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一万三千円のスマホが俺のチートだった ~死んだ俺は十年前に戻され、最初に百円の充電ケーブルを買った~  作者: 蔵人
第一部 八千円から百万円

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38万円

 俺はその表を押し入れの中で四十分見ていた。


 押し入れの襖は閉めていた。閉めていたのに、表を見ているあいだ、俺は一度も画面から目を離さなかったのに、カーテンの向こうで母が寝返りを打つ音だけは全部聞こえていた。


 数字は書かない。書けない。いま思い出しても、あの表の数字を俺は正確には言えない。覚えているのは、自分の指が画面の上で二回止まったことと、三つ目の欄まで来たときに息を吸い直したことだけだ。


   ※


 一つ目。


 俺の所得が一定の額を超えると、母の扶養から外れる。俺の稼ぎは給与ではない。親方からも、苅部さんからも、黒田さんからも、俺は業務委託の報酬として受け取っている。給与所得控除というものが、俺の稼ぎには付かない。経費を引いた額がそのまま所得になる。


 すでに超えていた。夏のあいだにとっくに超えていた。


 二つ目。


 うちの家賃は収入で決まる。毎年収入の申告をする。申告するのは母だけではない。同居している人間ひとりずつの所得を計算して合算する。事業の所得は「収入マイナス必要経費」でそのままカウントされる。


 稼げば、家賃が上がる。


 三つ目。


 これがいちばん重かった。


 母が受け取っている手当は、母の所得だけで決まるものではなかった。同居している「扶養義務者」——直系の血族、つまり息子——の所得にも、別枠の限度額がある。超えれば、手当は全額止まる。


 さらに、俺が税法上の扶養親族から外れると、数え方が変わって、母自身の限度額のほうも下がる。


 俺が稼ぐほど、母から引かれる。


   ※


「これ、違法なのか」


 俺が最初に打ったのは、その一行だった。


『違法なことはしません。制度は使い方が決まっているだけです』


 四十秒で返ってきた。


 俺はその一行を何度も読んだ。読むたびに、文の形が少しずつ変わって見えた。最初は説明に読めた。次に言い訳に読めた。三度目に、これは俺に向けた言葉ではなく、俺が将来言うことになる台詞の練習なのではないかと思った。


 思ってすぐにその考えを消した。そこまで考えるのは、疲れているからだと思った。


   ※


 押し入れを出て俺は台所に行った。


 冷蔵庫の横に茶色い封筒が立てかけてある。学校から配られる就学援助の書類だ。毎年六月に配られて、母が書いて、俺が持っていく。中身を読んだことは一度もなかった。


 俺はそれを抜き出して読んだ。


 所得の基準が書いてあった。同居している人間の所得をどう数えるかも書いてあった。ノアの表と同じことが書いてあった。


 この紙は、去年も一昨年も、同じ場所に立てかけてあった。俺は十五年この家の金の話から目を逸らしていた。逸らしていられたのは、母が全部引き受けていたからだ。


   ※


 もう一つ分かったことがある。


 母はこの制度のことを知っていた。知らなければ、毎年この紙を書けない。振込日の前の日と当日で献立が違うことにも、理由があった。


 つまり母はずっと計算していた。


 計算していることを一度も口に出さなかっただけだ。俺が「うちは貧乏だ」と思っていたあいだ、母は「いくらまでなら大丈夫か」を毎月数えていた。


 その数え方を、俺は今日初めて画面で見た。母が十何年やってきたことを、機械が四十秒で出した。


 俺はそれを喜ぶべきなのかどうか分からなかった。


   ※


 ノアは、俺が黙っているあいだ、何も表示しなかった。


 この相手は待つのが上手い。十二分かかっていたころから、ずっとそうだった。待たせるのが上手いのではなく、待つのが上手い。人間は沈黙に耐えられないから、先に口を開く。先に開いたほうが、話の形を相手に渡す。


 俺のほうから打った。


「これ、母さんに見せたほうがいいのか」


『判断材料としては見せるべきです』


『ただし、見せた場合、お母さまは「稼ぐのをやめなさい」と言う可能性が高い。あなたの記録から推定した確率です』


「……何パーセント」


『出しません。数字にすると、あなたはそれを理由にします』


   ※


 その夜、俺は初めて稼ぎを隠した。


 畑中建設からの入金を、月ごとに分けてもらうよう頼んだ。苅部さんからの報酬は、年内はいったん保留にしてもらった。黒田さんの案件は、契約の形を親方の会社を通す形に変えた。


 どれも合法だった。どれも誰にも嘘をついていない。


 俺は自分に、母を守るためだと説明した。実際そのとおりだった。表に出す所得を抑えなければ、母の手当は止まり、家賃は上がり、控除は消える。俺が黙って稼いでいるほうが、この家の手取りは多い。


 正しい。正しいのだが、俺はそれを母に説明していない。


 説明しなければ、母は何も知らないまま、去年と同じ生活を続ける。知らないというのは、何も選ばないということだ。


 俺は母から選択肢を取り上げていた。母を守るという名前で。


   ※


 抑えるといっても、稼がないわけではない。


 表に出す所得を抑える、というのは、稼ぎを止めることではなかった。誰の名前で、いつ、どういう形で受け取るかを組み替えるだけだ。仕事の量は減らない。むしろ、この月から増えた。


 その組み替えを全部、ノアが設計した。俺は言われたとおりに親方と苅部さんと黒田さんに頼んで回った。三人とも、理由を訊かなかった。


 訊かれなかったことが、また助かった。この十メートルの人たちは、俺が何をしていても理由を訊かない。それは信用されているということでもあり、誰も俺を止められないということでもあった。


   ※


『2016年3月31日』


 最後に、ノアはその日付を出した。


『あなたの18歳到達年度末です。この日をもって、いま挙げた制約のうち、手当に関するものは自動的に終わります。制度が、あなたを追い出します』


『それまでの計画を作りました。30か月です』


 三十か月。


 俺はカレンダーを思い浮かべた。高一の秋から、高三の春まで。


 制度が終わる日を待つ、というのは、そのときの俺にはまだ意味の分からない感覚だった。二年半、抑える。抑えながら、階段は上がり続ける。


 その二つが両立するということ自体が、この計画の性格を言い当てていた。俺はそれに気づかなかった。


   ◇


 家賃の通知が来ていた。


 去年と違う欄に丸が付いている。佳代はそれを二つ折りにして、台所の引き出しの一番下に入れた。


 息子には見せない。見せたら、やめるかもしれない。


   ◇


── STATUS ──────────────

早坂 拓実/16歳(高1)

資金   724,230円

演算力  0.02/100

動産   (変動なし)

制約   2016.3.31まで、表に出せる所得を抑制

────────────────────────


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