9話 迷惑な事故
2日目・昼。
刻一刻と約束の時刻――四十八時間の猶予の終わりが近づいていた。
狭い安アパートの部屋には徹夜同然で取り組んでいた課題をあらかた片付け終えたあとの、独特な空虚感と重苦しい倦怠感が充満していた。
やるべき作業が手元から消え去ったことでかえって逃れようのない現実の重みが浮き彫りになる。どこか投げやりでそれでいて常に“終わり”を意識させられるような息の詰まる静けさだった。
薄いカーテンの向こう側に広がる外の風景は相変わらず無機質な灰色の塗料でべったりと塗り潰されたように寒々しい。高架通路を時折通過していく自動制御の貨物列車が、重々しい金属擦過音と鈍い振動を遠くで響かせていた。
ゴトン、ゴトン――と一定の刻みで響くその音は世界から完全に切り離され、住民の大半が異常な睡魔に落ちて微動だにしないこの閉鎖区画において残された時間を無慈悲に削り取っていく砂時計の音に酷似していた。
規則正しいその振動が部屋の床を揺らすたび、死期を告げるカウントダウンが一段階ずつ進んでいるような錯覚さえ覚える。
「……暇だな」
アズがすっかり型崩れした小さな折り畳みソファの上で、完全に長々と身体を横たえながら天井の薄汚れたシミに向けてぶっきらぼうに呟いた。
着古した黒いコートの裾が床にダラリと垂れ下がり、行儀悪く組まれた足先が空中で揺れている。監察官としてのピンと張りつめた気配はどこへやら今の彼はまるで休日の昼下がりに持て余した時間を潰しているだけのだらしがない大人だった。
「監視対象の家で言う台詞じゃないですよ、それ」
ユイは作り付けの狭い机の前に座ったまま、呆れ果てた顔で振り返った。
手元の端末には最終チェックを終えた共同庭園演習の立体図面が静かに青い光を放っている。データの整合性も、危険植物の可動域計算も、収容区画の温度差の調整も、安全対策の迂回路も、すべて完璧に組み上がっていた。
これ以上、指一本差し挟む余地のないほどに完成されたファイルだ。
だからこそ、もうやることが無くなってしまったのだ。
「だってよ。お前がさっきから脇目も振らずに課題ばっかやってるからだろ」
「学生ですから。明日までに提出しないと私の学業推薦が飛ぶんです。推薦が飛んだら、この下層から抜け出す唯一の足がかりが消えます」
「真面目だな、本当に。こんな異常事態の真っ真ん中で推薦の心配かよ」
「生きるのに必死なんです。私みたいな下層の人間が生きのびるには真面目ぶるくらいしか自衛の手がないんですよ。何かの拍子に社会から弾き出されないようにルールを守る優秀な生徒の振りを続けるしかないんです」
ユイは自分自身に言い聞かせるように、淡々と言葉を重ねた。
下層という場所は、一度足を踏み外せば二度と這い上がれない底なし沼だ。だからこそ自分の価値を証明するための「成果」に固執するしかなかった。
アズは手元の黒い監察局仕様の情報端末を無造作にいじくり回していたが、画面に不吉な赤いエラー表示が出たのか、チッと短く舌を打ちながら唸った。
「くそ……通信が完全に死んでるせいで、まともな娯楽もないな。ニュースの更新すら来ねえ。監察局の緊急回線もテキストの送受信が限界だ。これじゃ上層のくだらねえゴシップ記事すら読めやしない」
「映画ならありますよ」
「映画?」
「古いデータですけど。昔、学校の先輩から何かの拍子にもらったやつです」
ユイは椅子から立ち上がると湿気で少し歪んだ古い木製の棚の奥へ手を伸ばした。
埃をかぶったプラスチックケースの中から光を鈍く弾く丸い薄型のディスクを取り出してみせる。
「……お前、まだディスク使ってるのか? 今時こんな骨董品、上層の歴史博物館にしか置いてないぞ。再生機が生きてるのが奇跡だろ」
「オフライン環境だとこれが一番強いんです。ネットワークが完全に遮断されようが、大規模な電波障害が起きようが、物理的な記録媒体と再生機器、それと最低限の電力さえあれば動きますから」
「妙なところでサバイバル能力高いな……」
