【幕間】紙を捨てなかった理由
税理士が帰ったのは七時前だった。
源治は事務所の入口まで送って、それから机に戻った。机の上に封筒から出したままの紙が三枚ある。決算書だ。数字の並びは去年とだいたい同じで、下のほうだけが違う。
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去年、一件でだいぶやられた。
鉄骨の三階建てで、職人が五人入った現場だった。源治の見積もりは人数分の日数で組んであって、実際は段取り待ちで四日延びた。延びた四日は誰も払わない。
その一件で消えた額を、税理士は紙の上で指で押さえて見せた。
「これがなければ、まだ余裕がありました」
源治は湯呑みを持ったが、中は空だった。
外れるようになったのは、ここ三、四年だ。
若いころは当たった。当たるというより、外れても現場で吸収できた。人が足りなければ自分が入った。日曜に一人で行って片付けだけ済ませておけば、月曜が回った。
いまは入れない。腰をやった職人が一人いて、その分を誰かが持つ。持つと別のところが遅れる。
外れ方の向きが、ここ数年いつも同じだった。足りないほうに外れる。
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税理士は十二年この会社を見ている。言い方の丁寧な人で、脅すような話はしない。だから今日の一行も、その丁寧さのまま出てきた。
「畳むなら、早いほうが楽です」
源治は答えなかった。
答えなかったのは、腹が立ったからではない。この人の言うことはたいてい正しい。正しいことに返す言葉を源治は持っていなかった。
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息子を現場に入れたことが一度ある。
四年前の秋だ。大学を出て勤めをやめ、家にいた時期だった。源治は「来い」とは言わなかった。「日報を書け」と言った。
三週間書いた。
丸くて、ゆっくりした字だった。天気の欄まで埋めてあって、誤字が一つもない。源治の字よりはるかに読みやすかった。
ただ、下の欄が毎日同じ書き方だった。
何をやったかを書く欄に、息子は何時から何時までいたかを書いていた。八時入り、十七時上がり。そう書いてある日の現場で実際には床が二十ミリずれていて、午後は全部その直しに使っている。
書いていないのではない。見ていないのだ。
源治はそれについて何も言わなかった。褒めもしなかったし、直しもしなかった。
三週間で息子は書かなくなった。
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継がないと言われたのは、その次の正月だった。
台所で、こちらを見ずに言った。源治は「そうか」と言って、それで終わりにした。
あのとき、少しほっとした。
ほっとしたのは、もう分かっていたことを言ってもらえたからだ。分かっているのに言われていない状態が二年続いていた。
ほっとしたことを源治は誰にも言っていない。継がせる相手がいなければ、自分の代で終わらせていいという理屈が立つ。立ってしまう。
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事務所の二階に上がった。
階段は急で、途中で膝が鳴る。二階には冷房がない。七月の夜で、上がった瞬間に空気が重かった。
段ボールが壁沿いに積んである。三十年ぶんだ。見積書、注文書、実行予算、それから現場ごとの日報。
源治は年に一度、箱の数を数える。増えた年と増えなかった年がある。今年はまだ数えていない。
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几帳面だからではない。
源治は自分が几帳面でないことを知っている。日報の字は雑で誤字も多い。書いた日が一日も抜けていないのは律儀だからではなく、書かないと次の日に何をやったか分からなくなるからだ。
紙を捨てないのは、別の理由だった。
捨てると、三十年が無かったことになる気がする。
理屈に合わないのは分かっている。紙があっても無くても、やった仕事は同じだけある。それでも、箱が減るところを源治は見たくなかった。
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五年分だけ下ろした。
あの子がそう言ったからだ。五年でいい、それより前は載っている値段が古いから要らない、と。十五の子どもがそういう言い方をするので、源治はその場では返事をしなかった。
箱は十四個あった。一度に二つしか持てない。七往復して、汗が背中まで来た。
四つ目を持ち上げたところで、源治は気づいた。
五年分の中に、あの三週間が入っている。
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抜かなかった。
抜くという考えが浮かんで、浮かんだまま、源治はその箱を下ろした。抜けばあの子は気づかない。気づかないまま五年分を写して帰る。
抜かなかった理由を源治は自分で言葉にしていない。
下ろし終えて、流しの横の灰皿のところで一本吸った。
煙草は一日に四本に減らしている。金のためではない。去年の健診で何か言われて、一度だけ守ってみようと思った。守れているのは、数えているからだ。
源治は数えるのが嫌いではない。箱も煙草も数える。数えたものは、減っても増えても目に見える。
見積もりだけが、数えられないまま三十年あった。
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あの子は名刺を持っていなかった。
名前だけ言った。佳代ちゃんとこの子だった。金の話は親御さんとするのかと訊いたら、いえ、俺とで、と言った。そこで一秒詰まった。
詰まったことについて、源治は何も訊かなかった。
この通りでは、それで足りる。
※
翌朝、自転車の音がした。
窓から見ると、あの子が停めていた。荷台には何も積んでいない。鞄を肩にかけて、そのまま二階に上がっていった。
源治は麦茶を注いで、階段の下に置いた。
置いてから、机の上の決算書を引き出しに入れた。
捨てはしなかった。
本話で第一部は完結です。
第二部も引き続きお楽しみください。
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