5、青い染み、或いは黄褐色の染み
つまり、動き出した美の女神の彫像は、ここにいる男性使用人を誘惑したのだ。
メグは彼に一応確認した。
「美の女神は貴方に向かって名乗りましたか?」
「まさか」
やはりただの誘惑で、求愛行動ではなかった。両者の区別は難しくない。人ならざる存在が人に求愛する時には必ず向こうから自分の正体を明かして名乗り、もし個体名がなければ相手に名付けを乞うものだから。
「それではそちらを先に浄化しましょう。それにしても、よく逃げられましたね」
「厨房に、セージとローズマリーを置いていたことを思い出しまして」
パセリ、セージ、ローズマリー、タイムといった香草類が魔除けになることは、この北部連邦を含む連合帝国文化圏の人間ならば、ほとんどの人間が知っている。
男性使用人は厨房に飛び込み、セージとローズマリーの束を身に付けることで辛くも難を逃れたのだった。
彼が彫刻のことを教えてくれて良かった、とメグは思った。絵画に取り憑いたモノよりも、彫刻という仮初めの器を手に入れたモノの方が自由に動ける分、遥かに危険度が高い。しかも魔物や悪霊が人間を誘惑するのは捕食するためだ。
「『動く彫像』は、朝には、元の場所に戻ることが多いものですわ。どちらにおいてあったのかしら?」
リューがそう尋ねると、男性使用人は今いる廊下の奥にある収集品展示室が彫像の置かれている場所だと答えた。
「ではそこに連れて行ってくださいまし。大丈夫、私たちの側が、このお屋敷の中で一番安全ですわ」
リューの笑みに見惚れた男性使用人は、素直にその言葉に従った。
六十インチほどの滑らかな大理石の女神が、三十インチの大理石の台座に立ち、二匹の猫を供に従えていた。
それは実に美しい彫像だったが、何故か右足の小指が青く汚れていた。
「メグ」
「ええ、リュー。私も今、気付いたところよ」
原因は、この汚れだ。
メグがどうしようかと考えていると、頭の中で姫御子の声がした。
――大海神の力で、この不浄なものを洗い落とせば良かろう。
――私には、そのやり方が分かりません。
――ならば教えてしんぜよう。妾はこの屋敷は好かぬ故、表に出とうないのじゃ。一度目を閉じよ。
メグが言われた通りにすると、脳内に、大海神の力で不浄なものを洗い落とすイメージが浮かんだ。……なるほど、これなら容易に出来そうだった。
彼女は手を女神像の右足の上にかざし、小さな水の渦を出して、女神像の汚れを落とした。
後は、浄めの歌ではなく普通の歌でも充分。
メグは、先週末の食事会の時に耳にした、連合帝国北西部の民謡を歌った。恋人がいつか歳を取ってその美しさが褪せたとしても自分の愛は変わらないと約束する歌だ。
美の女神像に取り憑いていた悪霊は、瞬く間に祓われた。きっと生前は、若さと美しさばかりを恃むような人間だったのだろう。
次に廊下に並べて掛けられた絵画を調べると、予期した通り、全ての額縁に青い汚れが付いていた。
それらを一つ一つ洗い落とし、歌いながら悪霊を祓っていく。感覚としては掃除に近い。そのまま「掃除」をしながらリビングに戻って気付いた。ここが最も汚れている、と。
「ここでお茶を頂く気には、なれないわね」
リューの言葉に、メグも頷いた。
リビングの隅には、少女の姿をした灰色の霊が蹲っていた。それは「灰色の少女」と呼ばれる霊で、その目を見つめると動けなくなってしまうという、少し厄介な悪霊だった。
「アレは私が。メグは汚れを洗い落として」
リューが何処からともなく一本の緋色の扇を取り出した。メグはその扇を見て目を丸くした。いつもと随分見た目は違っているけれども、その魔力から判断してリューの使い魔の火焔狐に違いなかったので。
「詳しい話は後でね」
