アンナ編 その2
業者の人たちに手伝ってもらい、片付けはどんどん進んでいく。
ハンコや通帳のような貴重品は、チャック付きの袋に入れる。
冬物の服や、アルバムなど、トランクルームに預けておくものは、段ボール箱に詰めていく。
そして、処分するものは、別の段ボール箱に詰めていく。
一通り整理を終えた。
残しておくものを入れた箱は七箱ある。
リビングに置いたその箱を、アンナはジッとみつめる。
「もうちょっと、減らした方がいいかな」
アンナは箱を開き、そこから大きなイルカのぬいぐるみを取り出した。
抱き上げて、愛おしそうに見つめる。
その様子に気付いたアツミが声をかけた。
「それ、大切な物?」
アンナはうなずく。
「はい。八歳の誕生日プレゼントに、友達からもらったんです。倉上ミナミちゃんっていう、幼稚園の頃から一緒だったお友達で、お小遣い貯めて、プレゼントしてくれたんです」
アンナはぬいぐるみの胸びれを撫でる。そこには、言われないと気づかないくらい、微かな黒い染みがあった。
「もらった次の日に、うっかり墨汁で汚しちゃって、ミナミちゃんに泣きながら謝ったんですけど、ミナミちゃん、笑って許してくれました」
「いいお友達を持ったね」
アツミが言うと、アンナはうなずく。
「はい。ミナミちゃんも、私と同じ私立の中学に合格して、これからも一緒だと思ってたんですけど、私の方が転校しちゃいましたね」
アンナの脳裏に浮かぶ、ミナミの顔。どこか少し霞んでいる。大まかには思い出せる。でも、ほくろの位置とか、ちょっとした表情の癖とか、細かいところが思い出せない。数か月前まで一緒にいたのに。
アンナは一度息を吐く。
「処分する物って、リサイクルショップに持っていくんでしたっけ?」
「うん、リサイクルショップに持っていくけど、でも、そんなに大切な物なら無理に処分しなくても……」
アンナはアツミの言葉を遮る。
「ううん。きっと、ミナミちゃんなら許してくれます。誰か、大切にしてくれる人に出会ってね」
アンナは一度ギュっと抱きしめると、処分の段ボール箱に入れた。
「アンナちゃん……」
アツミはつぶやいた。
夕方には片付けは終わった。
「じゃあ、処分って書いてある段ボールと、家具は全部リサイクルショップに売却ということでよろしいですか?」
ハウスクリーニング業者の男性はアツミを見ながら尋ねた。
アツミはチラリとアンナを見る。
「はい、お願いします」
アンナははっきりと言ったあと、リュックサックから同意書を取り出した。事前に母が書いたものだ。
業者の人は同意書を受け取ると、不備がないか確認し、うなずいた。
ワンボックスカーに残しておく物を詰め込むと、やってきた管理会社の人に鍵を返却した。
ワンボックスカーは街を走り抜ける。
後部座席では、四つの段ボール箱が揺れている。
ハンドルを握るのはアツミ。アンナは助手席に座っている。
「ハウスクリーニングの人も、大変なんだろうな」
おもむろに、アンナはつぶやいた。
「どうして?」
アツミはハンドルを握りながら聞き返す。
「だって、知らない人の家に入っていって、嫌な顔されることもあるんだろうなって思って。お仕事してるだけなのに」
アツミは少し考えてから尋ねる。
「アンナちゃん、辛かったよね。ごめんね。負担かけちゃって」
アンナはアツミから目を逸らす。そして、ハッとしたような表情になる。
「あ、そうだ。ママに電話しなきゃ。今、電話かけていいですか?」
アンナはチラリとアツミを見る。
「うん、連絡しておいて」
アツミは前を見たままこたえた。
アンナはスマートフォンを取り出すと、母に電話をかける。
数コールの後、母は応答した。
「あ、ママ? うん、今、終わったとこ。これから残しておく物を倉庫に持っていくところ。それで……」
信号待ち。車は止まる。同時にアンナはおもむろに言葉に詰まった。
横断歩道を数人の中学生が渡っていった。
私立中学校の制服――薄いベージュの半袖セーラー服に、チェック柄のスカートという格好で、親し気に会話している。下校途中らしい。
中学生が話す声が聞こえる。
「明日の校外学習だけど――」
アンナは中学生の集団の一人に目が釘付けになった。
景色がスローモーションのように感じる。
アンナの脳裏で霞んでいた友人の顔――ミナミの表情も声も、記憶が一気に溢れてきた。
そう。集団の中に、アンナの幼馴染、ミナミがいたのだ。
「……ミナミちゃん、私の知らないお友達がいる……」
ミナミを含む中学生の集団は、アンナたちの方をチラリと見ることもなく、横断歩道を渡り終え、そのまま去っていった。
信号が青になり、アツミは車を発進させる。
『アンナ? 大丈夫?』
スマートフォンからアンナの母の声がした。
「あ、ごめん。なんでもない」
アンナは慌てて返事をした。
トランクルームに段ボール箱を預けて、病院に行って母に貴重品を渡し、施設に戻ってきた頃にはすっかり日が暮れていた。
「今日はありがとうございます、アツミさん」
アンナは深々と頭を下げた。
「ううん。大変な思いさせちゃったね。ご両親が退院したら、また元の生活に戻れることを目指して、頑張るからね」
アツミは一言一言、噛み締める様に言った。
「ありがとうございます。でも私、施設の暮らしも結構気に入ってます」
アツミは小さく「そっか」と言ってから、施設の女性職員、タマキと軽く言葉を交わし去っていった。
