ナオカ編 その3
数日後の日曜日。
ナオカは本所の廊下にいた。
目の前には、一枚の扉。小会議室である。
「このむこうに、お父さんとお母さんがいるの?」
ナオカはすぐ横にいた副施設長とタマキの顔を交互に見上げる。
「うん。ナオカの好きなタイミングで入っていいよ」
副施設長がそう言うと、ナオカは一度深呼吸して、ドアノブを握る。
ゆっくりとドアが開いた。
「失礼……します」
ナオカは緊張の足取りで入っていく。
白い壁に、ブラインドが取り付けられた窓。ホワイトボード。壁に取り付けられた時計。いたって平凡な小会議室。
中央にテーブルがあり、それを取り囲むように椅子が置かれている。
室内には、児童福祉司と、そして、一組の男女がいた。
三十代前半くらいの真面目なサラリーマンという印象の男性。同じくらいの年齢の女性。この二人がナオカの両親だった。
母親はまだ一歳にもなっていなさそうな赤ちゃんを抱いている。さらに、部屋の端っこで三歳くらいの男の子が車のおもちゃで遊んでいた。
両親は緊張の面持ちだったが、ナオカと目が合うとニコリと笑った。
「あっ」
ナオカは思わず声を上げた。
なぜなら母親は、数日前、学校から帰宅途中のナオカに声かけした、あの女性だったのだ。
「やっぱり、あなたがナオカちゃんだったんだ。この前はびっくりさせちゃったかな? ごめんね」
母親は弾んだ声で言った。
「ナオカ、お母様に会ったことあるの?」
副施設長が尋ねる。
「うん。前に学校の帰りに声をかけてきた人……」
副施設長と児童福祉司の視線が一斉に母親にむく。
「いくらあなたのお子さんでも、勝手な接触は止めてください」
児童福祉司が強めの口調で言う。
「はーい。気を付けまーす」
その口調は、あまり反省していないようだった。
「まあ、その話は後で」
児童福祉司がため息交じりに言うと、母は誤魔化すように笑った。
壁に取り付けられた時計がカチッ、カチッと音を立てる。
全員が席に着き、しばらくの間、沈黙があった。
やがて、父親がゆっくりと口を開く。
「ナオカ、大きくなったね」
ナオカはチラリと父親を見て、一度うつむいてから、もう一度顔を上げた。
「本当に、私のお父さんとお母さんなの?」
両親は同時にうなずく。
そして、母親が口を開く。
「うん。そうだよ。あなたのお父さんと、お母さんだよ。迎えに来たよ。これからは、一緒に暮らそうね」
母は、目元に滲んだ涙をハンカチで拭った。
ナオカは視線を左右に動かし、ゆっくりと尋ねる。
「一緒に、暮らす?」
ナオカが聞き返すと、両親は笑顔でうなずく。
「ご両親はナオカちゃんと一緒に暮らしたいって言ってるけど、今日はとりあえず顔合わせだけだし、これからのことはナオカちゃんが決めていいんだよ」
児童福祉司が付け足した。
「お父さんたちは、ナオカと一緒に暮らしたいな」
父親がニコリと笑った。
ナオカはうつむく。膝の上に置いた手が、微かに震えている。そして、ゆっくりと、絞り出すように尋ねる。
「あのね、教えて欲しいの」
「うん。何でも聞いて」
父親は笑顔だ。
「ナオカは、何で『なおか』なの?」
両親は不思議そうに首をかしげる。
「えっとね、ナオカは何で『なおか』って名前なのか教えてほしいなって」
ナオカはそう言うと、すぐに目を伏せた。
両親は互いに顔を見合わせてから、父親がナオカに視線を向けてゆっくりと口を開く。
「ナオカの名前はね、ナオカが生まれた病院で聞いた名前だったんだ」
「へ?」
ナオカが呆気に取られていると、父はゆっくりと話す。
「僕はね、大学を卒業してすぐにベンチャー企業を立ち上げて、その頃にお母さんのお腹に赤ちゃんができたんだ。それがナオカだよ」
そのとき、会議室の隅っこで遊んでいた男の子が母親に駆け寄る。
