マナ編 その2
注意:『マナ編』は、子どもの性被害を題材として扱っています。予めご了承ください。また、読んでいる最中に気分が悪くなった場合は、無理せず読書を中止してください。
土曜日。
朝、ダイニングにいたのは、パンパンに膨らんだリュックサックを背負っているマナだった。
「マナちゃん、忘れ物はない?」
職員のケンジが尋ねると、マナは元気よくうなずく。
「おう、大丈夫だ!」
そこに現れたのは、中学一年生のアンナだった。パジャマ姿で眠そうな表情を浮かべている。
「おはようございまーすって、あれ? マナちゃんどこか行くの?」
「今日はな、里親さん家に行く日だぞ」
アンナは首を傾げる。
「里親さん?」
「うん、月に一回くらい、里親さんの家に泊めてもらってるんだぞ。ミズホお姉ちゃんにも会えるんだぞ」
「お姉ちゃん? マナちゃんって、お姉ちゃんがいたの?」
マナは、アンナの言葉を首を振って否定すると、目を輝かせながら、ミズホについて説明する。
「ミズホお姉ちゃんは、マナの本当のお姉ちゃんじゃないぞ。里親さんのところで暮らしてる里子なんだ。時々遊びに行くだけのマナと違って、ミズホお姉ちゃんは、ずっと里親さんのところで暮らしてるんだぞ」
アンナは数回うなずく。
「そうなんだ。楽しんできてね」
そして、大きなあくびをした。
施設から車で三十分ほど。
マナがお世話になっている里親さんの家にやってきた。いたって普通の建売住宅である。
マナを乗せた車が到着すると、呼び鈴を押す前に玄関のドアが開き、一組の夫婦が出てきた。
夫がエイイチ。妻がリョウコ。
「おじさん、おばさん、来たぞー」
マナは車から降りると、夫婦に飛びついた。
里親さんと遊んで、一緒に昼食を食べて、家事を手伝っているうちに、夕方になった。
マナは里親宅のリビングのソファに座り、ニコニコと笑顔を浮かべている。足も落ち着きなくパタパタと動かしながら、近況を語る。
「――でな、そのときに見たの、絶対にキツネだったんだ」
テーブルの上には食べかけのお菓子と、飲みかけのジュース。
そのとき、玄関の扉が開く音がした。「ただいま」という少女の声。
足音が近づいてくる。やがて、リビングの扉が開き、高校生くらいに見える少女が入ってきた。学校指定のジャージ姿で、大きなスポーツバッグを肩からかけている。
「ミズホお姉ちゃん!」
その姿を見た途端、マナは飛び跳ねる様に立ち上がり、駆け寄る。
「そっか、今日はマナちゃん来る日だっけ。いらっしゃい」
この少女はミズホ。この家で暮らす、高校2年生である。
ミズホはマナの頭を数回軽く撫でると、手を止め、一歩引いて距離を取る。そして、ため息をついた。
「ミズホお姉ちゃん、大丈夫?」
マナはミズホの顔を見上げた。ミズホの表情は暗く、どこか元気がない。
「うん、大丈夫。ちょっと、部活で疲れただけ。あ、そうだ。新しいゲームあるから、後で一緒にやろ」
ミズホはそう言って、リビングを出ていった。
その後、マナはミズホと共にリビングのテレビでゲームをしていた。
星形のマシーンに乗ってレースするゲームだ。
私服に着替えたミズホは落ち着いた様子で操作する。一方で、マナは操作に合わせて右へ左へ体を揺らす。
「ねえ、マナちゃん。児童養護施設って楽しい?」
おもむろに、ミズホは尋ねた。
「ミズホお姉ちゃんも、前は施設にいたんじゃないのか?」
マナは画面を見ながら返事をする。
「うん、そうなんだけど、かなり昔のことだし、短かったからあんまり覚えてないかな」
「まあ、楽しいかな。たまに嫌なこともあるけど」
ゲームをしながら、ミズホはさらに尋ねる。
「マナちゃんはさ、お父さんとお母さんのこと、覚えてる?」
一瞬、マナのコントローラーを握る手に力が入る。
「……覚えてるぞ。お父さんも、お母さんも」
「施設の子どもって、中にはお父さんとか、お母さんの顔を知らない人も中にはいるよね?」
「他の子のことはあんまり知らないけど、同じホームのナオカは知らないって言ってた」
マナはゲームに夢中なあまり、あまり考えずに返事している様だ。
「そっか」
ミズホの手が止まった。画面にはマナの勝利を示す文字が表示される。
マナはミズホに顔をむけた。
「ミズホお姉ちゃん、もう一回!」
ミズホは小さく息を吐て、うなずく。
「うん」
それからしばらくして、夕食となった。
「遠慮せずいっぱい食べてね」
里親夫婦の妻の方、リョウコが言った。
テーブルの上にはご飯と味噌汁のほか、大皿に揚げ物や出汁巻き卵、種類豊富なお刺身、そして色とりどりの野菜が並んでいる。
「うぁ~!」
マナは歓声をあげた。
「たくさん食べてね。魚は、今朝はやくに海まで行って釣ってきたんだ」
里親夫婦の夫、エイイチが言う。
「おお~、おじさん、すごいな!」
