潰れたら払う
畑中建設の事務所に俺は三日続けて通った。仕事はあった。積算の型の手直しと新しい現場の見積もり。だから通う理由はある。理由があるのに、俺は三日とも本題を言わずに帰った。
三日目の帰り俺は自転車を押しながら、自分が何を待っているのかを考えた。向こうから訊いてくれるのを待っていた。訊かれたら答える、という形にすれば、頼んだことにならない。十六年やってきた逃げ方だった。
四日目、二階から降りてきたところで、親方が言った。
「言えよ」
※
俺は全部説明した。家賃が上がること。団地を出ること。審査が通らないこと。保証会社が母の収入で通らないこと。連帯保証人を立てれば通る可能性があること。頼める親族がいないこと。
説明しながら、俺は自分が何を頼んでいるのかをはっきり理解していた。保証人というのは、俺たちが払えなくなったときに、代わりに払うと約束することだ。二年ぶんの家賃と原状回復で何百万にもなりうる。この人が損をする可能性しかない。得をする可能性は一つもない。
しかも俺はその金額を先に調べてきている。調べたうえで頼んでいる。それを言うかどうかで俺は最後まで迷った。
親方は最後まで黙って聞いていた。途中で一度、煙草に手を伸ばしてやめた。事務所では吸わない人だ。
「それで」
「……お願いします」
※
「潰れたら払う。それだけだ」
親方はそう言って湯呑みを置いた。置いた音が思ったより大きかった。
俺は何か言おうとして言葉が出なかった。用意していた台詞が十個くらいあった。返済の計画とか、口座の残高とか、万一のときの担保の話とか。どれも使えなかった。使う場所がなかった。
「あの」
「なんだ」
「……どうして」
「お前、去年の夏、なんで俺の見積もりを直せたか分かるか」
首を振った。ノアが規則性を出したから、としか答えようがない。だがそれを言うわけにはいかない。
「俺が三十年ぶん、紙を捨てなかったからだ」
※
親方は立ち上がって湯呑みを流しに持っていった。水を出して、洗って、伏せた。その動作のあいだこっちを見なかった。
「捨てなかっただけで、使ってなかった。お前が来なきゃ、あれは倉庫で腐ってた。俺の三十年は、お前が来て初めて金になったんだよ」
だからこれは貸しじゃない。返してもらってるほうだ、と親方は言った。
俺はその理屈に納得していない。今でもしていない。三十年ぶんの紙を打ち込んだのは俺だが、打ち込めば誰でも同じ結果が出た。あの表を作ったのはノアで、俺は運んだだけだ。
だがこの人はそう思っていなかった。人は自分が受け取ったものを、自分の物差しで測る。物差しは人によって違う。俺の物差しでは「ノアの出力を運んだ」ことでも、この人の物差しでは「三十年を金に変えてもらった」ことになる。
その差は埋めないほうがいい場合がある。俺は埋めなかった。ありがとうございます、と言って頭を下げた。頭を下げながら、埋めなかった自分を計算しているのが分かった。
※
その日の夜俺は親方に渡す紙を作った。
連帯保証人が負う範囲を条文と数字で整理した紙だ。最大でいくらになるか。どういう順番で請求が来るか。俺たちが払えなくなる確率を、収入の変動から見積もるとどのくらいか。ノアに出させて俺が一枚にまとめた。
翌朝事務所でそれを出した。親方は一行目を読んで、二行目を読んで、紙を裏返して机に置いた。
「これ、なんだ」
「親方が負うことになる金額です」
「知ってるよ」
知っている、と言われて、俺は言葉に詰まった。
「お前な。判子押す前に金額を確かめねえ人間が、三十年、工務店やれると思うか」
※
俺はその紙を鞄にしまった。しまいながら、自分が何をしたかったのかを考えていた。
親方に情報を渡したかったわけではない。親方が知らずに引き受けているのなら、教えるのが誠実だ——という形にしておきたかっただけだ。誠実の形をしていれば、俺の側は安全になる。
この人はそういう形を嫌う。嫌うというより、通じない。判子の前に金額を見る人間には、誠実の形だけを渡しても意味がない。
「ありがとうございます」
「二回目だぞ、それ」
「……はい」
「三回目はいらねえからな。そのかわり、潰すなよ」
※
日曜に母と三人で不動産屋へ行った。親方は作業着ではなく、襟のあるシャツを着てきた。事務所でしか見たことのない人が、よそ行きの格好をしているのは、妙に落ち着かないものだった。
書類に判を押すとき、親方は老眼鏡をかけた。事務所では一度もかけたことがないのに、このときだけかけた。金額の欄を、二回見ていた。二回見てから、判を押した。
母が、頭を下げた。
あの角度ではなかった。去年の夏、食堂の厨房から出てきたときの、どちらでも通じる浅い角度ではない。もっと深かった。腰から折れていて、顔が見えなくて、戻ってくるまでに三秒かかった。
俺はその角度を、いまでも覚えている。母がこんな角度を持っていることを、俺はまた知らなかった。この人の目盛りは、俺が思っているより細かいところまで刻まれている。
※
「佳代ちゃん、やめてくれよ。俺が勝手にやってんだから」
親方は困った顔をして、丸山さんのほうを向いた。丸山さんは書類を見るふりをしていた。この人もこの通りで四十年やっている。見ないふりの仕方を知っている。
母は顔を上げて、それから、もう一度下げた。
「拓実が、ご迷惑かけて」
「迷惑じゃねえって言ってんだろ」
そのやりとりを、俺は少し離れたところで聞いていた。この二人は、俺の頭越しに話している。俺は十六歳で、この部屋で最も金を持っていて、この部屋で最も何の権限もない。
悔しいとは思わなかった。悔しがるのは筋違いだと分かる程度には、俺は自分の立場を理解していた。ただ、次に同じ場面が来たときに、俺がこの位置に立っていたくない、とは思った。
その思いに名前がつくのは、まだ一年半先になる。
※
審査は、その週のうちに通った。丸山さんが電話をくれて、母が食堂の休憩時間に、俺の学校に電話をかけてきた。
学校に電話をかけてくるなんて、母は一度もしたことがない。授業中に呼び出されて、職員室で受話器を渡されたとき、俺は誰かが死んだのだと思った。心臓が、耳の裏で鳴っていた。
「通ったって」
母の声は、少し高かった。それだけ言って、切れた。
俺は職員室で頭を下げて、廊下に出て、それから窓の外を見た。丘が見えた。この学校からも、あの丘は見える。同じ丘が、どこからでも見える町だった。
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/16歳(高2)
資金 1,180,000円
演算力 0.03/100
動産 格安スマホ、自作PC×3
借用 畑中建設 事務所PC×5
課題 審査 — 通過(保証人:畑中源治)
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