「お母さーん、まだ終わらないの? たいくつー」
「今、お姉ちゃんと大事な話をしてるから、もうちょっと待っててね」
母がそう言うと、男の子はふてくされたように再び一人で遊び始めた。
「……お姉ちゃん」
ナオカは小さくつぶやく。その声は、誰の耳にも届かなかった。
「続きを話すね」
父が口を開き、ナオカはそちらに視線をむける。
「それでね、お母さんと結婚して、ナオカが生まれてくるのを楽しみにしてたんだけど、そんなときに会社が倒産しちゃって、赤ちゃんが生まれても育てられなくなったんだ。それで、生まれたらすぐに、施設に入れることにした」
「あの頃は本当に大変だったの。もうすぐ赤ちゃんが生まれてくるのに、会社はつぶれちゃって、これからどうしようって」
母親は父親に「ねっ」と目配せした。
父親は一度うなずき、続きを語る。
「毎日大変で、赤ちゃんの名前を考える余裕も無かった。でも、名無しじゃ可哀そうだと思ってね、せめて名前を付けてあげようと思った」
父親は一度息を吸いなおす。
「ナオカが生まれた病院で、他の患者さんが『娘の名前をナオカにした』って話しをしていたんだ。素敵な名前だなって思って、お父さんたちの娘の名前も、ナオカにしようって決めた。漢字はわからなかったから、ひらがなで『なおか』に決めた。今聞いても、いい名前だと思うな」
母親が続く。
「私は産後でヘトヘトだったし、お父さんはなんとか生活を立て直そうと、あちこち走り回ってた。大変な時期だったけど、それでも、二人で頑張ってプレゼントした名前なのよ」
ナオカ小さく「そうなんだ」とつぶやく。
「ナオカ、一回休憩する?」
そのとき、立ち会っていたタマキが心配そうに声をかけた。
「ううん。大丈夫」
ナオカは小さく首を横に振り、黙る。
カチ、カチと時計の音が響く。
やがて、母親が口を開いた。
「ナオカのこと、もっと聞きたいな。好きな食べ物とか」
その一言で、ナオカの表情はパッと明るくなった。
「私ね、ミツバのお吸い物が大好きなの。そこにいるタマちゃんが作ってくれてね、すごく美味しい」
だが、母親はキョトンとした表情で首を傾げた。
「ミツバ? あー、なんか葉っぱのやつ。うちでは使ったことないかな」
そこで、父親が尋ねる。
「他に、ナオカの好きなものはあるかい? 趣味とか?」
ナオカはうなずくと、少し照れたように言う。
「えっと、あのね、私ね『ティンクルドリーム☆アリスちゃん』が大好き。毎週やってるアニメ。お父さんとお母さんも知ってる?」
すると、母親が困ったような表情で答える。
「う~ん、私たちはアニメ見ないから、わかんないかな」
母親は父親を見る。
「アニメもいいけど、勉強も大事だぞ。お父さんはいっぱい勉強して、すごい大学出たからね。子どもたちも、同じ人生を歩んでほしいね」
父親は冗談っぽく言った。ナオカはうつむき、服の裾を強く握る。
「ナオカさんは、学校の成績もいいですよ」
副施設長が言うと、両親は満足げにうなずいた。
そのとき、部屋の隅で遊んでいた男の子が再び母親に駆け寄った。
「おかーさん、退屈! もういいでしょ」
それに触発されたように、母親が抱いていた赤ちゃんもぐずりはじめ、母親があやす。
「一回、休憩しましょうか」
副施設長がそう言うと、父親がハッとしたような表情を浮かべた。何か妙案を思いついた顔だ。
「そうだ。休憩の間、ナオカお姉ちゃんに遊んでもらいなさい」
父親は男の子にそう言うと、ナオカに視線をむける。
「ナオカ、お姉ちゃんなんだから、弟と遊んであげて。きっとすぐに、仲良くなれるよ」
「それは……」
副施設長が父親を制止しようとしたそのときだ。
「あのね」
ナオカの声が響いた。うつむいたまま、震える声。
