マナ編 その3
注意:『マナ編』は、子どもの性被害を題材として扱っています。予めご了承ください。また、読んでいる最中に気分が悪くなった場合は、無理せず読書を中止してください。
その家では、怪獣と女の子が二人で暮らしていました。
怪獣は「さみしいよ」と言って裸の女の子をギュってします。
それが終わると、怪獣は女の子を「いい子だね」と言って褒めてくれます。
いい子にしてると、怪獣はお菓子を食べさせてくれます。おもちゃも買ってくれます。何より、怪獣が喜んでくれるのが、女の子には嬉しかったのです。
怪獣は言います。
「これは秘密だよ」「絶対に誰にも言っちゃだめだよ」「マナはいい子だから、秘密を守れるよね」
女の子も秘密を守ろうと思っていました。
でもある日、話してしまったのです。
学校の担任の先生に「松原さん、最近どう?」と訊かれて、おしゃべりが大好きだった女の子は、家での出来事をいっぱい話しました。そして、怪獣にギュってされていることも、そのまま話してしまったのです。
児童養護施設『ふれあいの家 第3ホーム』
明治時代に建てられた古民家を転用したその施設を、巨大な怪獣が踏みつぶしていく。
台所も、食堂も、リビングも、マナの部屋も、全部を怪獣はグチャグチャに壊していく。
「やめて! 壊さないで!」
怪獣の足元でマナは泣き叫ぶが、怪獣は止まらない。
「絶対に秘密って言ったのに、お前は話した。それで警察が来た。牢屋に入れられた。俺はお前を許さない!」
怪獣はマナに鋭い視線をむけながら、そう言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい!」
マナは泣き叫びながら謝る。それしかできなかった。それでも、怪獣は破壊を止めなかった。
マナは飛び起きた。
荒い呼吸。全身汗びっしょりで、パジャマが張り付く。
マナは布団の上で上体を起こした体勢で、周囲を見渡す。
里親さんの家の客間である和室。天井のオレンジの小さな光だけが部屋を照らしている。
夢を見ていた。怪獣が施設を踏みつぶす夢。
まだ、心臓がバクバクを音を立てている。夢の中で感じた、生々しい恐怖感が残っている。
「絶対に秘密って言ったのに、お前は話した」
夢で聞いた、怪獣の声が脳裏に蘇る。
マナの表情は引きつり、涙を流す。声にならないうめき声を発する。掛け布団を手繰り寄せ、すがるように抱き着く。
その時、襖がゆっくりと開いた。マナはその音にビクッと体を跳ねさせる。
「マナちゃん? 何か声がしたけど……」
里親夫婦の妻、リョウコだった。
マナの様子を見たリョウコは慌てて駆け寄る。
「どうしたの? 大丈夫だよ」
マナの前に座り、マナの目を見つめながら優しく声をかける。
しかし、マナは恐怖に歪んだ表情で泣き続けた。
次の日、日曜日の朝。
ダイニングには重い空気が流れていた。
里親夫婦はあれこれとマナとミズホに話しかけるが、二人の反応は薄い。食事もあまり進んでいない。
夫婦は困った表情で互いに顔を見合わせた。
ニュースを流すテレビの音が妙に大きく聞こえる。
『一昨日、■■駅のコインロッカーから、生後間もないとみられる乳児が見つかった事件で、警視庁は事件に関与した可能性があるとみて、都内に住む二十歳の大学生の女性から任意で事情を聴いていることが捜査関係者への取材でわかりました。
調べに対し女性は「妊娠したことを誰にも相談できなかった」「自宅で一人で出産し、どうしていいかわからず、乳児をコインロッカーに置き去りした」などと供述しており、警視庁は保護責任者遺棄の疑いも視野に、詳しい経緯を調べています。
乳児は病院に運ばれ、健康状態に問題はないとのことです』
リョウコは眉をひそめると、リモコンを手に取りチャンネルを変えた。
「朝から嫌なニュースね」
リビングが静寂に包まれる。
やがて、静寂の中からむせび泣く声が聞こえはじめた。
全員の視線が集まった先、それはミズホだった。
ミズホは涙を流していた。
「うぅ……うっ……」
喉から声にならない声が漏れている。
「ど、どうしたの、ミズホ?」
リョウコが突然のことに驚きながら尋ねる。
ミズホは徐々に呼吸が荒くなる。
そして、絞り出すように言った。
「私……今……妊娠してるの」
昼前。マナは病院の待合室にあるベンチに座っていた。
周囲を見渡すと、診察の順番を待っている人は女性ばかりで、お腹が大きな人も多い。
マナは横に座る里親夫婦の夫、エイイチの顔を見上げる。声をかけようとして口を開くが、エイイチのあまりにも深刻そうな表情に、何も言うことができなかった。
静かなロビー。
消毒液の匂いがツンと鼻を突く。
