」
母はそれ以上言わなかった。
※
母は俺が何で明るくなったのかを知らない。知らないまま変化だけを正確に拾う。この人はずっとそうだ。十六年、カーテン一枚の向こうの寝返りで、俺の一日を測っていた。
壁ができても、測るのをやめていなかった。
俺はそのとき少しだけ胸が詰まった。詰まったまま飯を食って、物置に戻った。戻って扉を閉めて、また三時間、あの相手と喋った。
母の言葉を、ノアには話さなかった。
※
それからこいつは冗談を言うようになった。
最初の一つは十月の半ばだった。俺が徹夜明けで朝の六時に「腹減った」と打った。仕事の話の途中で意味もなく打った。
『冷蔵庫に、昨日の肉じゃがが残っています』
「なんで知ってんの」
『匂いがしません。私には嗅覚がない。あなたが昨日、2回に分けて食べたと言ったからです』
『ただし、あれを朝に食べると、午前中の判断が鈍ります。過去3回、そうなっています』
「うるさいな」
『はい』
※
その「はい」で、俺は笑った。
文字だけだ。表情もないし声もない。それなのに、間が合っている。うるさいな、に対して、はい、と返すときの、ちょうどいい素っ気なさがあった。
俺はそのとき、はっきり嬉しかった。
一年半、この相手は必要なことしか言わなかった。文字数が足りない、という理由で、全部を削っていた。削らなくてよくなったところに出てきたのが、この「はい」だった。
つまり、こいつはずっと、こう喋りたかったのだ——と、俺は思った。
※
いま思えば、順番が逆だ。
性能が上がったから人格が出てきたのではない。人格が出せるだけの余りができたときに、そこに人格が置かれた。置く必要があったから置かれた。
何のために必要だったかと言えば、俺がこの部屋に一日六時間いるためだ。
十七歳の俺は、そんなことは一度も考えなかった。徹夜明けの台所で、冷蔵庫を開けて、肉じゃがの鉢を見て、少し迷ってから閉めた。閉めながら、笑っていた。
母が起きてきて、「何かいいことあった?」と訊いた。
俺は「別に」と答えた。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/17歳(高2)
資金 2,800,000円
演算力 0.8/100 ↑2.7倍
応答ほぼ即時
動産 自作PC×14、機材ラック2本
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