「あのね、私のお友達で、コハルちゃんっていう女の子がいるの。コハルちゃんは施設じゃなくて、普通のお家で暮らしてて、お父さんとお母さんがいてね、よく『好き』って言ってもらってるんだって」
ナオカは顔を上げる。その瞳は、涙で潤んでいた。
「お父さん、お母さん。私だけを『見て』よ。私だけが『大切』って言ってよ」
涙をにじませ、必死に訴えるようにナオカは叫ぶ。
「私だけを『好き』って言ってよ!」
静まり返る会議室。
両親は互いに見つめ合ったあと、ゆっくりとうなずく。そして、父親が口を開いた。
「あー、そっか、わかったよ。ナオカは寂しかったんだね」
その途端、ナオカの表情がパッと明るくなった。嬉しさがあふれ出た、希望に満ちた顔になった。
「安心して。ナオカはもう家族の一員、三きょうだいのお姉ちゃんだよ。お父さんたちは、他のきょうだいと差を付けるようなことはしないから。みんな同じように大好きだよ」
続く言葉を聞いた途端、ナオカの全身が震える。呼吸が荒くなり、目が見開かれる。
「うわぁぁぁー!」
あっという間の出来事だった。ナオカは立ち上がると、椅子を持ち上げ、両親の元へ。
そして、椅子を投げつけようと振り上げたその瞬間。
「ダメだよ」
声が響いた。
タマキの声だった。
ナオカの動きが、ピタリと止まった。椅子を振り上げたまま、微かに腕が震えている。
「ダメだよ、ナオカ」
タマキは力強く、しかし口調は穏やかだった。まるで、夕食前にお菓子をねだる子に言い聞かせるような、そんな雰囲気だった。
ナオカは動きを止めたまま、両親を見る。
男の子を抱き寄せる父親。赤ちゃんを庇うような姿勢になる母親。
その時、母親の胸の中で赤ちゃんが泣きはじめた。うわぁーんという声が狭い会議室に反響する。
ナオカはゆっくりと椅子を床に置くと、会議室を飛び出した。
廊下に出て少し進んだところで立ち止まる。うつむき、固く握ったこぶしが震えていた。
飛び出した際に開けっ放しになった会議室のドア。そのむこうから、赤ちゃんの泣き声に混ざって、父親の声が聞こえてくる。
「あの……、ナオカってあんなに暴力的な子なんですか?」
ナオカは高いところから落ちるような感覚がした。耳に届く全ての音が遠くに聞こえる。
「ちがう……ちがうもん……」
そうつぶやき、唇を強く噛んだ。
「ナオカ」
その時、後ろから声がした。振り返らなくてもわかる。タマキだった。
「よく頑張ったね、ナオカ」
タマキは正面に回ってきた。
「唇から血が出てる。拭いてあげる。おいで」
タマキはナオカの肩を抱き、別室に連れていった。
その日の夜。
第3ホームに戻ってきたナオカは、中学一年生のアンナの部屋の前にやってきた。
手には、ワスレナグサの便箋。
「アンナお姉ちゃん、今いい?」
ふすまごしに声をかけると、アンナは出てきた。
「これ、使わなかったから返す」
ナオカは便箋を差し出す。
「あれ? 減ってないみたいだけど、もういいの?」
アンナが尋ねると、ナオカは小さくうなずき、足早に自室に戻った。
数日後の夕方。ナオカは施設の縁側に腰かけ、ぼんやりと外を眺ていた。
「じゃあ、通知表もらいに行ってくるね」
タマキが後ろから声をかけると、ナオカは小さくうなずく。
「タマちゃん……学校お休みして、ごめんなさい」
ナオカは今にも消えてしまいそうな小さな声で言った。
「別にいいよ。明日から夏休みだし、ゆっくりしてて」
タマキはそう言って、去っていった。
それと入れ替わるように、マナがやってきた。ショートパンツを穿いて、上は少し大きめのTシャツという格好だ。
「ナーオカっ」
マナは縁側に寝そべると、ゴロゴロと転がり、ナオカに近寄ってくる。
「どうしたんだよ、学校もずっとお休みしてるし。何かあったのか?」
寝そべったまま見つめるマナ。ナオカはうつむき、自分の膝を見つめる。
「前の日曜日、お父さんとお母さんに会った。でも……」