それだけ言って扇を構えた彼に「灰色の少女」を任せ、メグは壁や調度の裏に付いた青い汚れを洗い落とした。その際、その青い汚れのうち、日に当たった部分が青から黄褐色に変色しているのを彼女は見逃さなかった。
「この汚れは、手足があって物を考えられる相手の仕業で間違いない……」
少なくとも、今リューが相手にしている「灰色の少女」の仕業ではない。
メグはリューの方を見た。
邪視によって相手の動きを封じようとする「灰色の少女」。しかし、リューはその視線を時に扇を開いて遮りながら、舞うような軽やかな身のこなしで翻弄し、決して相手と目を合わせない。そのままひらりと蝶のように巧みに相手の後ろに回り、最後に閉じた扇の先で相手の延髄を突いた。
悪霊は断末魔の悲鳴を上げて倒れ伏し、少々焦げたような臭いを立てて動かなくなった。そのうち、その灰色の輪郭も緩やかにぼやけて、姿が薄くなっていく。
同時に、火焔狐の扇が、リューの右手からするりと姿を消した。
「さてと、後は歌うだけね」
リューが妖艶な笑顔でメグを振り返った時、彼女は数秒ほど、返事が出来なかった。
「……まさか、アレの目を見てしまったのですか?」
リューが慌て出した。今見せた妖艶さはどこへやら、少女らしい演技も忘れ、不安げな仔犬のような顔で。そんな彼に、メグは思わず、ふふっと笑ってしまった。
「ごめんなさい、大丈夫」
それを聞いたリューが明らかにほっとした顔で、肩の力を抜いたので、メグは正直に打ち明けた。
「つい見惚れてしまったの。だって、あまりにも、リューが綺麗だったから」
すぐにリューが赤くなったのは、照れたせいなのだろうな、ということはメグにも分かった。
二人で声を合わせて、この日何回目かの帝国北西部民謡を歌った後、リューがメグに尋ねた。
「そういえば、最近は皇国の、何だか勇ましい歌ばかり歌っているようだったのに、今日は違うのね?」
メグは頷いた。
「先週末のお食事会の時にこの歌を聞いてから、改めて、素敵な歌だなぁ、と思って」
リューが少し首を傾げた。誰が歌っていただろうか、と思い出そうとするように。
「どなたが、この歌を歌っていたかしら?」
「リューは聞いていないと思うわ。高貴な方がお料理中に鼻歌で歌っていらしたのだもの」
内緒話を打ち明けるようにそう囁くと、何故かリューの表情が曇った。
「メグ、まさかとは思うけれど……」
何故そのような顔をするのだろう、と思いながら、メグは言った。
「本当に、あの方がお父様で、あの方の奥様がお母様だったら、どんなに素敵だろうと思わない?」
リューは一瞬きょとんとした後、力が抜けたようにふふっと笑った。
「……確かに、私にも時々そう思う時があるわ。とてもよく分かる。あの方は本当に素敵な『お父様』よね」
そう言った後、涙が滲むほど彼が笑ったので、メグは少し心配になってしまった。
ともあれ屋敷中に漂っていた死体置き場のような空気はすっかり浄められ、本来の明るさが戻って来た。
これで万事解決もう安心、となれば良いのだけれども、そうはいかないことをメグもリューも知っていた。
果たして、アヴリル嬢に求婚しようという三人の男たちが揃って屋敷を訪ねて来るのと同時に、再び屋敷の中に澱んだ空気が漂い始めた。
予想していたこととはとはいえ、メグは内心で溜め息をついた。この三人の男たちのうちの誰かが、屋敷の絵画や彫刻、壁や調度に青、或いは黄褐色の染みを付けていたのは確実だろう。その人物を、すぐにも特定せねばならない。
……だというのに。
――エズメが、風精霊との魔力調整のために遅れるって。
聖騎士団員関係者同士の連絡を担う使い魔のロビンが、リューとメグにそう伝えて来たのだった。
お料理好きで高貴な誰かさんは、「春の日の花と輝く」や「ラベンダーズ・ブルー」をよく口ずさんでおります。艶やかなバリトンボイスでご想像ください。




