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8話 忘れられる味

 2日目・朝


 薄暗い冷気が部屋のあらゆる隙間から忍び込み、重く滞留していた。

 安アパートの薄い壁は外の刺すような低気温を容赦なく室内へ通す。薄汚れ、破れかけたカーテンを透過して射し込む朝の光はどこまでも弱々しく重い曇天の灰白色をただ水で薄めただけのような生気のない頼りない明かりだった。


 ユイは浅い眠りの底から、浮遊感を伴ってゆっくりと浮上した。

 寝具の端から押し出されていた自分の指先に触れた朝の冷気に小さく肩をすくめる。ぼんやりとした視界で最初に見えたのは見慣れた天井だった。

 薄汚れた板張りの木目。角のほうに走る幾筋かの小さな亀裂。生まれた時から自分を取り巻いてきた、孤独そのものの風景。


 ふと胸の奥にざわめきを覚え、隣に置かれた折り畳みソファへと視線を走らせる。

 ――誰もいなかった。


 敷きっぱなしだったはずの毛布は雑に折り畳まれており、そこには昨日まで確かに存在していた黒いコートの重みも、過酷な現場の疲労と緊張感を撒き散らしていた男の気配も、綺麗さっぱり残っていなかった。


「……帰った?」


 ぽつりと乾いた声が漏れた。

 一瞬だけ、胸の奥が不自然に浮き立つような、嫌な浮遊感があった。

 昨夜のあの居心地の良い沈黙も、少し軽くなった二人の雑談も、すべては追い詰められた自分が作り出した都合の良い幻覚だったのではないか。

 四十八時間という猶予期間の満了を待つまでもなくあの監察官は自分の役割を淡々と終え、去っていったのだろうか。


 どうせ記憶を消されることが決まっている自分に最初から執着や興味など持つはずもないのだから。それが当然の帰結だ。


 ユイは小さく溜息を吐き、重い身体を起こそうとした。

 ――その時だった。


 カチャリ、と静寂を破る小さな金属音が部屋の隅で響いた。

 続いて分厚い紙袋が擦れ合うカサカサという質素な音が狭いキッチンの陰から聞こえてくる。


「うわっ……!?」


 不意を突かれ、ユイは思わず素っ頓狂な声を上げて起き上がった。

 半ば跳ね起きるようにして振り返った視線の先――狭く薄暗い調理台の脇にその男は立っていた。


 アズだった。

 大きな茶色の紙袋を両腕でしっかりと抱え込み、慢性的な眠気と疲労の混ざった薄い目でこちらを無感情に見下ろしている。まるで最初からそこにいて当然のように朝の準備を進めていたかのような顔だ。白々しいほどに自然な態度だった。


「な、なんですか、その急な登場は……!」


 ユイは跳ね上がる胸元を片手で押さえながら、やや尖った声で咎めた。

 驚きで、心臓がまだ小さく速く脈打っている。


「いや、お前が起きるのが静かすぎるんだよ。気配の消し方が玄人並みだろ」

「それはこっちの台詞です。何をしてたんですか。急にいなくならないでくださいよ……」

「消えてねえよ。ただの食料調達だ」


 そう言うとアズは腕の中に抱えた紙袋を少しだけ持ち上げて見せた。

 袋の中で重い缶詰同士が傾き、カチャンと固い金属音を立てる。チラリと見えた袋の中身には、下層の壊れかけた無人販売機では到底お目にかかれないような整ったパッケージデザインの高級缶詰や真空パックの高カロリー栄養バー、さらにはガラスの瓶に入った琥珀色の妙に上等そうな飲料まで詰め込まれていた。