時折通り過ぎる患者や看護師・助産師の足音が妙に大きく聞こえる。遠くからは、赤ちゃんの泣き声も聞こえる。
やがて、診察室の扉が開き、ミズホとリョウコが出てきた。
エイイチは立ち上がり、二人の元へ行った。マナも少し遅れて続く。
「どうだった?」
エイイチは感情を抑えた声で尋ねる。
リョウコはチラリとミズホに目配せした。
ミズホは呼吸を整えると、小さな、今にも消えてしまいそうな声でゆっくりと言う。
「妊娠……してなかった。赤ちゃんできたと思ったの……気のせいだった」
その途端、エイイチは長く息を吐き、肩の力が抜けた。
「そうか。とりあえずは、一安心だな」
ミズホは気まずそうに視線を落とす。
「おじさん……おばさん……迷惑かけて……ごめんなさい」
リョウコがそっと、ミズホの肩を抱き寄せる。
「診察、お疲れ様。辛かったね。今日はゆっくり休んで」
その途端、ミズホの目から涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ミズホは小さな声で、何度も何度もそう繰り返した。
マナには、その様子を見守ることしかできなかった。
里親夫婦の家に帰ってきた。帰り道の車中では、誰もほとんど言葉を発しなかった。
リビングに入る。
「いろいろと聞きたいんだけど、もし疲れてるなら、明日でもいいよ」
リョウコが言った。
ミズホはうつむいたまま、小さく首を横に振った。
「大丈夫。ちゃんと、説明する」
エイイチとリョウコは互いに顔を見合わせると、マナに視線をむけた。
「マナちゃん、ごめんだけど、ちょっとそこの部屋で、ゲームしながら待っててくれないかな?」
エイイチの言葉にマナはうなずき、素直に従った。
リビングの横にある和室の客間。
マナは畳の上に座り、携帯ゲーム機を操作していた。
襖は締め切られ、リビングの様子は見えない。
だけど、声は聞こえる。
マナはそっと、ゲーム機の音量を下げた。
「相手の人、誰かわかってる?」
リョウコの声。
「うん……違う高校の……二年生……。部活の合宿で知り合って、何回かデートして……その後に……やりたいって言われて……」
ミズホは小さな声で、ゆっくりと話す。
しばらくの静寂。
やがて、エイイチの声が聞こえた。
「その男の子とは、まだ会ってるのか? むこうは知ってるのか?」
「ううん。むこうは、大会が近くて、スポーツ推薦で大学も目指してて、赤ちゃんできたって言ったら、迷惑かかっちゃうと思って、私の方からは何も言ってないし、むこうから連絡来ても、全部無視してる」
すこしの間をおいて、リョウコが口を開く。
「そっか。そういう風に思ってたのね。ミズホ、あなたの気持ちもわかるよ。だけどね、あなたが一人で背負って、傷付く必要はないんじゃないかなって、私は思うな」
やがて、ミズホが鼻をすする音が聞こえはじめる。泣いているようだった。息を詰まらせながら、ゆっくりと
「本当は……本当はね『やりたい』って言われたとき、恐くて、やりたくないって思った」
ミスホは「でも」と言葉を繋ぐ。
「断ったら、嫌われちゃうと思って……」
客間で会話を聞いていたマナ。ゲーム機を持つその手に力が入った。
マナの脳裏に蘇る。
心理士のイクミに言われた言葉。
「女の子は、どんな気持ちかな?」
喜んでくれるならそれでいいと思っていた。我慢すればそれでいいと思っていた。お菓子もおもちゃもくれるから、嬉しいことなんだと思ってた。
でも、怪獣にギュってされた女の子は、本当は……本当は……。
痛くて、恐くて、嫌だった。
襖のむこうから、リョウコの声が聞こえて、マナは現実に戻された。
「私はね、ミズホ。嫌だなって思ったらそれは相手に伝えてほしいし、もし恐い目に遭ったら、ちゃんと私たちに相談してほしいなって思う。私たち、あなたが何を言ってきてもちゃんと聞く。ちゃんと聞くから」
すると、ミズホはかろうじて聞き取れる、震える声で言った。
「迷惑かけたら……ダメだと思って……」
エイイチがゆっくりと、長く、息を吐く。
「そうだな……ミズホはさ、頑張り屋さんで、部活も勉強もすごく頑張ってると思うし、学校の出来事だって、すごく楽しそうに話してくれる」
「……え、えっと……うん」
ミズホは戸惑いながら返事をする。
「お母さんのお手伝いだっていっぱいやってくれてるし、時々、僕の釣りにも付き合ってくれる。本当は釣り、退屈じゃなかったか?」
「えっと……あの……大丈夫」
エイイチは「ふふっ」と笑うと、さらに続ける。
「僕たちは、ミズホのいいところ、いっぱい知ってる。僕たちの、大切な、大好きなミズホだから。だからね、自分のことを一番に大切にしてほしい」
エイイチに続いてリョウコも「そうね」と言う。