「その感じだと、上手くいかなかったのか?」
マナが尋ねると、ナオカは小さくうなずいた。
「この前、私が変な人に声をかけられて、マナが助けてくれたでしょ?」
「ああ」
「あの人が、私のお母さんだった。ちっちゃい男の子と、赤ちゃんもいた。何も知らないのに、お姉ちゃんって呼ばれた……。急にそんなこと言われても、困るのに」
ナオカの膝に置いた手が震える。
「私ね、『ティンクルドリーム☆アリスちゃん』のお話ししたかったのに、できなかった……」
マナはしばらく考えた後、勢いをつけて立ち上がる。
「ちょっと待ってろ、ナオカ」
そのまま、ドタバタと足音を立ててどこかへ走り去る。そして、すぐまたドタバタと戻ってきた。
「ナオカ、これあげる」
ナオカが抱えてきたのは、大きなお菓子の缶だった。
「なにこれ?」
ナオカは缶を受け取ると、不思議そうに膝に置いた。缶は大きいが、中に何も入っていないのかと思うほど軽い。
「マナの宝物、ナオカにあげる。だから元気出せ!」
マナは自信がある様子。
ナオカはゆっくりと蓋を開ける。
「キャッ!」
その途端、思わず声が出た。
缶の中に入っていたのは、ヘビの抜け殻だった。丁寧に丸められえて、缶の中に納まっていた。
ナオカは慌てて缶を自分の横に置く。
「もうっ! こんな気持ち悪いもの渡してくるなんて、嫌がらせ?」
声を荒らげるナオカ。
だが、その勢いは長続きしなかった。
「そんな……マナの一番の宝物だったのに……」
マナは本当にショックを受けている様子だ。
ナオカはゆっくりと缶の中をのぞく。ヘビの抜け殻。やはりナオカには気持ち悪く感じる。そっと蓋をした。
「じゃあ……もらっとく」
マナはナオカの横に座った。
カナカナカナと、ひぐらしの鳴く声が響いている。
かたむいた太陽が、周囲を赤く照らす。
おもむろに、ナオカの膝にポタリ、ポタリと滴が落ちる。
そう。ナオカは泣いていた。
「ど、どうしたんだよ。ヘビの抜け殻、そんなに嫌だったか?」
マナは慌てた様子でナオカの顔を覗き込んだ。ナオカは首を横に振って否定した。
「ううん。そうじゃない。そうじゃ……ない」
ナオカは一度鼻水をすすると、こう続けた。
「私……私ね、ずっとね『好き』は順番だと思ってた。私が『好き』をもらっていないのは、まだ順番が来ていないだけだと思ってた。いい子にしてれば、そしたらね、いつか。きっと、いつか、私も『好き』をもらえると思ってた。だから頑張ってたのに、なのにね……」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、ナオカは叫んだ。
「私の順番なんて、はじめからなかった!」
ひぐらしの声。
沈んでいく夕日。
縁側に座る二人の足は地面に届いておらず、ゆらゆら揺れている。
マナは体が触れそうなほど近づくと、自分が着ているTシャツの裾でナオカの鼻水を拭きとった。
「マナ、汚い! それに湿ってて汗臭い!」
ナオカは抗議するが、マナは気にしていない様子だ。
「私は、ナオカのこと好きだぞ」
マナは笑う。
「そういうことじゃない。マナは私のお母さんじゃないでしょ」
ナオカは投げやりな口調で言った。
そのとき、マナが何かに気付いて立ち上がる。
「あ、そうだ。そろそろ、『ティンクルドリーム☆アリスちゃん』の時間だぞ」
マナはナオカに手を差し伸べる。
ナオカはしばらく考えた後、ゆっくりとその手を握った。
数十分後、タマキは小学校から戻ってきた。
「ただいまー」
タマキは廊下を進み、広間を覗き込む。
するとそこには、テレビの前で眠る、ナオカとマナの姿があった。ナオカは服がめくれてお腹が出ている。
「あらら。風邪ひくよ」
タマキは別室から二枚のタオルケットを持ってきて、二人にかけた。




