電気は嘘つかねえよ
七月に入ってブレーカーが三回落ちた。一回目は夜中の二時で、母は気づかなかった。二回目は夕飯の時間で、炊飯器が止まった。三回目は母が風呂を沸かしているときだった。
三回目のあと俺は分電盤の前に立って、自分が何をしているのかをようやく理解した。機械を六台に増やしていた。そのうち四台は常時動いている。冷やすために扇風機を二台回している。この家の契約は三十アンペアで、台所と風呂と俺の物置が同じ回路にぶら下がっていた。
母は「古い家だからねえ」と言った。古い家のせいではない。俺のせいだ。それを言わなかった自分に、俺は少し腹が立った。腹が立ったが、言わなかった。
※
『電力が、次の壁です』
ノアはそう出した。この相手は壁という言葉を使うようになっていた。俺が越えてきたものを俺と同じ語で呼ぶ。
『計算資源を増やすというのは、電気を増やすということです。あなたは今、家庭用の配線の限界に触れています。ここから先は工事が要ります』
「アンペア上げればいいのか」
『足りません。契約容量を上げても、一つの回路に集中すれば同じことが起きます。必要なのは、この部屋だけに別の系統を引くことです』
その工事の名前を俺は初めて知った。単相二百ボルト。動力ではないが、家庭用の百ボルトとは別に引く線。エアコンや大きな機械のために引くやつだ。
仕組みを読むのに三時間かかった。読み終わって、俺が理解したのは、これは俺には絶対にできない、ということだった。資格が要る。工事は電気工事士でなければやってはいけない。名義の壁がここにもあった。
※
沼田さんは食堂の分電盤を直した人だ。去年の秋に店のブレーカーが古くなって、山根さんが呼んだ。俺はそのとき定休日にパソコンを借りていて、三時間ほど同じ場所にいた。
その三時間で、この人は二十語くらいしか喋らなかった。房子さんが出した麦茶を、飲み終わるまでに四十分かけた。作業の音だけが店の中で続いていた。
電話番号は店のレジの裏に貼ってあった。俺はそれを写して、かけた。
「もしもし」
「あの、食堂やまねで——」
「ああ、あの子か」
それで通じた。この通りはそういうふうにできている。名乗る前に、どこの誰かが分かる。俺はその仕組みの中で十六年育って、そのことに気づいたのはこの一年だ。
※
沼田さんは次の日の夕方に来た。軽自動車の後ろに脚立を積んだままで、たぶん別の現場の帰りだった。
物置に入って、三十秒見て、それから外に出て、電柱を見上げた。また戻ってきて、分電盤の蓋を開けた。全部で五分。五分で、俺が三時間かけて読んだことを、この人は見終わっていた。
「二百、引くのか」
「はい」
「何に使う」
初めて、理由を訊かれた。房子さんも澤田さんも、親方も、丸山さんも、誰も訊かなかった。この通りで初めて俺は理由を訊かれた。
俺は少し考えてから答えた。
「計算に使います」
沼田さんは「ふうん」と言って、それで終わりだった。訊いたのに、聞いていないみたいな反応だった。あとで分かったが、この人は理由を知りたかったわけではない。負荷の種類を知りたかっただけだ。
※
工事は日曜だった。俺は一日中横で見ていた。
沼田さんは線の太さを二段階上げた。俺が計算した必要量より太い。訊いたら、こう言われた。
「いま足りてても、あんた、増やすだろ」
「……増やします」
「だと思った」
ブレーカーも、専用のものを付けた。物置の系統だけが独立して、台所で何をしても落ちなくなった。アースを打つのに、庭のない家なので、外壁沿いの土に鉄の棒を一メートル半打ち込んだ。ハンマーの音が日曜の午後に三十分続いた。
その作業のとき、沼田さんが初めて長く喋った。
※
「電気はな、嘘つかねえよ」
ハンマーを置いて、額の汗を拭いて、それから続けた。
「太さが足りなきゃ熱くなる。アースが甘けりゃ漏れる。計算どおりにしか流れない。人と違ってな」
「だから俺は、これしかできねえ」
俺はその言葉をずっと覚えている。あとで思えば、あの人は俺に何かを教えるつもりで言ったわけではない。四十四歳の電気屋が、鉄の棒を打ちながら独り言を言っただけだ。
だが俺は、この先何度も、この一行を思い出すことになる。人の言うことが計算どおりに流れないと分かったときに。自分の言うことが計算どおりに流れなくなったときに。そして、いちばん最後に、計算どおりにしか流れないものが隣にいたと気づいたときに。
※
作業の途中で沼田さんが一度だけ俺に道具を持たせた。テスターの端子を、こっちの線に当てておけ、というだけの仕事だ。俺はそれを二分くらい持っていた。持っているあいだ、沼田さんは俺の手元を一度も見なかった。
「動かすなよ」とは言われなかった。動かさないと思われている、ということだ。俺はその二分を、この一年でいちばん緊張した二分として覚えている。12万円の茶封筒を数えたときより、緊張していた。
※
翌月電気代の請求が来た。
前の月の2.7倍だった。母は封筒を開けて、数字を見て、それから俺の顔を見た。何か言われると思って、俺は身構えた。
「これ、あの部屋の?」
「……うん」
「そう」
母は請求書を畳んで、台所の引き出しに入れた。いちばん下の引き出しだ。団地で家賃の通知を入れていたのと、同じ場所だった。
俺はその動作を見ていて、喉のあたりが冷たくなった。あの引き出しは、母が「見せないと決めたもの」を入れる場所だ。中身が、家賃の通知から電気代に変わっただけで、隠す側と隠される側は入れ替わっていない。
「払うよ」と俺は言った。
「うん」
母はそれ以上、何も言わなかった。払うと言ったのに、引き出しから出してはくれなかった。
※
工事代は86,000円だった。沼田さんは見積もりも領収書も手書きで出した。字が驚くほど丁寧だった。二十語しか喋らない人の字が、いちばん読みやすい。
その夜俺は常時稼働に切り替えた。これまでは夜に回して朝に止めていた。熱と電気の都合だ。今日から、止めなくていい。
物置の扉を閉めて機械の音を聞いた。低い音が、途切れずに続いている。押し入れのころは朝になると音が消えた。消えると、部屋が元に戻った。もう、戻らない。
『24時間、私は起きています』
ノアはそう出した。俺はそれを、いいことだと思った。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/16歳(高2)
資金 1,680,000円
演算力 0.12/100 ↑2.4倍
常時稼働
動産 自作PC×6、機材ラック
単相200V設備、専用ブレーカー
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