貸せません
高校二年の始業式に矢島はいなかった。正確にはいた。別のクラスにいて、廊下ですれ違ったときに「うわ、別かよ」と言われて、俺は「そうだな」と答えた。それだけでその日は終わった。前の人生でも俺たちは高二で別のクラスになっている。そこから少しずつ話さなくなって、卒業のころには連絡先も知らなかった。
同じことが起きているのに、俺は何もしなかった。声をかける機会は一日に何度もあったし、昼に誘えば来たと思う。やることが多すぎた、という言い訳を俺はこの年、何度も自分に使うことになる。
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引越しの話は四月の最初の週から動きはじめた。駅前の不動産屋は、丸山さんという六十くらいの人がやっている。店の前のガラスに物件の紙が何十枚も貼ってあって、日焼けの具合でどれが何年前から貼られたままかが分かる。日焼けの濃いほうがこの街で決まらない物件だ。
俺は一人で行った。母は仕事だったし、母がいると話が進まないと思ったからだ。稼いでいるのは俺で、条件を判断できるのも俺で、必要な計算はノアが出す。母を待つ理由がない。そう考えた。その判断が最初の間違いだった。
「お母さんは?」
「仕事です」
「じゃあ、話にならないよ」
丸山さんは意地悪で言ったわけではなかった。事実を言っただけだ。契約するのは母で、俺は十六歳で、俺が何を言っても契約書には一行も残らない。書類の上では俺はこの取引に存在していない。
※
翌週の水曜、母の休みに合わせて二人で行った。丸山さんは母の顔を見て少しだけ態度を変えた。この通りでは母は十五年ぶんの顔をしている。前に一度来たときは冷やかしだと思われていたのが、今度は座って茶が出た。話は進んだ。進んで、そして止まった。
「いま、どちらにお勤めで」
「駅前の食堂です」
「雇用形態は」
「……パートです」
丸山さんは机の上の電卓を一度も叩かなかった。叩かなくても分かる、という叩き方をしなかっただけだ。老眼鏡を上げて、書きかけの紙を裏返して、それから息を吸った。
「息子さんは、高校二年」
「はい」
「うーん」
その「うーん」に全部が入っていた。俺は去年の秋、カウンターの向こうで「申し訳ありません」と言われたときのことを思い出した。断る側の人間は、断る前に必ず一度、息を吸う。
※
断られたのは、物件ではなく、俺たちだった。丸山さんは紙を一枚出してそこに三つ書いた。世帯の収入。雇用の形。同居する家族の構成。その三つでいま扱える物件が一件もない、と言った。
母の収入は安定している。十五年同じ店で、休んだのは風邪で二日だけだ。だが金額が足りない。家賃の三倍の月収という基準に二万円ほど届かない。連帯保証人を立てれば通る可能性があるが、母の側にそういう親族がいない。父方は十年前に切れている。
「貯金があるって言っても、通らないの?」
俺が訊いたら、丸山さんは俺を見てそれから母を見た。この人はたぶん、この質問を何百回も受けている。
「あのね。審査は、貯金を見ないんだよ」
見るのは、毎月いくら入るかだ。俺の口座には百万を超える金がある。だがその金は、毎月決まった日に決まった額が入ってくる形をしていない。形をしていない金はこの窓口では存在しないのと同じだった。
※
もう一つ、俺は数字を間違えていた。いまの家の家賃は収入で決まるから安い。同じ広さを民間で借りると、三倍になる。二間と台所で、駅から歩ける範囲だと、それより下はほとんど出てこない。
三倍払えるかどうかではなかった。三倍払っても審査に通らない、という順番だった。金額の問題だと思っていたものが、金額以前の問題だった。俺は払えるならいいだろうと思っていた自分の甘さを、丸山さんの前で顔に出さないようにするのに苦労した。
『金額の問題ではありません。あなたたちには、信用の履歴がない』
その夜ノアはそう出した。応答は四十秒で来る。四十秒で来ると、慰めの間がない。
『家を借りるというのは、これから2年間、毎月決まった額を払い続けると約束することです。約束を信じてもらうには、過去に約束を守った記録が要る。お母さまにはそれがあります。ただ記録の量が足りない』
「俺の金を足しても」
『あなたは16歳です。あなたは、契約の当事者になれません』
※
名義の壁だった。また同じところに戻ってきた。去年の五月十九日にカウンターで止まったときと、構造がまったく同じだ。金がないのではない。金を持っている人間が、この世界には存在していないことになっている。
あのときの答えを俺はもう知っている。売れる人の隣に立てばいい。名義が要るものは、名義を持っている人の隣に立って越える。畑中建設の許可証を借りたときも、そうやって越えた。
だが今回は隣に立てる人がいなかった。母はもう立っている。立ったうえで断られている。母より信用のある人間を、俺は一人も知らない——と、そのときは思っていた。
帰り道、母は「まあ、しょうがないよ」と言った。坂の下のバス停のところで、一度立ち止まって、それからまた歩き出した。
しょうがない、というのが母の口癖だということに、俺はこの年になって初めて気づいた。十六年間、何百回も聞いている。聞き流していた。口癖というのは、その人がいちばん使わされてきた言葉のことだ。
しょうがない、で終わらせてきたことが、この人の人生にいくつあるのか。俺はそれを数えたくなかった。数えると、そのうちのいくつが自分のせいなのかも、数えることになる。
※
家に帰って俺は押し入れの前に座った。機械の熱で四月なのに中が生温かい。保冷剤を入れ替えて、扉を開けたまま、俺は保証人という制度について全部出させた。誰がなれるのか。何を負うのか。どういう人なら通るのか。
読み終わるのに一時間かかった。連帯保証人は、借主が払わなかったときに、借主の代わりに全額を払う。順番の主張ができない。つまり、大家は借主を飛ばして、いきなり保証人に請求していい。二年ぶんの家賃と、原状回復と、場合によっては裁判の費用まで背負う。
読み終わって、俺は一人、思い当たる顔があった。思い当たって、すぐに打ち消した。あの人に頼むのは、金の話ではない。人生の話だ。
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早坂 拓実/16歳(高2)
資金 1,150,000円
演算力 0.03/100
動産 格安スマホ、自作PC×3
ゆうちょ通帳
課題 審査 — 通らず
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