 ユイは目を丸くしてその紙袋とアズの顔を何度も交互に見比べた。


「どこで買ってきたんですか?こんなもの……。街は完全に封鎖されてるはずでしょう?」

「監察局の緊急時備蓄ルートだ。内部転送のついでに近くの連絡拠点から引っ張ってきた」

「……権力」


 ユイは呆れた半目になって、ポツリと呟いた。


「『便利』と言えよ、便利と」

「便利すぎません? 私なんて昨日の夕飯、食人花の若葉を炒めて誤魔化そうとしてたのに」

「あれはお前が勝手に俺に食わせて毒味させようとしてきたんだろ。今さら被害者ぶるな」


 アズは呆れたように鼻で笑うと、紙袋を古い折り畳みテーブルの上に無雑作に置いた。ドサリと、ずっしりとした重みのある音が狭い室内に響く。


「一応外の様子も確認してきたが、封鎖範囲自体は変わってないな」


 アズの口から出たその言葉を聞いた瞬間ユイの肩からすっと余計な緊張が抜けた。


「広がりは……してないんですか?」

「今のところはな。少なくとも昨夜の時点から境界線のさらなる拡張や新たな侵食は見られない。外側の監視班も『現象の安定期』に入ったと判断してる」

「……そうですか」


 ユイは膝の上で固く結んでいた指をゆっくりとほどいた。

 ずっと胸の奥底で酷く冷たく張りつめていた弦がほんの少しだけ弛むのを感じる。


 自分がこの世界に存在しているだけで見知らぬ誰かの生活やこの街全体を底なしの異常事態へ巻き込んでしまっているという恐ろしい罪悪感。

 それが「ひとまず留まっている」という事実だけでどれほど救われるか。自分に対する処分や対応も、今すぐに悪化することはないだろう。


 完全に解決したわけではない。けれど“今すぐ破滅するわけではない”という一回分の猶予を与えられたことは、今のユイにとって何よりの救いだった。


 アズはテーブルにもたれかかったままそんなユイの様子を無言で見つめていた。

 しばらくの沈黙のあと彼は眉をひそめ、なんとも形容しがたい妙な表情を浮かべる。


「……なんですか、その顔は」

「いや」


 アズは視線を少しだけ斜め下へ逸らした。


「昨日より、だいぶ顔色が良くなったと思ってな」

「そうですか……?」


 ユイは自分の頬に触れようと手を伸ばしかけ、途中で急に気恥ずかしくなって手を引っ込めた。

 姿見を見ていないから自分ではよく分からない。だが、身体が妙に軽いのは確かだった。まぶたの裏にこびりついていた重い疲労感が薄れ、頭の奥が久々にスッキリとしている。ここ数ヶ月間の中で、たしかに一番深くまともに眠れた気がした。


 ――その理由は自分でもよく分かっていた。


 この狭くて寒い部屋の床に自分以外の誰かが確かに息をして転がっていたからだ。

 目を開ければそこに人間がいて、声をかければくだらない軽口が即座に返ってくる。その当たり前の事実だけで夜の暗闇がどれほど軽くなったか。


 それを素直に言葉にして口に出すのはあまりにも気恥ずかしく、ユイは俯いたまま小さく頷くことしかできなかった。


「まあ……少しは」

「眠れたんだろ」

「……まあ、はい」

「だろうな」


 アズはそれだけ言うといつものように意地悪く茶化したり、冷やかして笑ったりしなかった。珍しい、とユイは少し意外に思った。普段なら「感謝しろ」とでも自慢げに言いそうなものなのに彼はただ了解したように短く息を吐いただけだった。