アズはソファの上で重い身を起こし、苦笑しながらボサボサの後頭部をポリポリと掻いた。
結局、他にやることも行く場所もない二人は狭く薄暗い部屋の真ん中で古い映画鑑賞会を始めることになった。
ユイは古い小型モニターにポータブルの再生機器を接続し、慎重な手つきでディスクをセットした。かすかなモーターの回転音とともに、青白いモニターにノイズ混じりの映像が浮かび上がる。
画面に映し出されたのは、数十年前――あるいはもっと前の時代に作られたと思われる、色あせたファンタジー映画だった。
現代の洗練されたインタラクティブなホログラム技術に比べればCGのクオリティもどこか稚拙で俳優たちの演技や衣装、殺陣の所作も過剰にドラマチックで大袈裟だ。
だが、そこに描かれていたのは重苦しい灰色と嫌な金属音に支配された現代の下層世界とは、まるで異なるおとぎ話の光景だった。
画面一杯に広がる、見たこともないほど澄み切った緑の草原。雲を突くようにそびえ立つ真っ白な石造りの城塞。空を優雅に舞う巨大な竜の影。
そして神から特別な力を与えられ、世界を滅ぼそうとする暗黒の存在に立ち向かう「英雄」と「魔法」の物語。
「……」
「……」
映画が始まって二十分後。
画面の中では派手な光のエフェクトと共に、豪華な刺繍の施された甲冑を着た主人公が光る剣を力任せに振り回し、迫りくる異形のモンスターたちを次々と薙ぎ払っていた。
ユイは膝の上で丸っこいクッションをしっかりと抱え込み、そこに顎を乗せた状態で半目になりながら画面を見つめている。
「……これ面白いですか?」
「分からん。展開が強引すぎるだろ。なんでこの主人公は見ず知らずの村のために命張ってんだ? 報酬の交渉すらしてない段階だぞ」
「ですよね。なんで世界を救おうとしてるんでしょうね。誰にも頼まれてないのに。自分の生活だって絶対大変そうなのに」
「『主人公』だからじゃないか?」
「雑ですね」
「昔の映画ってのはこんなもんだろ。『正義』とか『運命』とかいう大層な名目で押し切るんだよ。リアルな政治交渉とか兵糧の計算、補給線の維持なんて画面に映したら、観客が退屈して寝ちまうだろ」
アズは呆れたように言いながらテーブルの上のコップに残っていた冷めた食人花のお茶を口に含んだ。
ユイは抱え込んだクッションをさらにぎゅっと抱き締め直し、ぼんやりと光る画面を見つめたまま、小さく胸の奥から息を吐き出した。
「でも……ちょっと羨ましいですね」
「何がだ?」
「こういう“役割”がある人」
「お前だってあるだろ。学生っていう立派な役割が。毎日真面目に課題こなしてるんだからな」
「そういうのじゃなくて」
ユイの掠れた小声が、映画のドラマチックな劇伴に混ざって静かに床へ落ちた。
「……『必要とされてる』って感じです。自分がここにいていいんだって、お前が必要なんだって、誰かにハッキリ言ってもらえてる感じ」
アズの動作が、ぴたりと止まった。
コップを口元へ運ぶ手が途中で固定され、モニターの青い光が彼の彫りの深い横顔を鋭く照らし出す。
アズは無言でコップをテーブルの上に置くとそれまでの半減期の残ったような緩く軽薄な空気を一瞬で霧散させた。そして静かで底の深い低い声をユイへ注ぎ込んできた。
「……お前、それ危ない考え方だぞ」
「え?」
「『必要とされること』を自分が生きる理由にすると大抵の人間は壊れるんだ」
ユイは予想外の真摯で硬いトーンに思わずアズの顔を見つめ返した。
彼の目は画面の中で派手に展開されている戦闘シーンなど一切見ていなかった。
もっとずっと遠く彼がこれまでの凄惨な人生の中で目撃してきた「壊れていった者たち」の残影を辿っているような酷く冷めた目だった。
「……監察局での実体験ですか?」
「まあな」
アズは苦い唾を飲み込むように短く吐き捨てるように言った。
「誰かに必要とされたくて自分の限界を超えて力を使い潰した奴も、誰かの役に立つことでしか自分の存在価値を証明できなくなった奴も、俺は腐るほど見てきた。そういう奴から順に狂って死んでいく。あるいは……人間をやめて化け物になるんだ」
