ゆうちょの窓口
郵便局は駅前の細い通りを抜けた角にある。
平日の午後三時。俺は学生証と百円ショップで買った印鑑を持って、番号札を引いた。四番だった。
窓口の人は、たぶん俺と同じくらいの背丈の女の人だった。用紙を出しながら「学生さんですか」と訊かれて、「高校一年です」と答えた。
一瞬、手が止まった。
それからその人は普通に手続きを進めた。住所を書いて、名前を書いて、判子を押した。十五分で終わった。
「通帳は後日ご自宅に郵送になります」
それだけだった。
※
自転車に乗ってから、俺は少し力が抜けているのに気づいた。
断られると思っていた。学生証を見て生年月日で指が止まって、保護者の同意が要ります、と言われると思っていた。五月十九日の再演を、俺は勝手に用意していた。
『高校生は本人の来店で開設できます。局によっては親権者の同意を求められますが、拒否ではありません。中学生以下は親権者が手続きをします』
『4月28日にこの差も申し上げました』
「……覚えてる」
覚えていた。今度は本当に覚えていた。
※
通帳が届いたのは、四日後だった。
郵便受けから取り出したとき、封筒がやけに軽かった。中身は紙の冊子が一冊。それだけのものに、俺は五月からずっと止められていた。
最初の記帳は九万円だった。全部は入れなかった。家に置いておく現金と口座に入れる金を、ノアと相談して分けた。
『現金は説明の要らない金です。口座の金は記録の残る金です。あなたにはまだ、記録を残していい金と、そうでない金があります』
「後ろ暗いことしてないけど」
『後ろ暗いかどうかと、説明が必要かどうかは別の話です』
その言い方が引っかかった。引っかかったが、反論する材料がなかった。実際俺は母に何も話していない。話していない以上、説明が必要なのは事実だった。
※
通帳を開いて、俺は自分の名前が印字されているのをしばらく見ていた。
早坂拓実。
小学三年の二学期からこの字で書いている名前だ。前の人生では、この名前で口座を作ったのは十八のときだった。三年、早い。
三年早いというだけで、こんなに違うのか、と思った。
※
その通帳を俺は押し入れの上の段にしまった。天板の裏の九歳の字の下だ。
しまってから気づいた。中西拓実と書いた場所の下に、早坂拓実の通帳を置いている。
狙ったわけではない。だが置いたあとで動かす気にもならなかった。
※
その日のうちに、俺は他の道も全部試して、全部閉まっていることを確認した。
ネットオークションの出品には、有料の会員登録が要る。支払いにはクレジットカードが事実上必要で、十八歳未満にカードは発行されない。証券口座も同じだ。ノアが「方向だけ」言った、名前のない通貨のたぐいも、取引所はどこも同じ壁を立てていた。
開いているのは、現金と、役務と、ゆうちょの通帳だけ。
『壁は四つあります。年齢、名義、口座、許可。あなたはいまそのうち一つだけを越えました』
「三年待てば全部開くだろ」
『はい。2016年の4月にほとんどが開きます』
俺はその返事を深く考えなかった。三年は長い。長いものは考えても仕方がない。
いま思えば、あの日ノアが答えた「2016年の四月」には、俺の知らない重みが入っていた。
※
口座を作った週にもう一つ手続きがあった。
紙を一枚、母に書いてもらう必要があった。学生の口座に付ける少額の取引の設定の紙だ。保護者の署名欄がある。
俺は夕飯のあとその紙を母の前に置いた。
「これ、書いてもらっていい?」
「何の紙?」
「銀行の」
母は老眼鏡をかけて紙を見た。三秒だった。それから、署名した。読んでいなかった。
「判子は?」
「ここ」
それで終わりだった。
※
俺はその紙を持って、押し入れに戻った。
母は俺が何をしているか知らない。八月に親方が「仕事の話だ」と言ったこと、九月に靴が置いてあったこと、それくらいしか材料がない。その材料だけで、母は署名した。
読まなかったのは、読んでも分からないからだ。分からないものを、息子が持ってきたから書いた。
この人は俺が何を書いた紙でも書く。
そう気づいたとき、俺は自分が少し怖くなった。怖くなったが、説明はしなかった。
「銀行の」と言った自分の声を、俺は何年も経ってから思い出すことになる。あのとき三十秒だけ説明していれば、と思う場面が、この先いくつも来る。
※
現代文の副教材を、俺は買っていなかった。図書館で借りて、授業のところだけ写していた。
先生に一度だけ指摘された。「買えないなら言いなさい」と言われて、「はい」と答えて、買わなかった。
俺の口座には、もう四十万ある。
買わなかった理由を、俺は自分でもうまく言えなかった。
※
十月の終わりに、俺は初めて、自分のために金を使った。
作業用の椅子だ。中古で4,200円。押し入れの前に座る時間が一日四時間を超えて、腰が痛くなっていた。
届いた椅子を組み立てながら、俺は自分がためらったことに気づいた。母の靴のときは、ためらわなかった。自分の椅子のときだけ、二週間迷った。
『必要な設備です。あなたの稼働時間が延びます』
「そういうことじゃない」
『では、どういうことですか』
俺は打たなかった。打てなかった。
金を使うことに慣れていないのだと思っていた。そうではなかった。俺は自分のために何かを買うと、それを母に説明しなければならない気がしていた。靴は説明が要らない。椅子は要る。
結局、その椅子は押し入れの前に置いたまま、母には何も言わなかった。母も何も訊かなかった。
※
十一月に入って、依頼の数が頭打ちになった。
団地の機械は、ひととおり直してしまった。壊れるのを待つしかない。畑中建設の見積もりは型ができて、俺がいなくても回りはじめた。苅部運送も、模型を置いてきたきり、呼ばれない。
うまくいくというのは、呼ばれなくなるということだった。
『それが正しい形です。あなたの手が要らなくなるように作ったのですから』
「じゃあ、次は」
『次の相談の前に、見ていただきたいものがあります』
※
その夜、ノアが表を出した。
訊いてもいないのに、画面いっぱいに数字が並んでいた。縦が年で、横が四つの欄に分かれている。
一行目の見出しにこう書いてあった。
『あなたが稼ぐと、お母さまの手取りが減ります』
── STATUS ──────────────
早坂 拓実/16歳(高1)
資金 583,230円
演算力 0.02/100
動産 格安スマホ、ジャンクノートPC×2
ゆうちょ通帳、印鑑
借用 畑中建設 事務所PC×5
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