施設の中に入り、廊下を歩く。
「いい匂い。今日の晩ごはん、カレーですか?」
歩きながらアンナは尋ねる。
「うん、まだみんな食べ始めてないから、アンナも一緒に食べよ」
「はいっ。カレー、大好きです」
アンナはタマキの顔を見ずにこたえた。
夕食の後、アンナは風呂を終え、二階にある自室に戻ろうとしたときだ。
「アンナ」
後ろから名前を呼ばれた。アンナは立ち止まり、振り返る。
「アンナ。えっと、大丈夫?」
サユキだった。車いすを漕ぎながら、アンナに近づいてくる。
「大丈夫……じゃないかも。ちょっとだけ……」
アンナはそう言って、笑ってみせた。
サユキは迷うように視線を左右に動かす。
「えっと……えっと、あ、そうだ! アンナ。耳掃除してあげる」
サユキはニコリと笑った。
「へ? 耳掃除?」
突然のことにアンナが戸惑っていると、サユキは自信あり気にうなずく。
「うん。耳掃除」
共用の広い和室。
サユキは滑るように車いすから降り、腕の力で壁際へ。壁にもたれながら足を投げ出して座る。
「ほら、遠慮なく」
サユキは自分の膝をポンポンと叩いた。
「えっと、私、そんなに耳詰まってないと思うよ」
アンナは戸惑いながら、サユキの横に座った。
「いいから。下の子の面倒見なさいって、いつも職員さんが言ってるでしょ」
「サユキちゃん、都合のいいときだけ私を年下扱いする」
「実際、アンナは年下でしょ」
アンナは息を吐き、ゆっくりと横になると、サユキの太ももに頭を乗せた。顔はサユキのつま先へとむけている。
「大丈夫? 重くない? 最近太ちゃったから」
アンナはサユキの脚の上で、せわしなく頭を動かす。
「アンナは太ってないし、重くない。私は、脚の感覚が無いんだから、気にしないの。危ないから、動かないでね」
サユキはアンナの頭を押さえると、耳かきを使って耳掃除をはじめた。
「アンナ、今日、学校休んで出かけてたよね。どこ行ってたの?」
サユキは尋ねる。
アンナは少し考えて、ゆっくり口を開く。
「……家、帰ってた」
「家って、前に住んでた家? ずっと帰りたいって言ってた」
「うん……でも、もう無くなっちゃった。あそこはもう、私の家じゃない。片付けてきた。住んでない家の家賃払い続けられるほど、パパとママはお金に余裕が無いんだって。それはそうだよね」
アンナはゆっくりと、長く、息を吐いた。
そして、さらに続ける。
「サユキちゃん、あのね。私は別に、何かが変わっていくのが嫌なんじゃないんだよ。家が無くなっちゃったの、仕方ないって、わかってる……本当は、悲しいけど」
「うん」
「でもね、ママが病気で入院して、パパと二人暮らしになって、料理も洗濯もできるようになったと思ったら、今度はパパが事故で入院して、中学校は入学して二日目で転校して、施設で暮らすようになって、いつか帰りたいって思ってた家が無くなって……」
アンナは無意識に手に力を込めていた。
「片方終わったよ。次は反対の耳。体勢変えて」
サユキに促されて、アンナは寝返りをうった。今後はサユキのお腹へと顔をむける。
アンナの目と鼻の先に、サユキの体がある。サユキの匂いも、サユキの体温も間近で感じた。
サユキは丁寧に、優しい手つきでアンナのもう片方の耳に耳かきを入れる。
アンナは震える声で、つぶやくように言う。
「変わっていくのも、進んでいくのも、嫌なんじゃないんだよ。本当は、ちょっと恐いけど、でも、そこは頑張れる」
アンナは息継ぎをして、さらに続ける。
「でもね、何かが変わって、それを噛んで飲み込む前に、また別の何かを飲み込まないといけなくなる。もうちょっと、ゆっくりさせてほしいな。それを言ったら、頑固だとか、怠けてるとかって思われちゃうのかな? でも、ゲームみたいに、一時停止してゆっくり考えられたらいいのにって思うんだ」
サユキは耳かきを引き抜き、横に置いた。
アンナはつぶやく。
「私、耳掃除してもらうの嫌いかも」
「あれ? そうだった?」
サユキはそう言いつつ、あまり意外そうな顔はしていない。
「だって、終わったとき寂しくなっちゃうもん」
アンナは少し拗ねたように言った。
「アンナ、私は知ってるよ。アンナは明るくて元気な女の子だけど、それが全部じゃないこと」
サユキはゆっくりと優しく、アンナの髪を撫ではじめた。
「明るくて元気な女の子でいるの、結構大変なんだよ」
アンナの瞳から、一滴の涙が落ちた。涙はアンナの顔を伝い、サユキのスカートに沁み込んでいく。
「ママが病気になんてならなきゃよかった。パパが事故になんて遭わなきゃよかった。もしも、もしもあの家で暮らし続けられてたら……、私は普通に学校に行って、幼稚園からのお友達と遊んで、家に帰るとママが『おかえり』って言ってくれて、夜にはパパが帰ってきて、みんなでご飯を食べて……」
アンナは声を詰まらせながらつぶやく。
サユキはアンナの髪を撫でながら、ゆっくりと歌いはじめる。
それは、カーペンターズの『イエスタデイ・ワンス・モア』だった。
美しい発音の英語。
本来のものよりゆっくりな、まるで子守歌のようなテンポ。
アンナは歌を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
「明日も、私の世界は変わっちゃうのかな……嫌だな。恐いな」
アンナは小さくつぶやいた。