「あの……えっと……」
ミズホはしばらく言葉を探した後、ゆっくりと言った。
「ありが……とう……」
夜。田畑と住宅が入り混じった地域を、一台の乗用車が走っていく。
マナはエイイチの運転する車の助手席にいた。
「ごめんね。せっかく来てくれたのに、あんまり楽しくなかったね」
運転しながらエイイチは声をかける。
「ううん。レストランのハンバーグ、美味しかったぞ」
マナはそう返す。
「あそこの店は、昔からよく行ってるんだ」
車は十字路に差し掛かった。車はウインカーを点けて右折する。
「おじさん、また、遊びに行っていいか?」
マナが尋ねると、エイイチはどこか安堵したような表情を浮かべた。
「ありがとう、マナちゃん。また遊びにおいで」
やがて、古民家を転用した施設が見えてくる。
施設に着くと、初老の男性職員、ケンジが出迎えてくれた。
エイイチは滞在中の出来事とマナの様子を引き継ぐと、車に乗り込み帰っていった。マナはテールランプが見えなくなるまで見送った。
それから自室で荷物を置いたマナは、職員に促されお風呂に入る。
広さは一般的なものだが、バスボードや手すりが取り付けられ、足の不自由な人でも入りやすいようになっている浴室。壁には、緊急用のSOSボタンも取り付けられている。
マナは一人で入浴していた。
洗い場でバスチェアに座り、タオルで体を洗っていく。
ふと、壁に取り付けられた鏡が目に入った。
湯気で曇っているそれにシャワーでお湯をかけると、マナの姿を映す。
マナ手を止め、しばらく鏡に映る自分の姿を見つめる。シャワーが出しっぱなし。お湯の流れる音がする。
しばらくお湯の音だけが浴室に響く。
マナはふと、何かに気付いたように、自分の腹部に手をあてた。
「食べすぎちゃったかな」
入浴を終えたマナは脱衣所で体を拭くと、パジャマを着た。前開きのボタンを一つ一つ、丁寧に止めていく。
そして、脱衣所を出た。
すると、そこに通りかかったのは職員のケンジだった。
ケンジはマナの姿を見ると、一瞬驚いたような顔を浮かべるが、すぐに優しい表情になる。
「あ、お風呂上がったかい? 今日はちゃんと服着てくれたね。えらいよ」
その言葉に、マナは小さくうなずいた。
数日後の夕方。
リュックサックを背負ったマナは、ある一軒の家の呼び鈴を押した。
ピンポーンという音の後、家の中からバタバタと音がして、玄関のドアが開いた。
「いらっしゃい、マナちゃん」
ドアを開けたのは、マナのクラスメイト、セリナだった。
「来たぞ、セリナ」
マナも元気よく返す。
セリナの後ろから、彼女の母親が現れた。
「いらっしゃい、マナちゃん。どうぞ、遠慮せず上がって」
その途端、マナの目が見ひらかれる。
なぜなら、セリナの母のお腹は、大きく膨らんでいたから。
「お、おじゃまします」
マナは家に入り、玄関で靴を脱ぐ。その間も、チラチラと母親を見ていた。
リビングのテーブルに、二人分の宿題が広げられている。
マナとセリナはテーブルをはさんで向かい合わせに座り、宿題に取り組んでいた。
「――でね、この中で巣を作ってそこに卵を産む生き物はツバメだから、問3の答えは『エ』になるの」
セリナは理科の問題を解説をするが、マナの視線は宿題のプリントではなく、ソファに腰かけ、二人を見守っているセリナの母親へとむかう。
「もう、マナちゃん聞いてる?」
セリナの不満そうな声で、マナは慌てて視線を手元に戻した。
「あ、ごめん」
そこで、母親が声をかける。
「マナちゃん、赤ちゃんが気になる?」
「あ、あの、えっと……」
マナが戸惑っていると、母親は手招きした。
「おいで」
マナはゆっくりと立ち上がり、母親の前まで移動した。
「触ってみる?」
「いいの?」
「うん、いいよ。服の上から、優しくね」
母親は自分の服を手で押さえて、お腹のふくらみが目立つようにする。
マナは恐る恐る、そのお腹に手を伸ばし、一度引っ込め、そしてもう一度ゆっくり手を伸ばして、服の上からお腹に触れた。
しばらく触れていたが、突然マナの目が驚いたように見ひらかれた。
「動いた!」
マナは驚きの声を上げた。
「マナ編」参考文献
「児童養護施設の子どもへの精神分析的心理療法」
平井正三 西村理晃 編
認定NPO法人 子どもの心理療法支援会著
株式会社 誠信書房 2018年11月20日 発行
「小児科医「ふらいと先生」が教えるみんなで守る子ども性被害」
今西洋介 著
株式会社 集英社インターナショナル 2024年12月10日 発行
「マイ ステップ[改訂版]――性被害を受けた子どもと支援者のための心理教育」
野坂祐子 浅野恭子 著
株式会社 誠信書房 2023年11月25日 発行