 アズはゆっくりとソファに深く腰を下ろすと紙袋の中からゴツゴツとした無骨な金属缶をひとつ取り出し、放り投げるようにユイの膝へ向けて投げ渡した。


「飲め」


 膝の上で受け止めた缶は見た目以上にズシリと重かった。


「なんですか、これ」

「高濃度栄養剤」

「……すごく薬っぽい味がしそうですけど」

「実際、ほぼ薬だ。監察官が徹夜開けに死にそうな脳みそを無理やり叩き起こすための奴だからな」

「最悪じゃないですか」

「朝から元気に文句が出るようになったな」

「元気じゃないです。警戒してるだけです」

「似たようなもんだ」


 ユイは渋々、缶の頑丈なプルタブに指をかけた。プシュッという鈍い排気音とともに、化学薬品と怪しい薬草を混ぜ合わせたような、不穏極まりない匂いが室内に立ち上る。

 缶のラベルには見慣れない元素記号と『中枢神経系機能維持』というやたらと厳めしい言葉が並んでいた。


「これ……本当に飲んで大丈夫なんですか? 監察局の備蓄って時点で、毒性とか怪しいんですけど」

「毒なら真っ先に俺が死んでる。四十八時間生き延びるためのエネルギー補給だ」


 ユイは恐る恐る缶を傾け、口腔内へその濃密な液体を流し込んだ。


「――――っ!? 苦っ!?」


 一口含んだ瞬間、経験したこともない鮮烈な苦味が舌の表面を暴走した。

 ユイは盛大に顔をしかめ、喉をかき抱くようにして悶絶した。


「だろうな」


 アズはソファの背もたれに頭を預け、心底楽しそうに口元を歪めている。


「なんで笑ってるんですか……っ!」

「新人が配属されて初めてこれを飲まされる時、だいたいみんなそういう顔をするんだよ。『これ兵器ですか?』って真顔で聞いてくる奴もいる」

「監察局、組織として完全に終わってませんか!?」

「否定はしない」


 あまりにもあっさりと言い切られたため、ユイは怒る気力すら削がれた。

 口の中に広がる凄まじい苦味と強烈な渋みに耐え忍びながら渋々もう一口だけ飲む。二口目でもやっぱり酷い味だった。舌の奥に不快な金属っぽい後味が残る。


「これ普通に不味いです……人間に飲ませるものじゃないですよ……」

「だが効くだろ。我慢しろ」

「こういうのを平然と飲めるの監察局の人たちだけでは?」

「ただの慣れだ。慣れ」

「最悪の慣れ方ですね」


 ユイは文句を垂れ流しながらも、結局缶の半分ほどを気合いで飲み干した。

 するとどうだろう、液体が喉を通った直後から胃のあたりがじんわりと熱を持ち始め、頭の奥に残っていた重だるさが急速に霧散していくのが分かった。視界のコントラストが急にクッキリと鮮明になったように感じられる。

 味は絶望的だが、効果だけは恐ろしいほど覿面だった。悔しいが、これ以上文句をつける根拠がなくなってしまった。


 朝食代わりとして袋から出された固形栄養バーの味気ないパサパサした生地をかじりながら、ユイは折り畳みテーブルの上の端末を起動した。


 青白い立体ホログラムが空間にふわりと浮かび上がる。昨夜のうちに半ば徹夜同然で詰めていた、共同庭園演習の最終課題データだ。

 巨大温室内の搬送経路、危険植物の隔離用障壁、住民動線の交差ポイント、収容区画の精密な温度管理マップ。細かい数値を指先で手際よくタップし、エラーを示す赤いアラートを一つひとつ消していく。


「課題か?」


 アズがソファから身を乗り出し、興味深そうに覗き込んできた。


「はい。最終調整です。提出期限は明日ですから」

「こんな朝早くからか?」

「朝の方が頭が働くんです。まあ、きっとあの苦い液体の効果もありますけど」

「本当か?」

「本当ですよ。夜は無駄に余計なことばかり考えたくなるので機械的な作業は朝にするんです」

「……へえ」


 アズは珍しく、感心したような低い声を漏らした。


 ユイは指先をすばやく動かし、立体図面の一部をピンチアウトして拡大した。

 捕食能力を持つ危険植物――食人花を含む大型種――の収容エリアを囲むルートを少しだけ外側へ迂回させ、メンテナンス用通路の配置を組み替える。


 作業員や住民がうっかり枝の可動域に足を踏み入れないよう、成長後の想定サイズまで計算に入れて退避スペースを確保する。単純作業のようだが、こういうパズルのような整合性の構築は、嫌いではなかった。


 キーボードを叩く規則的な音だけが、狭い部屋に静かに響く。

 しばらくの無言の作業のあとアズがぽつりと呟いた。


「なあ」

「はい」

「その課題、楽しいのか?」


 ユイは一瞬だけ空中を泳ぐ指を止め、振り返らずに少しだけ考えた。


「そこそこ楽しいですよ」

「……本気で言ってるのか?」

「はい」

「人を食う植物の最適な配置と死体処理の動線を考えるのが?」

「言い方」


 ユイは思わず吹き出しそうになった。口元を両手で押さえ、必死に笑いを噛み殺す。アズは可哀想なものを見るような目で大系に肩をすくめてみせた。


「でも植物って正直なんです」


 ユイは画面へ視線を戻し、静かな声で続けた。


「正直?」

「はい。環境が悪ければ誤魔化さずにすぐ枯れるし、手をかけて世話をした分だけちゃんと育ちます。人間みたいに嘘をつかないし、見栄を張ったりもしません」

「人間よりマシってことか」

「少なくとも、突然裏切ったりはしません」


 そう言いながらユイは画面の端に開いていた作業メモのタブを見つめた。

 そこには前日に自分で確認した栽培条件や、過去の失敗例がびっしりと書き残されていた。葉の受光角度、土壌湿度、肥料の循環速度、隔離パーティションの作動タイミング。

 入力を間違えなければシステムは正しく動く。植物もその通りに応える。


 人間みたいにある日突然態度を変えたりしない。

 気分で他人を傷つけたりもしない。壊せば枯れるし、大切にすれば残る。それは下層の不条理な人間関係に揉まれてきたユイにとって何よりも分かりやすくて、安心できるルールだった。