マナは目を輝かせて、身を乗り出した。
「じゃあ、いただきましょうか」
リョウコが言うと、マナはハッとしたように座りなおす。
そして、里親夫婦とミズホ、そしてマナ、四人全員で手を合わせ、「いただきます」と言った。
食事をはじめて一時間ほど経った。
あれほど沢山あった大皿の料理も、ほとんど無くなっている。
マナはお茶碗の中に残った最後の米粒をお箸でつまみ、口に運んだ。
そして、手を合わせる。
「ごちそうさま」
それを見たリョウコは尋ねる。
「マナちゃん、足りた?」
マナははっきりとうなずく。
「うん。お腹いっぱいだぞ。おいしかった」
里親夫婦は満足げにうなずく。
マナはその場でのびをして、気が付いた。ミズホの茶碗、その中には半分以上ご飯が残っている。取り皿も綺麗で、大皿の料理にほとんど手を付けた痕跡がない。
「ミズホお姉ちゃん、食べてないのか?」
マナに声をかけられたミズホは、ハッとした様子だ。
「あ、ちょっと考え事してた」
それから、慌てた様子で残っていたご飯を掻き込む。
「大丈夫? 食欲ないの?」
リョウコが心配そうに尋ねるが、ミズホはぎこちない笑顔を浮かべた。
「だ、大丈夫。今度のテストのこと考えてただけ。でも、勉強しないといけないから、部屋に戻るね。ごちそうさま」
ミズホは内側に少し米粒が残る茶碗をテーブルに置くと、足早にダイニングを出ていった。
里親夫婦は互いに顔を見合わせた。
食後、洗い物の手伝いをし、入浴を終えたマナは、パジャマ姿でリビングでテレビを見ていた。
里親夫婦も一緒に見ている。ソファーに夫婦が並んで座り、マナはエイイチの膝の上に座っている。
テレビでは去年公開されたアニメ映画が放送されていた。次々と繰り広げられる派手な爆発とアクションシーンを、マナは真剣に見入っていた。
CMに入った。それと同時に、マナはブルっと体を震わせる。
「うぅ、今のうちにトイレー」
そう言ってエイイチの膝から飛び降りると、走ってリビングを出ていった。
リビングのドアがバタンと閉まる。
廊下を進み、トイレの前までやってきた。しかし、明かりが点いていて、鍵がかかっている。
「ミズホお姉ちゃんかな?」
その瞬間、トイレの中から「オエェー!」という叫びに近い声が聞こえた。マナはビクッと体をこわばらせる。
間を開けず、ビチャビチャと水が跳ねる音がする。
「ミズホお姉ちゃん? 大丈夫?」
マナは恐る恐る扉に声をかける。しかし返事はない。
やがて、水を流す音がして、扉が開いた。
出てきたのは、やはりミズホだった。顔色が悪く、おぼつかない足取りでヨタヨタと廊下を歩き、洗面所に入っていった。マナの存在には気付いていない様子だ。
扉を開け放したトイレから、酸っぱさの混じった生臭い悪臭が漂ってきた。
マナは迷うようにリビングの扉を見て、少し考えてから、意を決したように洗面所にむかった。
洗面所では、ミズホが口をゆすいでいた。
「ミズホお姉ちゃん……大丈夫?」
マナは横まで行くと、恐る恐る声をかける。だが、ミズホはマナに気付いていないようだ。
「ミズホお姉ちゃんっ!」
マナは声を大きくしてもう一度声をかけた。するとミズホはゆっくりとマナに顔をむけ。
「ひゃっ!」
そこにマナがいたことが完全に予想外だったようだ。驚いた拍子に、何かがポケットから落ちた。
マナは床に落ちたそれに視線をむける。
スマートフォンだった。
マナは拾いあげる。
画面には、ある産婦人科病院のホームページ内の記事が表示されていた。
記事のタイトルは『もし、高校生で妊娠したら』
マナはそのタイトルをはっきりを見た。
「ミズホお姉ちゃん……お腹に赤ちゃんいるのか?」
ミズホ慌てた様子でマナの手からスマートフォンをひったくる。
「見ないで!」
それに驚いたマナは、怯えた表情で後ずさる。そして震える声で尋ねてた。
「ミズホお姉ちゃん、赤ちゃん、いるの?」
「うん……多分……」
「おじさんとおばさんも、知ってるの?」
「……知らない。誰にも言ってない」
「お腹に赤ちゃんいるなら……病院行かないの?」
「うるさい!」
ミズホは声を荒げる。
マナはビクッと体を強張らせる。
「ごめん、びっくりさせて」
ミズホは息を吐くと、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた後、自分の腹部を撫でる。
「大丈夫……大丈夫だから、このことは、誰にも言わないで。お願い、秘密にしてて」
ミズホは今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「このことは、秘密だよ」
マナの脳裏に、声がよみがえった。それは、父親の声だった。
「秘密に……する」
マナは小さくつぶやくと、リビングへと戻っていった。