言葉の重みが、狭い部屋の空気をズシリと沈めさせる。
監察局という人間の異常な能力や命を文字通り「使い捨てる」組織の現場で彼がどれほどの破滅を見てきたのか。その一端が垣間見えた気がした。
画面の中では、物語が最高潮のクライマックスに達していた。
主人公が天に向けて腕を突き出すと眩い魔法の光線が周囲を包み込み、群がる敵を一瞬で吹き飛ばしていく。
現実に存在するユイの『能力』のような忌まわしく不条理な「異常現象」としてではなく誰もが憧れ、讃えるような美しく完璧な力として。
ユイは膝の上のクッションに深く顔を埋め、蚊の鳴くような声でぽつりと呟いた。
「私のは、こんな綺麗な魔法なんかじゃないですけどね。人を勝手に眠らせて、街を不便に閉じ込めるだけの……ただの迷惑な事故です」
「俺は割と好きだぞ、その呼び方」
「……魔法ですか?」
ユイが不審そうな顔で、クッションの脇から視線だけを上げてアズを見た。
「『能力』だの『異常現象』だの『危険隔離案件』だの監察局の小難しい符牒で言うよりずっとマシだ。少しは夢があるだろ」
「監察局の人が言うとなんだか酷く胡散臭いですね。怪しい宗教の勧誘みたいです」
「職業差別だろ、それ。俺だってたまにはロマンチックな表現くらい使うよ」
アズが鼻でフッと笑うと、ユイの強張っていた口元も自然と緩んだ。
二人は狭い部屋の中で顔を見合わせて、小さく声を詰まらせるようにして笑い合った。
モニターの中の物語はいつの間にか大詰めを迎え、ハッピーエンドの明るい音楽とともに、黒い画面へスタッフロールが流れ始めていた。
二人の頭には映画のストーリーの細部などほとんど残っていなかった。
ただ古びたモニターが放つ明滅する光と、外の冷気から守られた狭い部屋の中で確かに共有した微かな温もりだけがそこに残っていた。
スクリーンから放たれる青白い光が、黒いスタッフロールのスクロールに合わせて部屋の壁を淡く揺らしている。
アズはソファに背もたれたままその光の明滅をただぼんやりと眺めていた。
「もうすぐ四十八時間か」
アズが呟いた。その声には先ほどまでの軽口の余韻も監察官としての硬さもなく、ただ素朴な時間の経過を確かめるような静けさがあった。
「そうですね」
ユイは膝の上のクッションを抱え直した。
この映画が終われば。このスタッフロールが流れ切ってしまえば。自分たちを繋ぎ止めていた仮初めの猶予期間は終わりを迎える。
次に待っているのは監察局による処置であり、自分の記憶の処理だ。
この狭い部屋で二人で過ごした苦い栄養剤の味も、くだらない映画の感想も、食人茶の毒味のやり取りも。
すべてはユイの頭の中からきれいに消し去られ、存在しなかったことになり、ただの「処理済みの案件」として監察局のデータベースの底に埋もれていく。
それは最初から分かっていたことだった。
自分で納得して受け入れたはずの条件だった。
なのに――胸の奥が、冷たい水に浸されたように静かに痛んだ。
「お前さ」
アズが画面から視線を外さずに言った。
「消されるの、本当に怖くないのか?」
「……怖くないって言ったら嘘になりますけど」
ユイは自分の指先を見つめながら素直に言葉を紡いだ。
「でも覚えている方が怖いかもしれません。自分が街を閉ざしてしまったことも、アズさんに迷惑をかけたことも……全部覚えたまま生きていくのは私には重すぎますから」
「……お前は本当に物分けが良いんだか悪いんだか分からんな」
アズは息を深く吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。
背筋を伸ばすと彼の影が部屋の壁に大きく伸びる。
映画はすでに終わり、モニターは真っ黒な画面のまま微かな電子音だけを響かせていた。
残された時間は、あとほんのわずか。
二人は何も言わず、ただ静まり返った部屋の中で外から響く貨物列車の重い金属音に耳を澄ませていた。