 アズはその返事に、何も言わなかった。


 ただ背もたれに深く身体を預け、薄いカーテンの隙間から見える外の風景に視線を投げた。どんよりと垂れこめた灰色の空。高架通路を無機質に滑っていく自動搬送車。遠くに霞む高層ビルのシルエットは薄い霧に包まれて輪郭を失っている。


 音の聞こえない街だった。

 朝だというのに生活音は皆無で、まるで世界全体がそのまま静かに死んでしまったかのような静寂が広がっていた。


「……お前さ」

「はい」

「友達いたことあるか?」


 唐突で容赦のない質問だった。

 ユイの指がピタリとホログラムの途中で止まった。


「ありますよ。失礼ですね」

「……今も連絡取ってるやつだよ」


 ユイは少しの間、沈黙した。


 カーソルが画面の隅でチカチカと規則的な点滅を繰り返している。

 答えは最初から出ているのに。それを声にして空気中に吐き出すにはほんの少しの勇気が必要だった。


「……いませんね」

「だろうな」

「何ですか、その妙な納得は」

「お前、人と距離取るのが上手すぎるんだよ」

「褒めてます?」

「全然」


 即答だった。あまりにもあっさりと言い切られた。


 ユイは小さな溜息をつき、栄養バーの残りを一口かじった。口の中にパサパサとした甘さが広がる。味は悪くないはずなのに胸のつかえは取れなかった。


「だって仕方ないでしょう」


 ユイはホログラムの光を反射する画面を見つめたまま、淡々と言った。


「下層って面倒事に巻き込まれない距離感が一番大事なんですから」

「まあな」

「近付きすぎるとお互い壊れるし、離れすぎると存在ごと消える。だから誰も深入りしないんです」

「重いなあ。十代の学生がする会話じゃないだろ」

「下層学生なので」

「返しまで重いの、やめろって」


 アズは苦笑した。声の端にほんの少しだけ自嘲が混ざっているが、さっきまでまとっていた監察官としての硬い空気は薄れていた。

 ユイはその横顔を横目で見やり、小さく息を吐き出した。


「でもお前は極端すぎるよ」

「……」

「一人で完結しすぎなんだよ。自分の世界の中に鍵をかけて、誰も入れないようにしてる」


 その言葉が落ちた瞬間、ユイの胸の奥がチクリと痛んだ。


 あまり触れられたくない、自分でも見ないように閉じ込めていた場所を細い針で静かに突かれたような感覚。痛絶というほどではない。けれど確かにそこに傷があるのだと教えられるような不快な痛みだった。


 頼らない。期待しない。迷惑をかけない。自分を誰かの記憶に残さない。

 そうやって生きていくことが、この街で傷つかずに生き残る唯一の術だと思っていた。誰にも拒絶されないための完璧な防衛壁だったはずだった。


 だが、そうして頑丈に築き上げた壁はいつの間にか自分自身を閉じ込める籠になり“何でもひとりで抱え込む歪な癖”になってしまっていたのかもしれない。この街を閉ざしてしまった自分の『能力』と同じように。


 ユイは答えられずただ黙っていた。

 窓から差し込む光が、時間とともに少しずつ色を変えていく。灰白色の光が部屋の中の家具や端末の光を弱めていく。缶を握りしめるユイの指先に力が入った。


 アズはそれ以上、詰問するように追及してはこなかった。

 ただ静かに煙草でも吸いたそうな顔をしてユイの横顔をぼんやりと眺めているだけだった。何も言われず哀れみも説教もされないことが、今のユイには何よりの救いだった。


 ユイは小さく深く息を吸い込み、途切れていた指先を再び動かし始めた。

 画面のカーソルが動き出す。修正すべきデータはまだ残っている。やるべき課題があり、考えるべき手順があり、片付けるべき現実がある。


 四十八時間が過ぎればこの男のことも、この苦い栄養剤の味も、二人で過ごしたこの朝の時間も、すべて消えてなくなる。


 ――それでも。

 今この瞬間、冷え切った安アパートの狭い部屋の中には確かに自分以外の人間が吐き出す温かい呼吸の気配があった。

 それだけで昨日まで押し潰されそうだった胸の奥が、ほんの少しだけ軽く息がしやすくなっていることをユイは認めざるを得なかった。

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