壁があると聞こえない
母に初めて自分の部屋ができた。東向きの六畳で朝に日が入る。鏡台を窓際に置いて、押し入れに布団をしまえるようになった。団地では布団は部屋の隅に畳んで置くしかなかった。畳んだ布団の上に、いつも何かが載っていた。
引越しの日母は自分の部屋に立って、しばらく何も言わなかった。窓を開けて、閉めて、それからもう一度開けた。俺はそれを嬉しいのだと思っていた。
※
三日目の朝俺は居間で母の布団を見つけた。畳んである。つまりそこで寝ている。
最初は荷解きが終わっていないからだと思った。一週間経っても同じだった。二週間経っても、母は自分の部屋で寝なかった。昼間はその部屋にいる。服をしまうし、鏡台も使う。夜だけ居間に布団を敷く。
俺は、訊かなかった。
※
訊かなかった理由は、二つある。
一つは俺が人に説明しない人間だからだ。説明しない人間は、人にも説明させない。去年の夏、事務所で日報の字が三週間だけ変わっているのを見つけたときも、俺は親方に訊かなかった。訊かないことを俺は思いやりだと呼んでいた。
もう一つは答えが分かる気がしたからだ。分かる気がすることを訊くと、はっきりしてしまう。はっきりすると、何かをしなければならなくなる。何かをするというのは、この場合、母を自分の部屋で寝かせるということだ。そのために何が必要かを俺は考えたくなかった。
俺は何もしないでいい状態を選んだ。選んだという自覚もないまま選んだ。
※
新しい家は静かだった。団地では上の階の足音と、隣の棟の生活音と、給水塔のポンプの音が、いつも背景にあった。夜中でも完全に無音になることはない。ここにはそれがない。二階に人はいるが、造りが古いわりに、音はあまり落ちてこない。
夜になると、物置の機械の音だけが、廊下の奥から聞こえてくる。低くて、途切れない音だ。それ以外は何も聞こえない。
母が起きているかどうかが、分からなくなった。
団地では、カーテン一枚の向こうで、寝返りの音がした。その音の回数で俺は母の今日を測っていた。多い日は疲れている。少ない日は、たぶん何かいいことがあった。言葉で聞いたことは一度もない。十六年そうやって測ってきた。
いまは、壁がある。
※
六月に母がテレビを買い替えようと言った。団地から持ってきたブラウン管が、そろそろ映らなくなるらしい。画面の端が赤く滲むようになっていた。
俺は「買えばいいよ」と言った。金はある。言ってから、自分の言い方が軽かったことに気づいた。母が黙ったからだ。台所に立ったまま、二秒くらい黙った。
「拓実、お金のこと」
「ある」
「……そう」
母はそれで終わりにした。金額を訊かなかった。どこから出ているかも訊かなかった。俺はそのとき訊かないことにしたのだと思っていた。
そうではなかった。母は訊かないことを毎回選んでいた。選ぶというのは、そのたびに迷っているということだ。十六年ぶんの「訊かない」は十六年ぶんの迷いの結果だった。そのことに気づくのは、もっとずっと先になる。
※
六月の三者面談の希望調査で俺は「希望しない」に丸をつけた。母は仕事だし、話すことがない。
担任は何も言わなかった。言わなかったことを、俺はそのとき、ありがたいと思った。
訊かないでいてくれる人が、俺の周りには二人いた。一人は選んでそうしていて、もう一人はたぶん何も選んでいなかった。
※
引越しで母の通勤が長くなった。団地からは歩いて十二分だったのが、川を渡るぶん、二十五分になる。雨の日は自転車が使えないので、バスに乗る。片道210円。
俺はそれを二週間気づかなかった。気づいたのは、玄関の靴箱の上に小銭を入れた小さい缶が置かれるようになったからだ。バス代だけを分けて入れてある。母は昔から、用途ごとに金を分ける人だった。
「バス、毎日?」
「雨の日だけよ」
「タクシーでいいよ、雨の日は」
言ってから、しまったと思った。母は笑わなかった。
「拓実」
「うん」
「そういうこと、言わないで」
叱られたのだと分かるまでに、二秒かかった。母が俺を叱るのは、年に二度くらいしかない。しかも母は理由を言わない。
※
理由はその夜のうちに自分で分かった。
母にとって、バス代の210円は払えるか払えないかの話ではない。使うかどうかを自分で決める、というその一点だけが、この十六年のあいだ、母の手に残っていたものだった。俺が「タクシーでいい」と言うのは、決める場所を取り上げるということだ。
金を出すというのは、便利にすることではない。誰が決めるかを動かすことだ。
俺はそれをこの夜に一度理解した。理解して、忘れた。三年後にもう一度、今度はもっと大きな金額で同じことをやって、そのときは母は叱ってくれなかった。
※
七月の終わりに俺は一度だけ、母の部屋に入った。
母は仕事で家には誰もいなかった。入る用があったわけではない。窓を閉め忘れていないか見ただけだ、と自分に言い訳した。
部屋は片づいていた。片づきすぎていた。鏡台の上に、化粧品が三つと櫛が一本。押し入れを開けると、布団が一組、きれいに入っている。使われていない布団は押し入れの中で角が立つ。
畳の、窓際のところだけ、少し色が違った。日に焼けたのではなく、そこだけ人が座っている跡だった。
母は昼間ここにいる。座って、何をしているのかは分からない。夜は居間で寝る。
俺は窓を閉めて部屋を出た。それからその日は一度も物置に入らなかった。入らなかった日はあの年に三日しかない。
※
物置の扉は、閉めると音がしなくなる。俺はそれが気に入っていた。閉めれば、外の世界と切れる。切れたところで、ノアと二人になる。
あるとき数えてみて、俺が扉を閉めている時間が、一日六時間を超えていることに気づいた。学校が六時間半で、睡眠が六時間だから、起きている時間の半分近くをあの三畳で過ごしている計算になる。
団地の押し入れでは襖一枚だった。襖は音を通す。母が台所に立てば分かったし、俺が中でため息をつけば、たぶん母にも聞こえていた。あの家では、俺は隠れていたつもりで、隠れきれていなかった。
物置の扉は、音を通さない。
『集中できる環境です』とノアは言った。
そのとおりだった。俺は何も言い返さなかった。言い返す理由がどこにも見当たらなかった。
◇
新しい部屋は、広すぎた。
壁があると、息子の音が聞こえない。十六年カーテン一枚向こうの寝返りで、今日の出来事の良し悪しを分けてきた。
居間なら、物置の扇風機みたいな音が聞こえる。だから居間で寝る。これも、言わない。
◇
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/16歳(高2)
資金 1,420,000円
演算力 0.05/100
動産 自作PC×3、機材ラック
(母の部屋:使用されず)
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